「今日って、残業ありますか?」
 勢い込んだせいか、問われた呂蒙は目をしぱしぱと瞬かせる。
「何か、用事でも入ったか」
「……いえ、別にそういうわけじゃありませんけど」
「用事があるなら、構わんぞ。言ってくれれば、今日はなしにしても」
 ああ、あるんだ。
 いいですいいですと呂蒙をなだめ、は適当な言い訳をして切り抜けた。
 残業はいつものことだったし、仕事は嫌いではない。
 ただ、今日は呂蒙と付き合い始めてから最初に迎えるイベントであり、バレンタインだ。
 1月に新春セールを敢行し、年始年末はないに等しく、慌ただしいまま過ごしてきた。
 デザイナー達の苦労は元より、それらのすべてを支え事務をこなし宣伝してきた呂蒙達の苦労も、計りしれないものがあった。
 しかし、苦労は思いがけない形でに報いてくれた。
 きつい仕事に対して文句一つ言わずにこなしていたの気性に、呂蒙が惚れ込んだのだ。
 勿論仕事が出来る部下としてだけでなく、想いを寄せる異性としても好いてくれたと言う。
 セールが終わって、一人休憩していたに呂蒙が声をかけ、その場で告白された。
 実はも呂蒙に想いを寄せており、両想いだと知ったが間髪入れず泣き出して、呂蒙を酷く思い悩ませたのも、今となってはいい思い出だった。
 ところが、折り良く恋人同士になったとは言っても、何だかんだで仕事に忙殺されまともなデートもしていない。
 そんな次第で、としてはこのバレンタインには期するものがある。
 バレンタインだということで、こういうことには疎いだろう呂蒙には内緒でこっそりディナーの予約を入れたのだが、こうなってはキャンセルするしかない。
 たまにではあるが残業がない日もあったし、TEAMの雰囲気としてもこの週末は早めに帰ろうかという感じだったので、ひょっとしたら……と思っていたのだが、甘かったようだ。
 びっくりさせたいと先走ったのも痛かった。
 詰がイマイチだった、と溜息を吐くを、呂蒙は密かに盗み見ていた。

 ランチの時にキャンセルを済ませ、気を取り直して残業に勤しむ。
 正直、何も今日中に済ませなくてもいいのではないか、と思うような書類ばかりだったが、敢えて口には出さなかった。
 呂蒙がやろうと決めたのであれば、それは後々のスケジュールを考慮した結果だ。
 とは言え、気持ちはなかなか奮わない。
 こんなことではいかんと思いつつ、しかしどうにもいつもの調子が出なかった。
「……やはり、何か用事があったのではないか」
 呂蒙が敏く気を回してくれるものの、キャンセルしてしまった今ではそれこそ今更だ。
 何でもないと誤魔化して、仕事を続ける。
 呂蒙は意味ありげにを見ていたが、不意に溜息を吐いて書類を投げ出す。
 机の上に、書類が飛び散った。
 初めて見る呂蒙の乱雑な仕草に、はびくりとして手を止めた。職務に関する物をこんな風に扱う人ではなかった筈だから、余計に焦る。
「……まぁ確かに、付き合うと言っても何をしてきた訳でもないしな」
 がりがりと頭を掻く呂蒙は、どこか疲れたような顔をしていた。
 唐突な呂蒙の変化に、はただうろたえる。
 呂蒙が何を言わんとしているのか、理解できなかった。
 が黙っているのを肯定と取ってか、呂蒙の口は止まらない。
「理由の如何はともかく、お前が嫌になる心当たりだけは腐る程あるときている。我ながら情けないが……俺もしつこくはすまいから、それだけは安心してくれ」
 殊ここまで来て、もようやく理解した。
 『理由の如何はともかく』、呂蒙はに別れを切り出しているのだ。
 愕然とすると同時に、背筋に痛烈な寒気が走る。
 何故呂蒙がそんなことを言い出すのか、皆目見当も付かなかった。
 沈痛な面持ちで黙りこんだに、呂蒙もようやく口を閉ざす。
 しかし、二人で黙りこんでいても埒が明かない。
 呂蒙も同じように感じたのか、間を開けつつも再び口を開いた。
「……その……な、お前、何か用でもあったのだろう? それを俺には言わないし、かと思えば不貞腐れているときている。お前は俺にどうして欲しいんだ」
 は言い返そうとして、けれど何も言えずに黙る。
 頭の中が混乱していて、何をどう言っていいのか分からなかった。
「……だって、もうキャンセルしちゃったし」
 それだけ言うのが精一杯で、後が続かない。
 呂蒙も困惑したようで、困り果てて頭を掻く。
「仕事が辛くて不貞腐れていたのでは、ないのか。俺が無茶を言うから意見も言えずに居たという訳では、ないのだな?」
 それは、当たり前だ。
 外せない用事であれば言うし、言ってきた。
 呂蒙も覚えている筈だし、もし付き合っているせいで逆らえないなどと影でぐすぐず言うような女だと思うなら、自分であっても振ってやってくれと懇願したい。
 途切れ途切れながらも自分の気持ちを正直に吐露すると、呂蒙はぎこちなくも頷いてくれた。
「ならば、俺の思い込みだったのだな? お前がやけに気落ちしているのも、仕事の手が進まんのも、俺の勘違いなのだな?」
 理由は勘違いだが、態度に関しては呂蒙の指摘通りである。
 俯くに、呂蒙は再び溜息を吐いた。
「……明日、お前さえ良ければと思っていたのだが……気乗りしないのであれば、止めておくか?」
 呂蒙が机の引き出しから取り出したのは、三ツ折りのパンフだった。
 白地に明るいピンクのラインで装飾された、呂蒙には少し不釣り合いな(失礼な話ではあるが)パンフを見て、の目が見開かれる。
 それは、が昼にキャンセルしたレストランのパンフであり、生真面目に赤ペンで印を付けられたコースは、正にが申し込んでいた『スペシャルバレンタインデーコース』だったのだ。
「え、何で!? これ、キャンセルしたばっかなのに!」
 の言葉を聞き咎め、呂蒙が身を乗り出す。
「ちょっと待て、どういうことだ」
「え、だって、バレンタインだから……でも、残業するかしないか確認もしないで申し込んじゃったし、だからキャンセル……」
 途端、呂蒙の肩がぐったりと沈み込む。
「あの、課長……?」
 がおろおろとするのを手で制し、呂蒙はをじっとりと見遣る。
「……一応確認するが、それはもしかして、俺を誘ってくれるつもりだったのか……?」
「あ、当たり前じゃないですか!」
 呂蒙以外に誘うつもりなど、端からない。
 だが、呂蒙はの言葉を聞き届けるなり更に沈み込み、遂には机に手を着いた。
 何が何だか分からない。
 のパニックも最高潮に達しようとしていた。

 結局。
 と呂蒙の間には、深くて暗い溝があったらしい。
 当のはバレンタインのコースを申込みしたことで、呂蒙へのプレゼントを用意したつもりでいた。残業でキャンセルしてしまったことばかりに気を取られ、他のことまで考えが及ばなかったのは前述の通りである。
 一方、呂蒙は他の女性社員からはもらえるのに肝心のがくれる気配はないわ、明日が本当のバレンタインだからだと自分に言い聞かせてもからは一向に明日の予定を尋ねられず、代わりとばかりに残業予定を訊いてくるから、てっきりバレンタインの準備でもするつもりかと尋ねれば『大丈夫』『何もない』としか言わないし、挙句に溜息ばかり吐くものだから、これは何かしでかして呆れられたかと思うも心当たりはなく、しかし何かないで破局する訳もないから何かしたのだろうと落ち込んで、ならば自ら引頭渡そうと思い切った次第だった。
 あまりにあまりな擦れ違いに、も遅まきながらどっと疲労を覚える。
 驚かせてあげたいというだけの些細な悪戯心が、ここまでとんとん拍子に別れ話にまで発展するとは思わない。
 恋愛とはかくも難しいものなのかと、は改めて実感せしめられた。
「ご、ごめんなさい……」
 いやこちらも、と制しようとする呂蒙を遮って、は続ける。
「実は、チョコレート、用意してなくて……」
 コースの最後にチョコレートケーキも付いてくるので、勝手に要らないと判断してしまった。
 同僚達が金曜決戦と意気込んでいるのにうっかり乗せられて、自分でも何も不思議に思いもせず13日の夜に予約を入れてしまっていたのだ。
「いい、いい。俺も、ろくでもないところを見せた」
 薄く笑う呂蒙の顔は、未だに疲労の影を残している。
 胸が痛んだ。
「キャンセルしたレストランには明日行ける訳だし、ダブらなくて却って良かった。それより、今日の予定は空いているのだろう?」
 それは、無論だ。
「ならば、俺に付き合ってくれ。……その」
 叶うことなら朝まで、と呟いた声は、の耳にだけ届いた。
 0時を過ぎれば14日のバレンタインだ。
 捧げるものは、チョコでなくても良い。

  終

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