張遼がフロアに戻ると、既に皆退席した後だった。
常と変わらぬ光景ではある。
張遼の所属するTEAM魏では、無駄な残業は悪という考え方が徹底されていた。
だらだら居残って残業代を稼ごうという不逞の輩は、即刻チーム転属を余儀なくされる。
自身のスケジュール管理もできない惰弱な輩も、当然その対象に含まれる。
だから、TEAM魏のフロアにおいて、終業時間以降に人影を見ることはまずない。
しっかりとした理由さえあれば、残業したとて問題は何もないのだが、敢えて残業しない者の方が圧倒的に多かった。
仕事がこなせなければ結局追い出されることになるのだが、人の心理は不思議なものだ。
皆がそうなら我も我もと続かねば、何故か不安になってしまうらしい。
張遼は、数少ない『堂々残業を強行する人間』の一人である。
ほぼ毎日残業しているから、TEAM魏の中では相当浮いた存在だった。
ただでさえ他TEAMからの転属組であるので、張遼に対しては排斥こそしないものの、壁を作って外巻きにする者は少なくない。
張遼自身に気にした様子はなく、それで余計に孤高な立場を確としているようだ。
ふと、張遼の視界の隅に鮮やかなオレンジ色が留まる。
黒いシールで顔が象られた、カボチャ形のケースだ。
蓋を持ち上げると、中には小さなチョコレートや飴がカラフルな包装紙に包まれ詰められている。
下敷きになった二つ折りのカードに気付き、開くと、そこには『HAPPY HALLOWEEN』の文字と共に『いつもお疲れさまです』との労いの言葉が添えられていた。
張遼の口元に微笑みが浮かぶ。
ことん。
小さな音がして、張遼の微笑は淡雪よりも早く消え去った。
尋常ならざる速度で音の方向へ詰め寄ると、即座に腕を捻り関節を固めて自由を奪う。
「いった……!」
悲鳴を上げたのは、同じTEAM魏所属のだった。
誰も居ないと思い込んでいたのは、常日頃の経験による刷り込みによるもののようだ。
だと確認してすぐ、張遼はを束縛する手から力を抜く。
涙目のは肩をさすりながら立ち上がり、深く頭を下げた。
「……すみません、何か、つい隠れちゃって……」
何故隠れる必要があるか。
張遼はいぶかしくを見つめる。
お陰で社屋荒らしと間違ってしまった。見せなくとも良い痛い目を見せたことで、少々気が咎めてもいる。
視線から張遼の疑問を覚ったは、頭を掻きながらちらりと張遼のデスクを見遣る。
それで張遼にも分かった。
一旦デスクに戻ると、カボチャのケースを手にの元に戻る。
「これは、そなたが」
は頬を染め、こくりと頷く。
「……みんなが帰ってから、と思ったんですけど……今日に限って何人か残ってて……それ待ってたら、今度は張遼部長が戻ってきてしまって」
「そなた、残業していたのか?」
何気ない切り替えしに、は青ざめた。
「しっ、してない、ないです! ちゃんとタイムカード、押してから待ってました!」
何もそこまで否定することもあるまい。
張遼が指摘すると、は今度は顔を赤くした。
「……だって、これでもし転属なんかさせられたら……私、嫌です……」
消え入りそうなか細い声は、微かに震えていた。
張遼はしげしげとを見つめ、静かに足を踏み出す。
「そうか……そなたの気持ち、よく分かった」
「え」
赤い顔が更に赤くなり、張遼を見つめる目は潤みを帯びる。
の目を張遼は間近に見つめ返し、の肩に手を回す。
二人の距離が近くなり、はうるさい自分の心臓の音を聞きながら、そっと目を閉じた。
「その忠信、見事!」
ぱち。
目を開けると、酷く感心したような張遼がうんうんとしつこいくらい頷いていた。
は、自分が滅茶苦茶勘違いしていたことに嫌でも気付かされた。
恥ずかしさと居たたまれなさに穴を掘って埋まりたい衝動に駆られるにも気付かぬようで、張遼はの肩をぽんぽんと叩いてその忠信を讃えている。
上機嫌の張遼は、プラケースを開けてチョコレートを一つ摘み取ると、の手に乗せた。
自分の分も一つ摘むと、包装紙を丁寧に解いて口に含む。
は手のひらのチョコレートと張遼の顔を見比べながら、溜息を一つ吐いて包装紙を破った。
とろけるチョコレートの甘みに癒されながら、前向きに、誰も居ないフロアで張遼と並んでいる行幸に浸ることにする。
人を寄せ付けない雰囲気を持つ張遼と、こうして世間(?)話ができるだけで奇跡に近い。
他の隠れ張遼ファンが聞いたら、何をされるか分からないくらいには奇跡だった。
プラケースをいじっていた張遼が振り返る。
「何故、これを私に?」
気が緩んだところでいきなり確信を突かれ、は思い切り吹き出した。
げほげほむせて、醜態を晒すの背を、張遼は無言で擦ってくれる。
張遼の思考・行動パターンがあまりに読み取れず、は複雑な気持ちを持て余す。
告白するなら今なのかもしれないが、告白したところで伝わるかどうか。
張遼の手の中のカボチャが、悩むを愉快そうに笑っていた。
終