朝一で張コウの居るデザイン室に向かう。
此処は、社内でも特に異質だ。
主な業務内容がオリジナルのデザイン、試着用の服の製作、それらに類する打ち合わせとあって、ワンフロア内が濃い藍の壁で複雑に仕切られているかと思えば、急に広い部屋に出たりする。
ちょっとした迷路だ。
チーフルームと札のかかった木製の白いドアは、色に似ず重厚な作りをしていた。
ノックをし、中に入ると張コウは指にマニキュアを塗っていた。
うぅむ。
ある意味、らしい、とは唸った。
張コウの横には、小柄な女性が立っている。を見て、ぺこりと頭を下げてきた。
丁寧な印象だったが、表情は割と無表情だ。
慌てて頭を下げ返すが、あまり見ない顔だった。デザイナーの一人なのだろうが、見覚えがここまでないというのも珍しい。は総務にいたから、それなりに各部署の人間の顔は見知っている。
そのをして見た覚えがないのだから、普段はよほど閉じこもって仕事をしているのだろう。
張コウは、の顔を見て、優しげに微笑んだ。
手招きされて、がデスクの前まで進み出ると、張コウは小柄な女性に向けて手を差し伸べた。
「です」
は?
一瞬聞き間違いかと思ったが、女性はまたぺこりと頭を下げた。
張コウは、今度はに向けて手を差し伸べる。
「、ですよ」
慌てて頭を下げる。
同じ名前なのだとようやく理解した。
「二人とも、同じ名前では呼びにくいですね……」
TEAMには何故か面白い裏ルールがあって、女性社員はファーストネーム、つまり名前で呼び合うことになっているのだ。
「では、こういたしましょう! 二人で何か勝負して、『1号』『2号』と……」
「ボク、2号でいいです」
張コウの言葉を遮って、小柄な女性……は自ら呼び名を制定した。
「じゃ、ボク仕事の続きしてますんで。何かあったら呼んで下さい」
有無を言わさず、すたすたと立ち去ってしまう。
が呆気に取られて張コウを見遣ると、張コウは高らかに差し出した人差し指の処置に困って、くるりと輪を描いて見せた。
「……あの子に、貴女の面倒を見てもらいます……素っ気無いですが、いい子ですよ」
は内心信じられず、だが否定するのも躊躇われて、ただ頷いた。
「……私の前でなければ、多少は笑いますし……打ち解ければ、とても面倒見の良い親切な子です」
はあ、と溜息を吐いて、張コウは腰を下ろした。
あれ、とは首を傾げた。
張コウは、の視線を受けて苦く笑った。
「ええ、まぁ、私はあの子が好きなのですよ」
素直に告白されて、は耳を疑った。
「片想いですけどね」
好きにも色々な種類があると思うが、『片想い』ということはやはり『恋愛感情』ということなのだろう。
小柄で、どちらかと言えば中性的な、ボーイッシュな子だった。年齢も定かでないが、張コウの趣味がああいう子だとは知らなかった。
「最初はね、私にももう少しにこやかだったんですよ……でもね」
ちょっと、やり過ぎてしまいましてね、と張コウは苦笑した。
何をしたんだろう。
視線で問い詰めると、張コウは降参するように両手を掲げた。
「あのですね、昔……ちょっと彼女を怒らせてしまいましてね。そうしたら、彼女の怒った顔が、それはもう素敵でしてね……!」
うっとりとして語り出す張コウに、はまさかと眉を顰めた。
「……わざと、怒らせ続けた、とか仰いませんよね」
ああ! と張コウは悲嘆の声を上げた。
怒らせ続けたらしい。
「……張コウ主任、司馬懿課長代理のことも、実は好きでしょう」
大好きですよ! と高らかに張コウは答えた。
「……でも、如何してそんなことを聞くのです?」
この恋が絶望的なのかどうかを確認したかっただけだ。
絶望的だ。
司馬懿と張コウの不仲は、社内でも定説と化した評判になっている。理由は定かではなかったのだが、なるほど、納得した。
「……私に才があるとか何とか言うの、まさか、作り話じゃないですよね」
「何ということを言うのですか。私は、仕事とプライベートはきっぱりはっきり二つに分けて考えているのですよ!」
でも、と張コウは恥らって見せた。
「が、私と彼女の間に生じた悲しい誤解という名の溝を埋めて下さると言うのなら、それはやぶさかではありません!」
やぶさかだ。
とは言うものの、確約はしかねるが、何とか出来る限りのことをしようと約束した。
「ああ、さすがは恋の曹操の愛するひと、恋情のですね!」
「……何ですか、その枕詞もどき」
「貴女っぽいと思ったのですが、いけなかったでしょうか」
いけなかないけどご遠慮申し上げます。
がそう言うと、張コウはそれは残念です、とあまり残念ではなさそうな顔をして言った。
内線で呼ばれたに、が続いてフロアを見て回る。
ややこしい。
小さなは、最後にここが貴女の個室、と言って、小さな部屋に案内してくれた。
二畳程度の正方形の部屋に、小さな本棚とパソコンの乗ったデスク、角には洋服掛けが置いて
あった。
「今日は、片付けとかあるだろうから、私物の運搬に当てて。明日から、スタッフとかに紹介しに行ったりするから」
何かあったら、と携帯の番号と内線番号を書いたメモを渡され、が頭を下げてよろしくお願いしますと挨拶すると、小さなはにっこりと笑った。
あ、可愛い。
は、少女のような笑みに少しどきっとした。
「こちらこそ、よろしくね。あ、良かったら一緒にお昼ご飯食べよう?」
お願いします、とまた頭を下げると、小さなはまたにこっと笑った。
怒った顔がどんなだか知らないが、笑った顔の方が全然いいのに。
は首を傾げた。
お昼になり、食堂に向かおうとするを、小さなが引き留める。
「え、でも」
ここの社内食堂は、テレビで取材されるほど美味しいのだ。価格もそれなりで、人気がある。
小さなは、いいからいいからと歩いていってしまった。
も、仕方なしに後を追った。
宿泊施設に備え付けられている台所に入ると、小さなは冷蔵庫から幾つかのパックを取り出すと、鍋とフライパンを用意して調理を始めた。
今から作るのかと驚いていると、小さなは手早く料理を終えて皿に盛り付け、傍らにあった小さなテーブルに並べた。
とても五分十分で出来上がった品とも思えない。
椅子を勧められ、小さなに倣って箸を取る。
「美味しい」
意図なく漏れた言葉に、小さなはにっこりと笑った。
「ボクね、ちょっとアレルギーがあるから、社内でも自炊なの。社員食堂のアレルギー持ってる人向けのご飯て、あんまり美味しいと思えなくて。だから、ごめんね」
こんなに美味しいご飯なら、大歓迎だ。
「張コウ主任にも、食べさせてあげたら……」
美容にもいいよ、と言われ、何気なく張コウの名前を口にした途端、小さなの顔が強張った。
が慌てて謝るが、小さなの顔は沈んだままだった。
「……嫌い、なんですか?」
小さなは、ふるふると首を振る。
「尊敬、してるし……嫌いじゃないけど、でも、何か目ぇつけられちゃってて……」
は、はっ、気持ち通じてる! と一瞬胸を高鳴らせた。
「何かすぐ、嫌味っていうか、駄目だしされちゃうんだよねぇ……」
目を付けるの意味が違った。
曹操などは、に『手をつけたい女』という意味で目を付けていたと告白してきたので、勘違いしたのだ。
「わざと怒らせようってしてるみたいなさ。だから、正直、そろそろ限界かなーって思って」
貴女に一通り仕事教えたら、会社辞めようと思ってるの。
「ええっ!?」
仰天して、思わず立ち上がってしまったに、小さなも目をぱちくりとさせている。
「大丈夫だよ、今すぐじゃないしマニュアルも作るし、辞めたらしばらく旅行にでも行って骨休みしようと思ってるから、連絡くれれば」
「そ、そうじゃなくて、辞めるって、如何して!」
だって、肩叩きみたいなもんじゃない?
小さなは何ともないような顔をして答えた。
「わざと怒らそうって言うのはさ。でも、忙しいからって有休も全然使わせてもらえないしさ……チーフも休んでないから、文句も言えないんだけど」
デザイン部は、仕事と称して海外旅行に行く為に有休とりまくっている馬鹿者もいると聞いている。その煽りを、小さなが一手に引き受けているのだとしたら許せない。
「ボクがここでこうしてご飯食べてるとね、時々チーフが顔出して、一人で食事してるなんてって、それだけなんだけど、言ってくるのさ。ホントにそれだけなんだけど、何か……凹むのね」
だって華やかなデザイン部の女の子達とはなかなか話も合わないし、落ち着いて食べられない、気軽にも誘えない。食堂に調理したご飯持ち込むのも気が引けるし、でも仕事が忙しいから食事くらいは美味しい物を食べたい。わがままかもしれない、けど、一人でご飯食べてるってだけなのに、ボク、おかしい?
は、拳を震わせた。
「な……何ですか、それ! お、怒っていいですよ、そんなの!」
何が好きだ。
ぽろりと呟いた言葉に、小さなは、え、と首を傾げた。
は、あ、う、と口篭ったが、自棄になった。
「張コウ主任、さんのこと、好きなんですって。仲直りしたいんだって、私に頼んできたんですよ」
小さなは、くすくすと笑った。
そんなぁ、とまるで信じない。
いったい何をどれだけやったんだ、あの人は!
「ちょ、ちょっと待ってて下さい、私、ちょっと言ってきますから!」
いいよ、と小さなは笑った。可愛いけれど、淋しそうな笑顔だった。
「ボクも、いい年だし、そろそろ違う道探してみようと思うのね。張コウチーフの下で、結構色々な勉強させてもらったし」
こんな酷い目(少なくともはそう思った)に遭っていて、小さなは張コウを貶しもしない。
「……あの……間違ってたらすいません、ひょっとして、さん、主任のこと……」
小さなは、困ったように首を傾げた。
「……ここに入った時は、あの人も、結構優しくしてくれたのよ。ボク、見た目も、口調もこんなだから、結構嬉しかったし。とってもいい人だよ。仕事も熱心だし。だから」
きっとボク、知らない内に何かしちゃったのね。
は、椅子を蹴り飛ばした。
「待ってて下さい」
ぎり、と奥歯を噛み締め、小さなが止める間もなく飛び出していった。
ふざけんな、と頭の中が真っ赤に焼けるようだった。
好きって言ったくせに、何であんな悲しい顔させちゃうのよ!
チーフルームに飛び込むと、張コウは白いカップで優雅に紅茶を啜っているところだった。
「何であんなことするんですかーっ!」
がん、と机を殴ると、ソーサーが跳ね上がった。
はい?
張コウが首を傾げる。
は、小さなから聞き出したことを全部ぶちまけた。
すべて聞き終えた張コウが、カップを置いた。
「……あのですね、」
張コウは、平静な顔をしてを見返した。
「有休とらせないって、だって好きな人とは一緒にいたいものでしょう? 貴女だって、曹操様に自宅の鍵渡しているくせに」
私のことはいいんです、とは吠えた。
張コウも、素直にそうですね、と頷いた。
「説明が後になってしまいましたけど、ここのフロアは女性同士の諍いが絶えません。女性は競い
合って美しくなるもの! ですから、私は見て見ぬ振りをしているのです。けれど、あのは違います」
可愛いでしょう。けれど、自分の可愛さに気が付いていないのですよ。流行の美しさとは違うから、なかなか認められないのでしょうけれど、と張コウは憂鬱に目を伏せた。
美しいものは、どんな形であれ美しいと言うのに、私には耐えられません、と続けた。
「……フロア内でも、下扱いされておりましてね。実力はあるのですよ。でも、だからと言って私が庇っていたら、あの子はますます立場をなくすでしょう」
だから、張コウが叱るのだ。
そうすれば、小さなを敢えて目の敵にしようと言う輩もいないから。小馬鹿にはされても、苛められはしないから。
叱った後、は必ずより良いデザイン画を携えてやってくる。こっそり褒めるのだが、には分かり辛いらしく(そら分かり辛かろうとは溜息を吐いた)、頭を下げて黙ったまま立ち去っていく。小さなは、小物のデザインが特に秀逸で、曹操や夏侯惇はその実力を高く買っているのだが、本人は知らない。張コウが止めてしまうからだ。
ひっそりと、だがしっかりと張コウを支えてくれているのは小さなに他ならない。
「でも……だからって」
功績を公表すれば、小さなは気の強い他のスタッフに潰されかねない。
だからと言って、このままでは小さなは自信を失って仕事を辞めてしまうかもしれない。
どうしたらいいのだ。
「……如何したらいいと思います?」
自信をつけさせたい、けれど目立つことは出来ない。
あのですねぇ、と張コウは溜息を吐いた。
「食事に誘っても、あの子、了承してくれないのですよ……夜に付き合うのが嫌なら、せめて昼食でも、と思っても、いつも先にあの子一人で食べていて、タイミングが合わなくて……私が覗くと嫌な顔をしますし……当然、誘ってもくれませんしねぇ」
目立つし噂が立つから、あの子は目立つのも噂が立つのも嫌がるから、当たり前なんですけど。
そのうちどんどん嫌われてしまって、今ではもう、笑ってくれさえしなくなりました。
「困った顔は誰にでも見せてますが、怒った顔は、私にだけ見せてくれるのがとても嬉しかったので……調子に乗ってしまったのでしょうね」
はぁ、と悩ましく溜息を吐く。
「……さん、アレルギーなんですよ」
だから、食事をしているのを見られるのが嫌だったのだろう。一人で、淋しく食事をしているのを、咎められているみたいで嫌だったのだろう。
小さなすれ違いの為せる業だ。
は、憤懣やるかたなく、張コウに説明した。
え。
張コウは、突いていた肘を上げた。
しばらく呆然として、そうですか、と小さく呟いた。
「……好きな女性のことなのに、こんな大切なことを知らないとは」
恥ずかしい、とがばっと張コウは顔を伏せた。
しかし、すぐに飛び起きると天に向かって高らかに宣言した。
「分かりましたよ、! つまり、彼女に誰も手出しできないようにし、なおかつ彼女に自信を持たせれば良いのですね!」
それが出来れば、一番いい。だが、出来るのか。
「貴女が恋情のなら、私は愛の使者張儁乂! 見事成し遂げてみせましょう!」
「その枕詞もどき、やめてもらえませんか……」
張コウはの不満など気にも留めず、とうっ、と高らかに気合を入れて走り出した。
は、慌てて後を追った。
小さなは、台所で後片付けをしていた。
「!」
突然現れた張コウに驚き、ついで駆けつけたを見て、小さなは肩をすくめた。
「受け取って下さい、これこそが私の真実の心です!」
何時の間に用意したのか、張コウの手には指輪のケースが握られていた。
小さなが、恐る恐る手に取り、覗き込む。中には、美しいフォルムの指輪が秘められていた。
「……アレルギーのことは知らずとも、貴女の指のサイズは存じておりますよ。今すぐ快く、左手の薬指に着けていただけますか?」
小さなは、優雅さと自信に溢れた張コウと指輪を、何度も何度も見比べた。
「……ごめんなさい」
一瞬にして、空気が冷たく沈んだ。
張コウの顔は、それでも平静に見えた……顔色が、少し白く見える以外には。
「ボク、金属アレルギーもあるの……でも、受け取っても、いいですか」
小さなの目に、微かに涙が浮かんでいた。
嬉しいあまりに零れた、清い涙だった。
一件落着、ではあったが、小さなが寿退社をするのを、曹操は激怒し、頑として許そうとはしなかった。
自宅でゆっくり優雅に私のことだけを想ってデザインに勤しんでもらうのだと、張コウは張コウで譲ろうとしない。
しばらくは曹操と張コウの間で熾烈な争いが繰り広げられそうだった。
が間に挟まれるのは、確実と見える。
頭痛がした。
しかし、張コウ曰く『ハニー』と称されるようになった小さなとは仲良くなれそうだったし、できれば辞めて欲しくないと思っていた。
こっそり打ち明けると、『ハニー』はやはり困ったように首を傾げ、左手の薬指に着けた、透明のマニキュアでカバーした婚約指輪を撫でた。
「でもね、ボクももう30だから」
小さな衝撃が走り、は一瞬頭痛から解放された。
終