尚香が出向してきたTEAM蜀から元のTEAM呉に戻って、だいたい一ヶ月というところだった。
 劉備は相変わらず柔和な顔をしていて、何を考えているか知れない。
 二人が付き合ってきたのは公認の事実だったが、尚香がTEAM蜀から去ると同時に、蜜月は終わったとばかりに破局したらしい。
 父親の手前だとかTEAM呉に戻るのにそれが条件だったのだとか、色々な憶測が流れたが、本当の事情を知る者は当人や極親しいもののみに限られていた。
 だから、は本当の事情を知らない。
 劉備直属の部下として、尚香が来る前はスケジュールの管理や移動の支度を兼任していたのだが、尚香が来てからはその役目を譲り、総務兼企画部配属になっていた。
 尚香が去ることが決まり、にもう一度配属の話があったのだが、劉備が断ったらしい。話は立ち消えになった。
 ただでさえ兼任で忙しいだから、と劉備はそう説明したらしいが、それが嘘だとは知っている。
 前に兼任していた時は、素知らぬ振りで我がままを通してきた人だったからだ。
 いらないと言うなら、仕方がない。
 は溜息を吐きつつ、そう自分に言い聞かせていた。
 尚香の方が能力が上だったのかもしれないし、恋人と別れたばかりで違う女を手元に置くのが嫌だったのかもしれない。
 何にせよ、上司から『いらない』と言われるのは気が滅入ることではあった。
 鬱憤晴らしに呑みに行こうか。
 水着の為のダイエットは、半ば成功半ば失敗だったが、目標体重だけはクリアしたし、こんな時ぐらい自分を甘やかしてやりたかった。
 急に誘ってオッケーしてくれそうな友達を、携帯の登録の一覧から探し出す。
 メールをかしかしと打っていると、ひょいと取り上げられてしまった。
「……仕事中だろう?」
 顔こそ怒っていなかったが、憂さの原因がの携帯片手に真横に立っているのを見て、はあまりの間の悪さに項垂れた。
 仕事中にメールを打っているのは、何もだけに限らない。
 さすがに上司の前で堂々とやる者はいないが、とて用心して机の下で打ち込んでいたのを、目敏く発見されてしまったのだ。
 背後に目はないから、偶々通りかかった劉備には丸見えだったのかもしれない。
 関羽常務がむっとしてこちらを見ている。
 常は優しいが、この手の『悪さ』は好かない人だ。後でお仕置きを食らうに違いない。
「……これは、預かっておく」
 お気に入りの薄いグリーンの携帯は、劉備のポケットにしまわれて、そのまま専務室に持っていかれてしまった。

 怒られはしなかったが、は罰として書類の整理を命じられた。
 関羽との二人でやっていたのだが、劉備が来て何か話し込むと、関羽は『承知しました』と言って先に帰ってしまった。
 関羽が何を『承知』したのか知らないが、と呑みに行ってくれる約束をしていたのに、一方的に破られてしまった。
 は、折角の鬱憤晴らしがまたも阻害されたことに、深々と溜息を吐いた。
「溜息など吐いている暇はないぞ。さ、早くやってしまおう」
 酒なら、私が付き合ってやるから。
 にこにこしながら言われても、憂さの原因と差し向かいで呑むことに何の意義があろうか。
 却って気鬱になって、はのろのろと作業を再開させた。
 劉備は、そんなを見て密かに苦笑していた。

 整理が済んだのは、もうずいぶん遅くなってからだった。だらだらやっていたせいもあるだろうが、普通のレストランならもうラストオーダーの時間を過ぎた頃だろう。
「成都にでも行くか? あそこなら遅くまで空いているし、も好きだったろう?」
 TEAM蜀御用達の居酒屋の名を挙げられるが、あそこは先日尚香の送別会をやった場所だ。どうにも気乗りがせず、首を振った。
「明日も仕事ですし、今からだと遅くなってしまいますから……」
「そんなに遅くないだろう、軽く呑む時間くらいはあるはずだ」
 劉備にしては珍しく、しつこく食い下がってくる。
 こうと決めたらてこでも引かないのはあくまで仕事の上での話で、部下に強要する人ではなかったはずだ。
 尚香と付き合ってから、考え方が変わったのかもしれないが、何となくがっかりして捲り上げていた袖を下ろした。
「……すいません、何か疲れちゃって。お先に失礼します」
 頭を下げて劉備の横を通り過ぎようとして、腕を掴まれた。
「携帯は」
 突然言われて、そういえばと思い出した。携帯を劉備に持っていかれたままだったのだ。
「……返さなくても、いいのか」
「返して下さい」
 手を差し出すと、その手をぐっと掴まれる。
 何をするのかと振り払おうとするのだが、見た目よりもずいぶん力があって、叶わなかった。
「どうして取りに来なかった?」
 私が専務室にずっと居たのは知っていただろう。
 そう言われても、ずっと仕事だったし、終わってからは書類整理だったし、取りに行くのを忘れていただけだ。
 本当に、と問われて、目を覗き込まれる。
 自信がなかった。
 専務室に劉備が篭ったままというのは確かに珍しくて、どちらかと言うと外を飛び回っていることの方が多い人だった。
 出掛ける時も帰ってくる時も必ずフロアで一声掛けるから、劉備が居るのも居ないのも、フロアの人間は良く承知していた。
 知っていたはずと言われれば、確かに知っていたのだ。
 けれど、そんな風に言われたら、自分を待っていたのかと思ってしまうではないか。
「……帰ります」
 期待するのは虚しかった。
 ずっと好ましいとは思っていたが、恋愛感情を意識したのは尚香が劉備と付き合いだしてからだ。
 遅過ぎた。
 もっと早く気が付いていれば……だが、もしも上手く付き合えることになったとして、尚香が現れて別れることになりでもしたらきっと一生立ち直れない。
 だから、これで良かったのだと自分を慰めていた。
 元の職務に戻れるかもしれないと諸葛亮部長から話があった時、は素直に喜んだ。
 一応、皆の手前もあって顔にも出さなかったのだが、本当は嬉しかったのだ。
 それなのに、劉備はをいらないと言った。
 ショックだった。
 でも、見得が邪魔してやはり顔には出さなかった。
 誰にも気がつかれていない、それだけがの慰めだった。
 劉備の手を振り解き、背を向けた途端、劉備の声が胸を刺した。
は、ここが……私が嫌なのか?」
 足元から凍りつくような感覚に落ちて、は劉備を振り返る。
「……もし、そうなら、転属願いを書いてくれ。私も、今すぐとは約束できずとも、なるべく希望のTEAMに行けるよう尽力する」
 辛そうな顔をして劉備は肩を落とす。
 けれど、辛いのは、本当に辛いのは、私です、専務。
 突然ぼろぼろと泣き出したに、劉備はぎょっとして目を剥いた。
「いらないなら、いらないって言って下さい!」
 わっと泣き崩れてその場に屈み込むに、劉備はおろおろと視線を巡らせた。
 誰が助けてくれるわけではない。皆、帰ってしまったのだから。
 進退窮まった劉備は、大きく息を吸い込むと、決心したようにの前に勢い良く屈みこんだ。
 顔を押さえる手を無理やり引き剥がして、劉備はの唇を奪う。
 びっくりして、あまりにびっくりして、の涙はぴたりと止まった。
 しばらく押し付けるだけの口付けが続き、は目を閉じるのも忘れて劉備を見つめた。
 真っ赤な、必死の顔をした劉備が離れて、大きく息を吐いた。
「いらないわけがない!」
 今更のようにそんなことを言うので、は茫然自失として劉備を見つめるしか出来なかった。

 本当は、のことが気になっていたのだと告白されたのはその後だった。
 尚香の送別会の時、居ずらさに席を立った劉備に、酔ったのかと心配してあれこれ気に掛けてもらったのが切っ掛けだったという。
「……しかし、私も尚香……付き合っていた人と別れたばかりで、軽い男と見られるのが嫌だったのだ。これは、どうか分かって欲しい」
 突然沸いた感情に戸惑っている時、食堂で、達が噂話をしているのを偶然耳にした。
 話題は劉備の別れ話で、居心地の悪さから出るに出られず、柱の影に隠れていた。
 と、の声が響き渡る。
『いいじゃん、上司の恋愛沙汰なんて興味なーい。それより、昨日のサスペンスでさ、私の知ってる店が出てて……』
 正直、噂話をされるよりショックだった。
 が尚香の仕事を再度引き継いでくれると聞いたのは直後で、だが、とても落ち着いて顔を合わせる自信がなかった。
 だから、の多忙を理由に断ったのだ。
 しかしそうなると、との接点がまったくなくなってしまった。
 同じフロアに居るのだからと、折に付けに目を向ける。姿が見られるだけでもいいではないかと思っていた。たまたま目が合った時、絡んだ視線に照れ笑いを浮かべる劉備に対し、は無表情にふいっと視線を逸らした。
 今度は嫌われたのかとショックを受けて、それとなく周囲に尋ねても何ら理由は浮かんでこない。
 皆が皆、口を揃えていつも通りのだと言う。
 興味がないのではなく、嫌われていたのだろうか。何をしたのだと考えるが、一向に理由は思い浮かばない。
 焦れて、関羽にだけは直接話をしてあったので、今日という機に玉砕覚悟で告白しようと決めたのだと言う。
「携帯を取り上げれば、すぐに取りに来るかと思えば来ないし、私がどんな思いをして待っていたか、は分かっているのか?」
 不貞腐れたように詰られて、は知りませんよ、と言い返した。
「専務だって、私の気持ち、ずっと知らなかったくせに!」
 え、と口篭る劉備を置いて、さっさと外に出る。
 玉砕覚悟と言ったって、もう少しやりようがあると言うものだ。
 食堂での一件だって、劉備の噂話を止めさせたくて言ったことなのに、何をちゃっかりと盗み聞きしているのか。
 視線の件だってそうだ。照れ笑いというよりは苦笑いに見えたのだから、しょうがないではないか。目が合うのも困惑させるのかと思ったのだ。哀しくなるのを我慢したから無表情になったというのに、まるでこちらが全部悪いかのようだ。
 信じらんない。
 恥ずかしさと悔しさが綯い交ぜになって、到底素直に喜べなかった。
 ロッカーから鞄を取り出し、靴を変えると廊下に出る。
 廊下の端に人影が見えた。
「携帯は」
 軽く掲げる手に、薄いグリーンの携帯が握られている。
 ぷいと顔を逸らして、劉備の居る方とは反対側に歩き出すと、劉備が大きな声で怒鳴った。
「携帯の中身を、見てしまうぞ!」
 もう!
 何とかもう少しやりようがあるだろう。
 半泣きになりながら劉備のところに駆け戻ると、両腕で抱きすくめられてしまった。

 劉備が相当の機械音痴で、着歴すら見られないことを知ったのは直後のことで、劉備とはまたしばらく口喧嘩をし、結局終電を逃してホテルに泊まることになった。


  終

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