周泰は、TEAM呉の中でも並外れて背が高い。
そんな周泰の仕事として、定着していることが一つある。
時には太史慈がその任に当たることもあったが、今は大体、周泰がその任に当たっている。
その任とは、棚からの荷物下ろしだ。
スペースを有効活用するという観念から、TEAM呉のフロアに置かれた棚の大体は、すべて天井近くまである。わずかな隙間には地震対策用のジャッキが設置されているくらいで、その高さだけでもかなりのものだ。
いわゆるティーンズ向けの商品を主力商品としているTEAMのせいか、女性陣の服装はスカートが主力で、履いている物もミュールや華奢なパンプスが多い。
とても脚立に乗って重いものを下ろす、というような仕事には向かず、よって男性陣の、中でも脚立を必要としないで済む周泰が活躍する、という次第だった。
「周泰係長〜!」
立ち話とは言え打ち合わせ中の周泰に、甲高い声でお呼びが掛かる。
周泰は孫権に一礼し、呼ばれた方へと歩き出した。
孫権としてもあまり嬉しくはないが、面と向かって注意する程のことでもない。本当に重要な打ち合わせなら会議室なりを使うし、相手もそれを分かっていて周泰を呼んでいるのだから尚更だ。
同席していた陸遜も苦笑するが、念押しの形式ばかりの打ち合わせだったから、後にしろとも言い難い。
売り尽くしと称してセールを行う予定があるからか、ここ最近、担当の女性陣はぴりぴりしている。触らぬ神に何とやら、だ。
「棚卸をすることになると分かっているのだから、もう少しそれなりの格好をしてくればいいだろうに」
おさまりが付かないのか、愚痴る孫権を陸遜が宥める。
「ですが、彼女達がセンス良く着飾ることで、社の内外問わずTEAM呉の宣伝を担うことにもなります。スーツと違って、着る機会も多いだけに気合いを入れる度合いも変わってきますから、なかなか侮れません」
陸遜の言葉は、今やK.A.Nの中心たるTEAM魏に対しての当て擦りでもある。
スーツを主体商品としている魏では、販売ルートは確実だが伸ばし難いという難点がある。
その点、TEAM呉の販売ルートは無尽蔵と言っていい。スーツを着ない層が居ても、普段着を着ない層はないからだ。
魏を引き合いに出すことで孫権の苛立ちを静めようとしたのだが、これは上手くはまったようで、孫権も渋々ながら口を閉ざした。
と、その時、二人の間にひょっこりと顔を出した者が在る。
「孫権部長、これ、デザイン室倉庫の見本布地一覧と在庫の確認表です。確認印、お願いします」
御苦労、と何気に見遣った孫権は、思わず声を高くした。
「どうした、その顔は」
「え?」
陸遜も同じく驚いている。
確認印を求めてきた女性の頬には、擦り付けられたようにべったりと黒い染みが張り付いている。
指摘され、手の甲で擦ってそれと分かると、女性は困ったように苦笑いした。
「棚の奥の方に、押し込まれてた奴があったんで。それ見てたから、たぶんその時擦っちゃったんですねー」
平気の平左で嘯く女性に、孫権は妙に納得したように深く頷いている。
陸遜は苦笑いして、ハンカチを差し出した。
「その辺の男性社員を呼んで、出してもらえば良いでしょうに」
女性は笑いながら丁重にハンカチを断ると、ひらひらと手を振りながら歩き出した。
「この服の生地、汚れが落ちやすいとかいう新商品なんですよ。テストも兼ねてるし、それに私、思い付いた時にさっさと自分でやっちゃう方が楽なんです」
確認印お願いしますねー、と言い残し、女はフロアを出て行った。
「誰だったかな、あれは。見覚えはあるのだが」
孫権は、機嫌良さそうに女性の立ち去った方を見る。
男女の区別なく勤務熱心な者を好む性質だけに、仕事に対して好悪なく、さばさばと取り組める者は覚えておきたくなるのだ。
「……です……」
返答は思わぬところからもたらされた。
「……パタンナーの一人で……あまりこちらには……ですから、孫権様が存じ上げぬのも……」
「無理はない、か。成程な」
パタンナーというのは、簡単に言ってデザイナーの起こしたデザイン画を立体化する、型紙を作成する者の名称だ。
パタンナーの力量次第では、折角のデザインもゴミ屑と化す。
そのくせ日本ではあくまでデザイナーの補佐として扱われることが多く、重要な割に地味な職業と言って良い。
孫権は事務方面のスペシャリストなだけに、デザインブースの方には疎くなりがちである。
デザイン画を手に直接打ち合わせに出席するデザイナーとは違い、ブースに籠ることが多いの名を知らなくても仕方がないと言えた。
「とは、同期か何かか?」
「……いえ……」
周泰が戻ったことで打ち合わせが再開し、話はそこで仕舞いとなった。
人気のない倉庫から、細く明かりが零れていた。
重い扉は音を消して開くことを許さず、きしんだ音が広い空間に響き渡る。
「……え、あ、あれっ」
がたた、と不穏な音が立ち、音が一瞬掻き消えた。
静寂を打ち破るように大きな破壊音ががなられ、その後しばらくどさどさと落下音が続く。
「あ、たた……」
段ボールの蓋が開いて、中から詰め込まれた布地や服が散乱している。
倒れた脚立が偶然屋根のようになって、段ボールの直撃を防いでくれたようだ。
とは言え、布の重みというのは想像するよりもずっと重い。
直撃していれば大怪我は免れず、かすり傷と打ち身で済んだのは大変幸運だったと言える。
不幸中の幸いを生んでくれた脚立を押し退けようとすると、どれだけ律儀なのか自ら退いてくれた……りする訳もなく、そこには脚立を手にした周泰が立っていた。
「何だ、周泰係長だったんですか」
は苦笑いしながら起き上がり、手をはたいて埃を落とす。
「こんな時間に、誰かと思っちゃいましたよ」
こんな時間と言うのなら、こそこんな時間まで何をしているかと責められるべきだろう。
終業時間もだいぶ過ぎ、そろそろ終電を心配しなくてはならない時間になろうとしていた。
「ああ。限のいいとこまでと思ってたら、遅くなっちゃって。いざとなったら、泊ってくつもりでしたし」
言いながら、散乱した布地や服を片付けていく。
に倣って片付けに加わろうとした周泰だったが、にすげなくあしらわれてしまう。
「いいですよ、私がやったんですから。それよか、周泰係長、もう帰らないと電車なくなりますよ」
ほらほらと手で払われるが、周泰はむっとするのみですぐに段ボールを起こし始める。
「いいですって。私は、いつでも泊る準備してあるんですからー」
邪険という程ではないものの、の口調はそれなりきつい。けれど、周泰は懲りずに手伝おうとして、また止められる。
「……戻せまい……?」
段ボールが落ちてきた棚は、最上段でこそなかったがそこそこ高い段になる。脚立を使ったところで引っ繰り返るのがオチだ。
「そのまんま乗せようとしたらダメでしょうけど。先に箱載せて、その中に戻せば大丈夫ですよ」
発想の転換だとは笑う。
周泰の顔は、だが曇っていた。
「……何故……俺を使わない……」
意外な言葉に、の表情が初めて素に戻った。
「使わないっていうか……だって、頼まなくても出来ますし……」
困惑を露にしたに、周泰は無言だった。
「……そうか……」
「……はい……」
周泰はそのまま立ち去り、は胸の内にもやもやしたものを抱え込みながら作業を再開させた。
脚立を立て直し、段ボールを戻してから布地や服を抱えて脚立を上り、詰め込んでいく。
少しばかり、否かなり面倒な作業と言って良かった。詰め直した段ボールを直接積んだ方が、ずっと楽に違いない。
だが、それをするにはの腕力は非力に過ぎた。
それでも、周泰を呼んでやってもらおうという気にはどうしてもなれない。
「……だって、この倉庫、フロアから遠いし」
ぶつぶつと言い訳が漏れる。
「その辺に男性社員なんて、居る訳ないし」
倉庫に常駐するような男性社員が居たら、それはさぼり以外の何者でもない。そんな連中が、を手伝って重労働に従事してくれるとは到底思えなかった。
「どうせ、一人で出来ちゃうもーんだー」
性格からか、は男の知り合いが極端に少ない。
ファッション業界ともなれば、男性比率はそこそこ上がる訳なのだが、どうも緊張するらしくすぐに生意気な口を聞いてしまう。同僚や後輩のように、可愛く『お願いしまぁす』などと甘ったるく伸ばした語調で依頼するなど、出来そうにない。
やってみたことは、実はあったりするのだが、普通に『アンタそれぐらい自分で出来るだろ』と呆気なくスルーされてしまった。
以来、誰にも頼らず自力でやっている。
期待するだけ損だと、諦めているのだ。
一箱分をようやく詰め終えて、新たな箱を棚に上げようと視線を下に向ける。
いつの間にか周泰が戻って来ていた。
ぎょっとして体が強張り、バランスを崩してしまう。
転倒はしなかった。
周泰が、支えてくれていた。
「あっ……有難う、ございます……」
噛み噛みだが、何とか礼を言った。
しかし、負けん気が滲み出てまた憎まれ口を聞いてしまう。
「……帰ったんじゃ、なかったんですか。驚いちゃって、また落っこちそうになっちゃったじゃないですか。いい加減、もう二度目ですよ」
周泰は素直に、すまん、と詫びて寄越した。
謝られてしまったことで、はますます引っ込みがつかなくなってしまう。
誤魔化すように唇を尖らせると、邪魔だと言わんばかりに周泰の傍に転がった箱を持ち上げる。
よっ、と勢い付けて持ち上げた箱を、周泰ががっちりキャッチした。
「……いや、あの」
「……手伝う……」
「いや、いいですから」
「………………」
無言になった周泰は、しかし箱を持つ手から力を抜こうとはしない。
何なんだ、と眉間に皺を作る。
「仮眠室で二人並んで寝ることになっちゃいますよー」
軽口のつもりで言った言葉に、周泰はこくりと頷いた。
嫌みも兼ねた軽口だったので、まさか周泰が頷いて来ようとは思わない。頭の中が真っ白になって、何も言えなくなってしまった。
その隙に周泰が箱を取り上げ、置こうとしていた場所にひょいと置いてしまう。
脚立など、一段たりとて使いもしない。
は不機嫌を装って、中に戻すべき布を抱えて脚立に上る。
詰め終わり、残りの布を取ろうとして脚立を降り掛けると、周泰がその布を差し出していた。
仕方なく受け取り、箱に詰める。
また周泰が布を差し出している。
受け取り、詰める。
流れ作業の形になってしまい、も文句が言えなくなってしまった。
「係長も、物好きですよねー。ホントに終電、なくなっちゃったんじゃないですか」
沈黙が重く、が口を開く。
憎まれ口にも、周泰はただ頷くのみで腹を立てた様子もない。
「……まぁ……助かります、けど……」
会話も途切れがちで、も遂に諦めて素直に礼を言った。
途端、周泰の口元が微かに綻ぶ。
荷を受け取ろうとしてその周泰の笑みを直視してしまったは、予想外のことに絶句し、次いで顔を真っ赤にした。
「……お前が……言ってきたのなら……すぐに、手伝ってやるつもりでいた……」
そっぽを向いたの肘の辺りに、周泰が差し出す布が触れる。
押し付けられるでもなく、だんまりを決め込んでそこに留まる布の存在感は、に話の続きを聞けと強制しているかのようだった。
受け取らざるを、得ない。
そっぽを向いたまま掴んだ布は、何故かびくともしなかった。
思わず振り向いたの眼前に、周泰が間近に迫っていた。
「周泰係長〜!」
甲高い声が周泰を呼ぶ。
しかし、周泰はそちらに向けてふるふると首を振ると、再び打ち合わせの書類に目を落とした。
孫権と陸遜が、不思議そうに周泰を見遣る。
「あの……」
がフロアに現れ、孫権に書類を差し出した。
その手に包帯が巻かれているのを見て、孫権の表情が曇る。
「どうした」
「……あ、いえ、昨日、ちょっとドジして……そんな痛くはないんです。一応、仕事に響くと困るから」
湿布臭い手を慌ててばたばたと振り、たいしたことはないとアピールする。
如何にも大袈裟で、何かおかしい感じがした。
「いかんな。……しばらく棚のものを調べたり上げ下げする時は、周泰に頼むと良い」
「あ、いえ」
慌てるの肩を、周泰が抱く。
「……行って参ります、孫権様……」
「い、いや! 今は、ないですから! ホント、ないですから!」
喚くを無視して、周泰はフロアを出て行く。
無論、を連れての話だ。
呆気に取られて見送っていた孫権だったが、はたと気付いたように口を開いた。
「そう言えば、周泰が荷物下ろしをするようになったのは、最初からではなかったな」
強面故に頼みごとをされ難い周泰だったから、自ら溶け込もうと努力してのことかと思っていた。
「……うむ、そう言えば確か、が入社した年から、だったな。周泰が荷物下ろしをするようになったのは」
「お調べになったのですか」
陸遜がわずかばかり呆れて問うと、孫権は苦笑して照れ隠しのように書類の端を繰った。
「何、どんな経歴か、見ておこうと思ってな。人材は何よりの宝だ。それに、この国ではいざしらず、欧米ではパタンナーの地位は高い。下手に引き抜きでもされたら、敵わんからな」
あの様子なら大丈夫だろうと嘯く孫権に、陸遜はどうだろうと思いつつ、そう言えば、昨日の周泰は何だか慌てて戻ってきたようだったが、あれはを見つけてのことだったのだろうかと密かに笑みを漏らすのだった。
終