就職は、ある意味人生の岐路だ。
 内定がもらえないと、それまでのすべてを否定されたような気になる。
 十を超えた企業の内、ただの一社からも色良い返事を貰うことが出来ず、凹みながらも企業訪問を続けていたも遂に内定をもらうことが出来た。
 しかも、思ってもみない一流企業から貰った内定だ。就活の先生も、涙を浮かべて万歳していた。
 ただ単に、駅で荷物をばらまいて困っているお年寄りを助け、一緒に荷物を拾い、売店で破れてしまった袋の代わりに安い紙袋を買ってあげた、だけだ。
 気軽に出来ることではないかもしれないが、絶対出来ないことでもない。
 けれど、小さな善行はに大きな幸運をもたらした。
 それを幸運と言っていいのなら、だが。

 お年寄りと別れ、改札に向かう途中、見慣れぬ男が寄って来て声を掛けてきた。
 最初は、おかしなナンパか怪しい勧誘かと身構えたに対し、男は柔和な笑みを浮かべ、小さな紙片を差し出した。
――もしも困ったら、訪ねて来て下さい。
 名刺に記されていたのは、でも知っているような一流企業の名、更に肩書きにある専務の文字に動揺して見入っている内に、男はさっさと改札を出ていた。
 が仔細を問う暇もない。
 呼び止めようとして高々と上げた手を下ろし、何度も何度も名刺を読み返す。
 新手の詐欺じゃなかろうかとも思った。
 電話を掛けたら転送電話、記された住所に行ってみたら小さなマンションの一室だった、とかいうオチを想像しないでもなかったが、汗ばんだ紺スーツの重みに耐えかねていたこともあり、は藁をもすがる思いで名刺の住所を訪ねる決意をした。
 ひょっとしたら、幸せの神様の使いかもしれないとも思ったのだ。自分の小さな思い遣りを認めて、君こそ我々が求めていた人材だ、とか何とか。
 でなければ、見知らぬ男に取り囲まれて素人AV強姦モノの撮影に傾れ込むのだろう。
 鬱と躁とに錐揉みするを待っていたのは、三階分をぶち抜いた大きなガラス張りの眩い正面玄関だった。気後れしながら総合受付とやらに赴くと、名刺を確認して丁寧に応対してくれる。
 内線で呼び出ししてくれたらしく、しばらくこちらでお待ちいただけますかと、わざわざ受付の一人が先導して案内してくれた。
 それまでが訪れた企業では、受付はおろか女子事務員が愛想笑いしてくれたこともなく、あまりの待遇の差にへどもどしてしまう。
 てっきり簡素な応接室みたいなところに連れて行かれると思ったら、そこは如何にも高級感あふれる家具や観葉植物で埋め尽くされた喫茶室で、どうぞお好きな飲み物をご注文下さいと言って、革張りのメニューとカードを渡された。
 これ何て別世界、と挙動不審に陥りながらうろたえていると、一人の男が現れた。
 見覚えはない。
 てっきりあの名刺をくれた男が現れると思っただけに、の脳裏は一瞬である結論を導き出した。
 他人からもらった名刺を悪戯紛いに悪用など、よくある話ではないか。
「すいません、間違えました!」
 絶叫して駆け出そうとするの肘を、しかし男は素早く捕らえて逃さなかった。
「……間違っては居られません、私は専務の代理ですから」
 驚愕の余り涙まで浮かべているをとりなし、男は元居た席にを導いた。
 気が付けば、上座に座っている。
 受付のお姉ちゃんに指示されるままに座ってしまったのだが、これでは端から大失敗だ。
 失敗というなら絶叫した段階で失敗なのだが、もうそこまで頭が回らない。
「御飲み物は」
「お、お飲み物?」
 一度コケると皆コケるという言葉があるが、華麗なまでに失態を続ける己の無様さに、は本気で号泣したくなる。
「未だ、注文を取りに来ておりませんか。……気が利かず、申し訳ありません」
「い、いえいえ、わ、私、メニューも見てなくて」
 ああああああそうじゃないだろううううううと喚きたくなる。
 男はの顔をまじまじと見詰めた。
 もう駄目だ、折角の幸運だったのに、自分で全部駄目にした、と思うと涙が込み上げてくる。
「……申し訳ありませんが、泣かないでいただけますか」
 ノリの利いたハンカチを差し出され、はパニくりながら慌てて手で擦る。
 マスカラはしていなかったが、アイシャドウがこすれて手に付いた。
 恥ずかしい。
 何もかもが恥ずかしい。
 こんな一流企業に就職できるかも、と一瞬でも考えた自分が情けない。
 無理に決まってるじゃん、コネもないのにこんなとこおおおおおおお、と叫びたくなる。
「孔明!!」
 怒鳴り声が響き、勢い良く滑り込んできた男が居た。
「何を泣かせているのだ!! 女性を泣かせることは元より、このひとは私がこれと見込んだひとなのだぞ!!」
 静かだった喫茶室が男の怒声に満たされる。
 見れば、その男こそに名刺を渡した男だった。
 唖然とするとは対照的に、孔明と呼ばれた男は慣れているのか平然としていた。
「……殿が、行き先も告げずに遊びに出てしまわれたからいけないのではないですか。そんなことを仰るのでしたら、日時の指定くらいなさって下さい」
 でしょう、と突然振られても、は頷くことも出来ない。
「あ、遊びではない。断じてない。それに、日時の指定をこちらからするなど厚かましいにも程が……第一、見ず知らずの男に声掛けられて呼び付けられるなぞ、申し訳ないではないか」
「名刺を渡すだけ渡しおいて、『困ったらどうぞ』などと投げ遣りに告げられた方が余程申し訳ありません。言い訳は結構ですから、お掛け下さい。こちらが恥ずかしい思いをされて居られますよ」
 こちらというのがであることは言うまでもない。
 いいようにダシにされ、は目を白黒とさせている。
 孔明は、自分の名刺を出すと厚手のパンフレットと共にに手渡した。
「こちらに仕事の概要、労働条件、雇用に関する保険や手当などが記されています。ご質問があれば後程伺いますので、まずは目を通していただくとよろしいかと」
「え……えっと……」
 労働条件も何も、正直ここで雇ってもらえるなら何も言うことはない。
 一応ぱらぱらとパンフを捲ると、の想像以上に高給な金額が記されている。保険も完備しているし、就業時間も平均的だ。記されている条件が真実なら、こんな美味しい話はなかった。
「むろん、そのパンフと例外のこともありますが」
 の意思を読み取ったように諸葛亮が口を挟んで来る。
 ですよね。
 むしろ、良い条件過ぎて怯んでいたは、諸葛亮の言葉に却って安堵する思いだった。
「まず、当TEAM……いわゆる部署のようなものとお考え下されば幸いですが、当TEAMは残業が多いです。それも、非常に」
「あ……えぇと、残業代が出ないとか、そういうことでしょうか」
 サービス残業がデフォという企業は珍しくないから、月100時間超えとかでなければまったく問題ない。100時間超えでも、ある意味経歴に箔がつくという点ではしばらくは頑張れる、などと、せこいことも考えた。
「いえ、一応出させていただいて居ります。別に100時間超えということもありません。ですが、忙しいTEAMですので、忙しい時期にはある程度覚悟してもらわなくてはならなくなります」
 ならば、まったく問題ない。
「だ、大丈夫です。健康には、自信があります」
「それから、やる気がない方には即退職していただいて居ります。口ばかり達者でやる気のない方も、当節大変多いもので」
 嫌みたらしい言葉に泣きそうになるが、は堪えて頷いた。
 真面目さでは人に引けを取らないつもりだし、努力を惜しむことはないと約束できる。
「はい、頑張ります」
「手を出すのが非常に早い上司も居りますので、その点もご覚悟下さい」
 孔明、と劉備が怒鳴るのと、それはもしかして、とが叫んだのはほぼ同時だった。
「……いえ、別にセクハラという訳ではありません。単にお付き合いを迫ってくる方が居られるかもしれませんが、嫌なら嫌と仰って下さって一向に構いません。問題があれば、私の方で対処いたしますし、その点、女性社員にも心強い先輩が多く居りますから、ご安心なさっていただいて結構です」
 何だか話の雲行きが妙だ。
 居心地悪い空気に、は内心首を傾げた。
「……もしも、それらの条件をすべて呑んだ上で就職をご希望であれば、いつなりとご連絡下さい。内定の手続きをさせていただきます」
「へ」
 間の抜けた声を発するに、諸葛亮はくすくすと笑う。
「能力もさることながら、人柄重視なものでしてね、当TEAMは。貴女なら、問題ないでしょう。……外は暑いですから、何か冷たいものでも召し上がってお帰り下さい。こちらは、タクシー代にどうぞ」
 御車代と記された白い封筒を差し出され、は慌てて固持した。
「受け取っておいて下さい。でないと、送って行くと騒ぎ出す者が居ないとも限りませんから」
 孔明、と劉備が叫び、諸葛亮はそれを無視して優雅に一礼し、去って行った。
 微妙な空気の中、劉備は汗を拭いつつメニューを広げる。
「……おかしなことを言い出す奴で、失礼した。どうぞ、お好きなものを頼んでいただきたい」
「あの……でも……」
 専務だという劉備が、に丁重な敬語を使ってくるのが居た堪れない。
 冷たい飲み物は欲しかったが、ここを出て一人でゆっくりしたいという気持ちの方が強かった。
「……何か、急ぎの用でも?」
 見るからにしょんぼりとする劉備に、は慌ててメニューをひったくる。
 途端に笑顔になり、ここはケーキも美味しい、などとにこやかに説明し出す劉備に、何とも言えない得体の知れなさを感じた。

 後日、迷いながらも入社を決意して諸葛亮と会ったは、劉備が惚れっぽく、またその倍は惚れられやすく、その癖人から到底見捨てておけないと思わせる、天然フェロモンの困った人物であることを滔々と語られた。
 冷汗掻いて、今からでも内定を断ろうかと思案し出したに、諸葛亮はにっこり笑ってこの内定を蹴ったら後がないことを、遠まわしかつ明瞭に淡々と説明してくれた。
 確かにここを蹴った女を受け入れてくれる企業など、早々あるとは思えない。
 そのくせは入社する前から劉備付きの事務兼秘書に決定しており、劉備が今現在の話ばかりしていることも簡潔かつ朗々と言ってのけてくれた。
「冬期休暇が始まりましたら研修兼ねてバイトしに来ていただけますか」
 無論給料も出ますし、と付け添えられるが、問題は給料などではない。
 その他、主にの貞操とか色々だ。
「……それ、お断りとか出来ないんですよ……ね……?」
「断っていただいても結構ですが、後日に何らかの影響が出るやもしれません。その場合、クリスマスイヴの予定は空けていただいた方が賢明でしょうね」
 明確な答えになっていない。まるで悪徳弁護士の言い様だ。
 そもそも、諸葛亮はいったいどちらの味方をしたいのだかがさっぱり分からない。
「……あの……私、ここに内定、したんですよね。お、お嫁に内定とかじゃ、ないですよね?」
 重要重大な質問を、決死の覚悟で切り出した。笑い話になるならそれで構わない。否、出来れば笑い話で済ませたい。
 諸葛亮は答えなかった。
 にっこり笑った顔が、爽やかな分だけどす黒く見える。
 だって、ただお年寄りに親切にしただけなのに。何この怒涛の人生展開。
 単なる就職難から人生フルコースの岐路に立たされたことに、は途方に暮れるしかなかった。

  終

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