泊り込み作業を何日かしていた。
さすがに限界も近かったが、昨日ようやく終わる目途が付いた。
他のスタッフは皆一度家に帰るなり、仮眠室で爆睡していたから、今日も泊り掛けで作業を続けているのはチーフの凌統とぐらいのものだ。
明け方近いこの時間、は淹れ立てのコーヒーをポットごと運搬中だった。
ポットごと持ってこなくてはならないぐらい、凌統の牛飲振りはそれはそれは見事なのだ。
被服室にもコーヒーメーカーはあるのだが、生ゴミがとっ散らかるのを嫌って給湯室で作ってくる。
扱っているものが布だから、確かに生ゴミと惨劇を起こす訳にもいかず、移動の手間はあれど文句はなかった。
「チーフ、コーヒーですよー」
「あぁ、そこに置いといて」
保温器代わりと化したコーヒーメーカーに置くと、スイッチを入れる。
「……やっぱ、一杯もらえるかい」
凌統が顔を上げると、目の前にコーヒーがなみなみ注がれたマグカップが差し出されていた。
「どうせ、そう言うだろうと思ったんです」
「……よくお分かりで」
おどける凌統に、は嫌味たらしく腰を落としてお辞儀を返してやった。
昨日今日の付き合いではないから、凌統の行動パターンなどお見通しなのだ。
底に一口分ほど飲み残しのあるマグカップを取り上げ、コーヒーメーカーの脇に置いた。
後でポットを片付ける時、一緒に片付ければ良かろう。
思えば、凌統とはおかしな付き合いをしている。
近所のよしみで学校も同じ、延々と顔を突き合わせて育った仲だった。
高校卒業を機に玉砕覚悟で告白し、そして本当に玉砕した。
血の繋がってない妹としてしか見れない、と言われ、確かにそんな気がしていたからか取り立てて衝撃もなかった。
それに、内緒で教えてくれたのだが、凌統にはその時付き合っていた彼女がいたのだ。
あまり表立って付き合わない性質らしく、K.A.Nに入社して同じTEAMの先輩後輩として再会した時も、こっそり付き合っている彼女が居た。
を振った時とは別のひとだった。
垂れ目のくせに、意外ともてるのだ。
それはそれ、これはこれで割り切って、は仕事に勤しむことにした。
隠してくれるならさして気にはならない。実際気配も感じさせないでくれたから、も一々気にしないでいられる。もしも凌統が彼女の存在を惚気て回るような性質だったら、も会社に長くは居られなかっただろう。
元々裁縫の類が好きで、その腕を見込まれて内定をもらっただったから、すぐにTEAMに馴染むことが出来た。
仲良くなった先輩から聞いた話だが、凌統は、周りの皆にが幼馴染だと早々にばらし、俺の妹だから可愛がってやってくれと吹聴していたらしい。
たぶん、凌統は親切心でそんなことを言ったのだと思う。
引っ込み思案なところがあるが、早く会社に慣れるように気を回してくれたのだろう。
けれど、封印したままのの気持ちは、悪くしたことにあの頃とまったく変わらないままだった。
そんなことをしなくても、もう言わない。
凌統に告白してから、は自分の気持ちを封印することに決めたのだ。
あんな困った凌統の顔を見るのは、もう嫌だった。
好意を嫌味としてしか受け取れない、いじましいやっかみ根性だと、は自分で自分を張り飛ばしたものだ。
それで踏ん切りを付けた。
もう期待しないと、諦めたと、は長い恋に終止符を打った。
ずっと妹で居ようと決めた。
の恋は誰に知られることもなく風化して、職場に慣れるにつれ、名実共に凌統の妹分と認められるようになった。
会社での実績と信頼を積み上げたは、時折彼氏を作らないのかと質問されることがある。
いい奴が居るとか、紹介してくれと言われたとか、冗談でも有難い話が二三度持ち上がった。
そのたびに笑って誤魔化しやり過ごしてきたのは、やはり凌統の存在が大きい。
凌統が結婚したら、と考えていた。
何かの呑み会の時、凌統が結婚する時はがその衣装を作れという話になった。
代わりにが結婚する時は、凌統がのウェディングドレスをデザインしてやるという話に発展して、これは良い契機になるとぼんやり感じていた。
確かに期待はもうしていない。妹だからと諦めは付いていたが、気持ちの整理はどうしても付かなかったのだ。
その日が来るのが楽しみなような心細いような、不思議な気持ちだった。
自分の分のコーヒーを淹れ、最後の一踏ん張りの前にコーヒーブレイクと席に戻った時だった。
コーヒーと一緒に食べようと思っていたチョコレートが、なくなっている。
包装紙も剥ぎ取られ、無残にひしゃげた箱だけ残して消え失せたチョコレートは、この時期限定のお取り寄せ品だった。
高いし、なかなか手に入らないしで非常に楽しみにしていたは、一人しか居ない容疑者をくるりと振り返った。
「……公績にーちゃん」
低く唸るような声に、凌統は軽く肩をすくめた。
自白したようなものだ。
「何で食べちゃうのよ、私のチョコなのにー!」
疲労もあって、かなり腹立たしい。
人目もないのも手伝って、は涙目で凌統を怒鳴り散らした。
凌統は耳を塞いで聞かない振りをしている。まったく腹立たしかった。
「もういいよ、馬鹿!」
相手にされない悔しさもあり、本当に涙が溢れてきては凌統に背中を向けた。
さすがに悪いと思ったか、凌統も態度を軟化させて詫びを入れてくる。
「……ごめん、ごめんて。来月、ちゃんと何かお返ししてやるからさ」
「いらないもん」
何で来月だ、今すぐ同じもの返せと腹立ちは収まらない。
「甘い物好きじゃないくせに、何で人が楽しみにしてたチョコ食べちゃうかなぁ!」
ぷりすかと年甲斐もなく頬を膨らませているに、凌統は苦笑を漏らした。
「いやぁ、折角だし、今日ぐらいはチョコ食べたいだろ?」
「何が折角よ」
意味が分からない。
人が用意しておいたものを唐突に横取りしたくなったとでも言うのかと、は溜まらず眉を吊り上げて振り返った。
「だから、今日、バレンタインだろ?」
悪戯っぽく笑う凌統と目が合い、はぽかんと口を開けた。
忙しさにかまけていたが、そう言えばバレンタインデーだった。
チョコの用意をしていない。道理で女子社員達が早々と帰って行った筈だ。色々と準備があったのだろう。
そう言えば、チョコはどうしたと聞かれたような記憶もある。
凌統に食べられてしまったチョコレートが届く頃合だったので、うっかり勘違いして通販で頼んだと答えてしまった。
準備がいいわね、と言っていたのは、他ならぬバレンタインのチョコのことだったのだ。
コンビニで買うしかないだろうか。
しかし、それではあまりに味気ない。値段もばれてしまうだろうし、他の女の子達は気合の入ったのを用意するのが毎年の常で、も今年こそはちゃんと準備しようと心に決めて居たのだが、多忙にかまけて忘れてしまっていた。
うんうん悩み始めたに、凌統が首を捻る。
仕方なく事情を説明し、コンビニに行って来ると腰を浮かした。
「……いいじゃん、別に用意なんかしなくたってさ」
あっさり言われ、は目を点にする。
「そうはいかないよ、みんな用意してるもん、私だけって訳にはさぁ」
「いいじゃん、今年は本命にだけ上げましたって言っておけばさ」
俺がフォローしてやるよ、と言われても、は困惑するばかりだ。
「いっくら用意してないからって、そんな嘘は吐けないよ」
「嘘じゃないだろ?」
沈黙が落ちた。
肌に痛い沈黙だった。
「……何言ってんの。馬鹿じゃないの」
後のことも先のことも考えないような嘘を吐いて、どうしようと言うのだ。
それ以上に、冗談にしても性質が悪過ぎる。
そんな嘘は惨すぎる。
は財布を取り出す振りをして、凌統から顔を背けた。
「コンビニ行ってくる。何か欲しいもの、ある?」
凌統は沈黙を守っている。
空気が重くて、は逃げ出すように立ち上がる。
「俺は、が好きだから」
だから。
だから、何だ。
「……私は、好きじゃないもん」
振り絞るようにして、吐き捨てる。
あんまりだと思った。
ようやく諦めて、それなのに、今更何だ。
「嘘吐くなっつの」
お軽く否定され、勢いかっとして顔を上げると、予想外に険しい凌統の視線をもろに浴びる羽目になった。
気圧されて後退りしてしまうような、きつい視線だった。
脅えてしまう。
凌統は、内心の腹立たしさを噛み潰すように苦い表情を浮かべ、自棄になったように前髪を掻きむしった。
「……そりゃ、そっちは今更何だって思ってるかもしれないけどさ。こっちだって、気が付いたら好きになっちまってたんだから、仕方ないだろ?」
逆ギレされて、はただただ驚愕するばかりだ。
ガタンと椅子を蹴って立ち上がった凌統に、は思わず逃げ出そうとして足を踏み出す。
「逃げるな!」
怒鳴り声に驚いたとは言え、素直に止まってしまう足が恨めしい。
がおたついている間に、凌統はの傍らに駆け寄る。
「……逃げるくらいなら、ちゃんと振ってから逃げろよ。そしたら、さすがに俺だって追いかけないっつの」
不安なのか、そう言いつつもの手を取る凌統は、微かに震えていた。
もまた、何故か泣き出したい心持ちにさせられる。
何も言わないで欲しかった。
一言でも何か言われたら、大事に隠し持ってきたものが粉々に打ち砕かれてしまいそうだった。
凌統だって、今更だと分かっているのだろう。
今更なのだ。
もう、とっくに諦めたのだ。
一生妹で居て、凌統が結婚する時には、精一杯綺麗に丁寧に花婿衣装を作ってあげようと決めていたのだ。
だから。
「……妹だって、思おうとしたんだよ。自分で言ったことなんだから、ちゃんと責任取らなきゃいけないと思ってさ。でも、駄目だった。妹だって言うたび言うたび、どうしても違うって思っちまって、だから俺」
深呼吸する凌統の息が、の髪を静かに揺らす。
は逆に、息が詰まりそうだった。
「好きだ」
前後が繋がってないよ。
胸の内で呟いて、言葉にはならなかった。
馬鹿みたいに泣き出してしまっていたのだ。
ただ、胸の中が熱くて、いっぱいで、泣くことしか出来なかった。
が泣き止むまで、凌統はを抱いてくれていた。
凌統は、気取ったデザインのチョコレートの箱を見て、誰にやるつもりだと思わず動揺してしまったこと、うろたえて箱を落としてしまい、慌てて拾い上げようとして包装紙を破ってしまったことも、この時併せて白状した。
「どうしていいか分かんなくってさ。ままよって、口ン中に放り込んだって訳」
「わ、私のチョコ、そんな食べ方したの!?」
未だ睫を濡らしたままのくせに、は目を吊り上げて凌統を詰った。
高価な限定品だというのに、そんな食べられ方をされてしまったと聞いては救われない。
「……そんなに食べたかった訳?」
「食べたかったよ!」
一つ一つ大切に食べようと思っていたのに、噛んだりしないで舌の上で溶かしてゆっくり味わって食べようと思ったのにと、の泣き言は止まらない。
「あ」
「え」
凌統の発した声に、釣られたが喚いていた口を閉ざす。
すかさず唇を奪われ、の時が止まった。
顔を離した凌統は、にんまりと笑う。
「……じゃ、せめて香りだけでもお裾分けってね。どうだい、チョコレートの味、伝わったかい?」
は肩を震わせ、口を大きく開けた。
何か罵ってやりたいと思いつつ、頭の中がパニックを起こしていて何も思い浮かばない。
凌統はからからと笑う。
「よし、じゃあ、ホワイトデーまでに頑張ってデザインするとしますかね」
「……何をよぅ」
約束のデザイン、と言ってウィンクする凌統に、は今度こそ言葉を失った。
終