「もーまんたい!」
 口から咄嗟に飛びだしたのは、発音も定かではない怪しげな言葉だった。
 事故だ。
 乙女要素の欠片もないが、今年に限って手作りにチャレンジなどという無謀な真似を仕出かしたのも、出会い頭にぶつかった衝撃でチョコレートケーキが箱ごと潰れたことも、すべては意図なき事故のせいだ。
 何も曹丕が悪い訳ではない。
 だからも、曹丕が何事か言い掛けるのをドリフの退場テーマで遮り、その場を後にした。

 ところで、本日は13日の金曜日である。
 今年のバレンタインデーは土曜日に当たると言うことで、土日が休みのK.A.Nでは必然的に繰り上げが行われ、今日がバレンタイン代替日、という雰囲気だった。
 それはいい。よくあることだ。例えば、14日が日曜日だったら自然に12日に繰り上げ(繰り下げというのはあまり聞かない気がする)となるだろう。
 が。
 よくは分からないが、そも13日の金曜という奴はあんまりいい日ではないらしい。そしてを担当する神様もどうやらそのことが念頭にあったらしく、フロアに戻ったに更なる艱難辛苦が待ち受けていた。
「……
 青ざめた顔で現れたのは曹仁課長だった。
「自分はお前に、何かしていたのか」
 へ、と素っ頓狂な声を上げるを、曹仁はじっと見詰める。
 何のことか一向に分からず、黙って曹仁の視線を受け止めていると、ややもして曹仁は深い溜息を吐いた。
「……そうだな、お前に悪意がある筈はない。自分はどうも、気が弱って埒もない被害妄想に陥っていたようだ……」
 一人勝手に納得し、に背を向けてフロアを出ていく曹仁は、心なしか足元がふらついていた。
 風邪だろうか。
 普段から決して弱音を吐かない人だから、具合が悪い時ぐらい皆に甘えて早退しても良かろうに、と思う。
 改めてフロアに向かおうとしたを、今度は夏侯淵が出迎えた。
「よう、。お前、あの中に何入れた」
 何の話だ。
 唐突過ぎて理解が出来なかったが、夏侯淵がひょいと摘まみ上げた袋を見て合点がいく。
 が配った袋だ。曹丕に渡したかったものと同じもので、やはり手作りの菓子が封入されている。
「えー? 食べられないものなんか、使ってませんよ?」
 漫画じゃあるまいし、とが付け足したのを耳聡く聞き付けた夏侯淵は、にーっこりと笑顔で素敵な追及を開始する。
「ンなら、お前ぇにゃ天性のテロリストの才能があるってこったな。フードテロリスト、こいつぁ、ちっとばかし厄介だぜ……」
 シリアスに悩んで見せるが、目が笑っているのがモロ分かりだ。
「だから、何の話ですか。もう、失敬だなぁ」
「何が失敬だ、そこまで言うんなら、あの中に何入れたか言ってみな」
 そこまで言われて、どうやら夏侯淵がただふざけているのではないらしいことが知れる。
 は遅ればせながら冷や汗を掻き始めた。
「え、えーと……料理の本見ながら作ったんだから、そんな筈は……」
「おぉよ。でも確かお前ぇ、『色々工夫したから』とか何とか言ってやがっただろ。原材料はいい、どーせバターだの小麦粉だの卵だのだろ。その、お前ぇが工夫した材料たら何やら、言ってみろよ」
 実は、は夏侯淵が言う『原材料』の時点で思い出せずに居たので、内心夏侯淵に拍手をしたい衝動に駆られていた。
 しかし、今は何やら問題になっているようでもあるし、本当に拍手したら怒られて頬っぺたむにむにされそうだったので黙る。
 代わりに、『工夫の数々』の記憶を辿った。
「えーと……カルシウム補おうと思って、卵の殻すり潰して入れて……」
「……ほう」
「甘味を引き立てる為に塩をちょこっと多めに混ぜて……」
「……ほうほう」
「パンチが欲しいかな、と思って、粒コショウ入れて……あ、もちろんチョコチップも入れましたよ?」
「何が勿論なんだかよく分からねぇが、ほう」
「後は……あ、口当たり少しまったりしたらいいなと思って、解き片栗粉も少し」
「……まったりってなぁ……」
「後は……」
「まだあんのか」
 もういい、と夏侯淵に止められて、は口を閉ざす。
 何やらイカンことをしてしまった空気を感じるのだが、は何がイカンかったのか分からずに居た。
 だってカルシウムは大切だし、西瓜には塩掛けるし、コショウのクッキーはが好きな菓子だし、そちらの同系統レシピに従って一味とかも入れてはみたが、でもバレンタインだしチョコチップも入れる心配りをして、解き片栗粉は実は何だか生地の粘りが足りないような気がして急遽足したという思い付きだが、無味無臭なのだから味に問題はなかろう。
 夏侯淵は複雑な顔をして、何事か考え込んでいる。
「……よし、お前ぇ試しに一口食っとけ」
「えー?」
 自分で作ったものを自分で食べるのも物悲しい気がする。
 まして、これはバレンタインにと気合いを入れて作った代物であるからして、何が悲しくて自分で食べなくてはならないのか。
 文句を言いたいところではあるが、物凄いプレッシャーを感じては黙る。
 夏侯淵は、普段は気さくで優しい上司だが、怒らせたらもうスンゴイのだ。
 恐る恐る摘まみ上げ、小さく齧る。
 砕けた欠片が口の中に広がって、味蕾から神経を伝ってその『味』をの脳に送り込む。
 一言で言うならサイケデリック。
 視界が揺らぎたわみ歪み、いい具合にへべれけになり掛けた。
 一瞬にして千鳥足になったに、夏侯淵は淡々と状況を説明してくれた。
 現在、被害者は三名。
 何も考えずに一気に口の中に流し込んだ許猪が昏倒し、尋常ならざる顔色に典韋が血相変えて医務室に運んだそうだ。
 すわ、毒物かと色めき立つフロアにあって、徐晃は許猪がのチョコを食べた直後ということを見届けており、まさかと笑い飛ばして周囲を諌めようとわざわざ第二の犠牲者への道へ突進(有体に言うと食って倒れた)した。
 これは間違いないと血相を変えるフロアを制し、年頃の娘が健気に作ってくれたものに文句を付けるとは、と正義漢の強い曹仁がほれこの通りとばかりに齧って、先程の有様である。
 夏侯淵はをびしっと指差した。
「フードテロリスト」
「……えーと……」
「何か言いたいことでもあんのか」
「……ありません……」
 すっかり観念したへ、夏侯淵の説教が続けざまに投下される。
 慣れない料理を始めるのを咎めるつもりは毛頭ない、ないがやるなら基礎からやれ、無駄な創造意欲はせめて慣れてから発揮しろと、それはそれは耳が痛い。
 いちいちごもっともで、には逆らう気力も残されなかった。
 それにしても、の神は良い働きをする。
 13日の金曜日故の災難かと思って居れば、その実をぎりぎりセーフゾーンに残してくれた。
 他の者にはチョコクッキー、密かに本命の曹丕には、格段に気合いを入れたチョコレートケーキを焼いたのだ。
 気合いは主に夏侯淵曰くの『無駄な創造意欲』に表れていたので、もしうっかり曹丕の口に入っていたら、下手をするとこの年で殺人犯になっていたかもしれない。
 良かった。
 ありとあらゆる意味で、良かった。
 泣き笑いするに、夏侯淵の説教が途切れる。
 途切れたついでに青くなる。
 気付いたが、夏侯淵の視線を辿るように背後を向いた時だ。
「…………?」
 容姿端麗、その分どす黒いオーラが一層際立つTEAM魏の誇る美女、甄姫がそこに立っていた。
 額にびしびしと浮かぶ青筋が、甄姫の怒りの程を表している。
 曹丕に心酔するが故に、曹丕専用バレンタインの高き壁と揶揄される甄姫のことだ。の後ろめたい行動など、疾っくの疾うに察知していたことだろう。
 やっぱり神、役に立たない。
 思わず逃げ出そうとしたのが最悪の駄目押しになった。
 甄姫はへっぴり腰のを素早く捕らえると、夏侯淵に『借りますわよ』と宣言するのみで、の意志など無視無視無視でフロアを出て行った。

 滅多に来ないフロアに連れて来られ、は内心がくぶる震える子羊だった。
 甄姫のビンタなど食らった日には、頬の肉がもげてどっかに持ってかれるのではないかと真剣に怯える。
「お入りなさい」
 重いドアを軽々と開くと、捕まえたまま決して離さずに居たの襟首を中に向かって放り出す。
 駒のようにくるくる回りながらもしゅたっと決めポーズを付けて止まった(内心喝采)は、目の前に立つ曹丕に目を丸くした。
 まさか居るとは思ってなかったから、ということもあるのだが、それより何より、曹丕の格好に度肝を抜かれる。
 曹丕は、エプロンを付けていた。
 たかがエプロンと思うなかれ、どっから見付けて来たんだとリサーチ掛けたいような、純白のフリルフリフリのエプロンドレスだったのである。
 簡単に言えば、メイドさんのアレ。
 それを、スーツの上は脱いでいるものの、律儀にダークグレーのベストもネクタイもそのまんまな曹丕が真顔で着込んでいるのである。
 何でしょうコレ。
 ギャップ萌えって言っていいの?
 曹丕タンハァハァ?
 麻痺した脳みその中に響き渡る声は、幸いにも口腔を抜けて発音されることはなかった。
 訝しげに首を傾げる曹丕は、前向きにが怒って黙っているのだと捉えたらしい。短く詫びると共に、に今の現状を解説してくれた。
 それによれば、故意でないにせよのケーキを駄目にしてしまったことに責任を感じた曹丕は、甄姫に同じものを用意するように命じたそうだ。
 秘書という職務柄、贈答にも用いられやすい菓子への造詣はそれなり深い甄姫は、の落としたチョコレートケーキをホームメイドと即座に判断した(あのようなケーキを作る店は、潰れてしまえと思われますわね、とは後日の甄姫談)。
 手作りと聞いた曹丕は何故か酷く感心し、ならば手作りで応じなければならぬと明後日の方角にずれ込んだ決意を固める。
 手作りには手作り、つまり曹丕自らがケーキを焼くと言うのだ。
 しかも明日は休日である、出来得る限り早めに作成しなければならぬとまで取り定め、甄姫にの確保を命じた次第である。
「そ、曹丕様が私の為に……?」
 思いも寄らぬ事態に、の指がサムズアップされる。
 パニック故の行動で、まったく意味はない。
「気にするな」
 曹丕は相変わらず、明後日というより明々後日の方向に向かって着々と邁進しているようだ。
 急がねばならぬとばかりに、チョコレートを刻んでいたりする。
 でもそのチョコレート、いったい幾つのケーキを焼くつもりなんですか、何かでっかいボールに三つ四つ山になってますけども。
 の無言の突っ込みは、甄姫の声に打ち消された。
「こちらは、貴女のですわ」
 何やら白いものを渡される。
 曹丕と同じエプロンドレスと、広げてようやく知れた。
 へ、と状況を呑みこめないは、甄姫の背後に漂い始めた黒オーラに竦み上がる。
「あ・な・た・も! 我が君と一緒にケーキを焼くんです!! 何の為にこの調理室を借り切ったのだと思ってらっしゃるの!」
 張り上げていないのにびりびりと肌が震える声に、は拒否するを許されなかった。
 甄姫曰く、が曹丕を害そうと思っているのでなければ、ここで人畜無害のケーキを作り、甄姫のお墨付きにした上で渡せ、ということである。
「……え、あ、あの……?」
「貴女のお焼きになったケーキ、あれ、人が殺せますわ。軽く」
 軽く言われましたが、軽くですか。
 泣きたくなったが事実は事実である。証拠ならぬ証人(兼被害者(複数))も居る。
 犯した罪は、償っても消えないのが世の常だ。
 気分はすっかり島流しだったが、うやむやの内に曹丕にチョコレート渡してもいいという流れになっているのだから、結果オーライというところか。
 曹丕は未だチョコレートを刻んでいる。
 その隣に立って小麦粉を篩ったり卵を割ったり甄姫に怒られたりしながら、は、これはこれでいいかもな、と思い始めていた。
 本日の仕事をぶっちぎってしまうことになるので、後が怖い気がするが、この至福の時間には変え難かった。
 合間合間に話をすると、曹丕は二つ、に返す分と、甄姫に礼の代わりに贈る分を焼くらしい。
 それでも、まぁいいか、と思えた。
 甄姫にほとんど手伝ってもらってしまって、正直お手製とは言い難いが、来年には必ず一人で毒性のないケーキを作ってみせるから、今年はまぁいいことにする。
 曹丕の刻んだチョコレートは多過ぎてかなり余っているようだったが、それもまぁ、いい。
 さすがに限界と包丁を取り上げられた曹丕と二人、並んでオープンの中のケーキを見張る。
 オープンから漏れ伝わる熱気が、微かに触れ合った膝が、恥ずかしい程に温かく感じられた。
 は、神、最後にいい仕事をしたなと褒めてやることにした。

  終

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