夏侯惇にとって、バレンタインデーという行事には価値等ないらしい。
 製菓会社の捏造で歪められた記念行事など、気に掛けるまでもないようだ。
 それはそうかもしれないが、土用丑の日だって元々江戸の鰻屋が立案して広めた行事な訳だし、世間一般に広められたものに殊更逆らうのもおかしい、とは思う。
 以前に少し、前例の土用丑の日を引き合いに出してみたことがあるのだが、夏侯惇の返事は実に素っ気なかった。
 夏の盛りの暑い頃、体調を維持する為に栄養価の高いものを摂取することは道理である。
 横からひょいと紛れ込んだ曹操曰く、だからこそ広まったのだし、こってりした鰻の蒲焼を食すのに普通であれば難を示すところではあるが、『皆が食べているから』と食を促すのは、ある意味群集心理を逆手に取ったいいアイディアだとかなんとか。
 それきり話は商品戦線と戦略にずれ込み、バレンタインに戻って来ることはなかった。
 手が空いていたとはいえ仕事の合間に雑談していたから(そうでもないと夏侯惇が話に乗ってくれないのだ)、無理に会話を戻すことも出来ないまま終わった。
 失敗した。
 今年だけでも構わない、とにかくバレンタインを意識してもらわなくては困るというのに、なかなか上手くいかないジレンマに苦しめられる。
 何となれば、バレンタインにかこつけて告白をしようと思っているからだ。
 念の為に言い添えれば、無論から夏侯惇に、である。
 長い間思い続けていたものの、夏侯惇がの気持ちに気付く様子は一向にない。
 万事が職務、引いては曹操の為にのみ気を配る分、その他に当たる部分に関してはすっぱり切り捨てているような感があった。
 察してもらえないのであれば、直に言うしか方法はない。
 やっと決意は固まったものの、いざ告白となると付かないのが踏ん切りだ。
 バレンタインは、の踏ん切りを強力に後押ししてくれる格好の理由である。
 何せ、日本国内限定とはいえ、全国各地の製菓業者が全面死角なくバックアップである。周囲もそれなりその手の雰囲気となり、勢いに乗じるのも容易かった。
 正に群集心理と言う奴である。
 しかし、その為には夏侯惇にバレンタインの意味をしっかり理解してもらわなければならない。
 夏侯惇が殊恋愛系に疎いのは、が認めたくなくとも認めざるを得ない難点だ。
 バレンタインのチョコを贈ったとて、の気持ちが他の女性社員の義理に紛れてしまわないと誰が保証してくれよう。
 例えメッセージカードに『好きです』と記したとて、『好きです』の意味を異性として捉えるよりは上司として捉える男だった。
 また、迂闊にメッセージカードに記してよしんば他人に見られたとしたら、は修羅の道を歩まざるを得なくなるだろう。
 受け容れられなければ滑稽な道化師として、受け容れられれば難関夏侯惇を射止めた女として、前者は嘲笑後者は嫉妬、正に前門の虎後門の狼である。
 後門の狼ならばどんと来いばっち来いと、釘打ちバットを装備して出迎えようが、前門の虎な事態はどうにか避けたい。というか、嫌だ。考えたくもない。
 怯み掛けるも、このまま宙ぶらりんで居るのもはばかれ、は行きつ戻りつする決心を前向き加減に修正する。
 狙うのであれば慌ただしい午前よりも午後、昼食時はバレンタインのこの時期、牽制し合う同性の目が厳しかったから、直属の部下の立場を利用した執務中が最適だと分析済みである。
 とにかく出来れば14日、駄目なら前日13日でも、夏侯惇にの為に割く時間を確約させるのが、一番確実な戦法と見た。
 曹操は本日既に外出済み、昼食から仕事に戻ってある程度の時間も過ぎた。今なら、書類提出に紛れて雑談に持ち込める。
 は手にした書類をじっくりたっぷり念入りにチェックして(もし一つでもミスがあれば、雑談に持ち込むタイミングを失うからだ)、夏侯惇の前に立った。
「部長、遅くなって申し訳ありませんが、書類のチェックお願いします」
 夏侯惇がうむ、と軽く頷いて受け取るのを、はかつてない程の緊張を覚えながら見守る。
 幾許かの時間が過ぎ、やがて夏侯惇は軽く顎を引いた。
「……よし」
 その声は、あたかも訓練された犬畜生が聞く飼主からのゴーサインのようだった。
 今だ、の号令がの全神経へ轟き響く。
 勢い込んで口を開いた。
「夏侯惇部長、今度の14日って、どうなさってますですか!!」
「出張だが」
 轟きは足の裏から抜け落ちた。
 木霊も返らない。
「……そ、そう、ですかぁ……」
 半泣き及び魂抜け掛けのから目を逸らすように、夏侯惇は卓上カレンダーに目を落とす。
「14日の、始発で出るな。帰って来るのは17日の昼になる。前日は、午後から出張の打ち合わせで孟徳と会議になるから、後は頼むぞ」
「は、い……」
 それだと13日も朝から忙しくなるだろう。曹操と会議となれば一日分の職務を午前中に済まさなければならなくなるし、会議が終われば曹操との会食や出張の準備に追われるに違いない。
 早くも頓挫したバレンタイン告白大作戦に、の心は破れ紙から吹き込む隙間風に芯から凍えていた。
「……何か、問題か?」
 どんよりと曇るの顔色に、さすがの夏侯惇も気が付いたらしい。
 職務に関しては気配りの夏侯惇は、部下の体調に関しても気配りが冴える。
 鈍感さと敏感さが同居しているような人柄に惹かれたのを、は今更ながらに思い出していた。
 仕方がない。
 憑き物が落ちたようにすとんと落ち着いて、は自然に笑みを浮かべることが出来た。
「いえ。では、何かあったら郭嘉課長か賈詡課長代理に指示を仰ぐということでよろしいですか」
 何か探るようにを見ていた夏侯惇だったが、それもわずかな間のことで、こくりと頷き了承の意を示す。
 は一礼して背を向けた。
 別に今生の別れというわけでもなし、心変わりした訳でもなし。
 告白しようと踏ん切り付いたのに、と、残念に思うところもあるが、無理をしてもしょうがないと開き直る。
 元々揺れていた面もある。
 となれば反動で、先延ばしにしようと決意が定まり、気持ちは萎えたが冷静さも取り戻せた。
 これなら遅れがちだった仕事に弾みが付くと、堂々居直ることにする。
 席に戻ろうとするに、夏侯惇から待ったが掛かった。
「お前も、行くか?」
 いきなりのこと、天秤が天秤台から降ろされたと思った途端の爆弾発言に、仕舞い込んだ最上段の棚から床へと叩き付けられる思いだ。
 驚き過ぎて幸いだったのは、声が詰まって悲鳴も出なかったことか。
 あわあわと泡を吹くに、夏侯惇は首を傾げる。
「……否、お前もそろそろ会社の外のことも見ておいた方が良いかもしれん。お前が発言する必要はないし、言ってしまえば荷物持ちとそう変わらん。それでも良ければ、行ってみるか?」
 あくまで仕事の話であって、バレンタインは何の関係もない。
 それでも、夏侯惇と出張とはいえ旅行に出られるのであれば、に否やは欠片もない。
 こくこくこくこく、と激しく頷くと、夏侯惇はやや呆れたようだった。
 呆れられようが何だろうが、今はいっぱいいっぱいで言い訳も反論もない。
 思わぬ僥倖に、の頭の中は一足早い春を迎えていた。何か聞いておきたいことはあるかと訊ねられ、思わず口走ったのがいい証拠である。
「チョ、チョコレートはおやつに入りますか!?」
 更に呆れたような夏侯惇だったが、一応好きにしろとのお墨付きが出た。
 出張当日、は弁当箱大のチョコレートを携えていくことにした。
 夏侯惇がチョコレート携帯許可を出したことを、後悔させてやるつもりである。

  終

ヒロイン/短編INDEXへ→