書類の紙の束が下がり、不機嫌そうな夏侯惇部長の顔が現れた。
 と言っても、夏侯惇は何時も不機嫌そうなのだが。
 それでも、には今の夏侯惇が本気で不機嫌なのが分かった。
「やり直しだ。理由は、分かっているだろう」
 はい、と小声で呟くように返事をして、差し出された書類を手に取る。
 腹立たしい上司の中には、自分が気に入らないと書類を机の上に投げ出したり叩きつけたりする奴もいるが、夏侯惇は部下にそんな態度を見せたことがない。
 むしろ、チームリーダーたる『君主』曹操に噛み付いていることが多い。最もこの二人は従兄同士なので、昔からの付き合いが職場に持ち越されているだけなのだろう。
 とぼとぼとデスクに戻るの後ろ姿を、夏侯惇は気遣わしげにじっと見つめていたが、が椅子を引くのを見計らって目線を別の書類に移した。
 だから、席に着いてから夏侯惇を振り返ったは、夏侯惇の視線に気がつくことは出来なかった。

 終業時間を告げるチャイムが鳴る。
 品のいい、柔らかな音はしばらく鳴り響いていたが、曹操お気に入りのアンティーク時計の秒針が半回転する前には止まった。
 周囲の人間は、仕事の限のいい者から順に帰っていく。
 の隣に、いかつい肩を縮こまらせた男がおずおずと立った。
「……殿、よろしければ、今晩拙者と呑みに参られませんか」
 係長の徐晃だ。
 上司なのに、徐晃はいつも堅苦しく、けれど優しくに接してくれる。
「おや、いいですねぇ」
 徐晃の後ろからひょいと顔を突っ込んでくる男は、チーフデザイナー兼主任の張コウだ。徐晃の顔が、思い切り動揺する。仲が悪いわけではないのだが、徐晃は張コウが苦手らしく、話をしている時はいつも引き気味だ。
「是非、私たちもご相伴に預かりたいものです……ねぇ、夏侯淵殿」
 うふ、と女性的に笑って振り返る先に、夏侯淵が人懐こい笑みを浮かべて駆け寄ってくるのが見えた。
「お、何だ、呑みに行くのか? 誘えよ、徐晃〜!」
 の肩に手を置き、今日は何処に行くかと笑いながら店の名前を挙げていく。営業部長の夏侯淵は、流行の店から落ち着ける昔馴染みの店まで、実に多くの接待場所を知っている。何度か連れて行ってもらったことがあるが、どの店も料理も酒も美味しい、素敵な店ばかりだった。夏侯淵は、見た目の気さくさとは裏腹に、かなりのやり手なのである。
 が苦笑しながら徐晃を見遣ると、長身の張コウがいかつい徐晃の肩をぐいっと引き寄せ、何かぼそぼそと話している。
 ずるいとか、そういうわけではとか、何か揉めているようだ。
「すみません、お誘いしていただけるのは嬉しいんですけど、今日中にコレやっちゃおうかと思って」
 書類の束をぴらぴらと見せると、徐晃はあからさまにがっかりした。
 張コウも苦い笑みを浮かべている。
「……今日じゃねぇと駄目なのか? 最近、お前、ちょっと根詰めすぎじゃねぇ? たまにはこう、ぱーっと気晴らしをだなぁ……」
 夏侯淵が未練たらしく誘ってくれるが、は困ったように笑い、首を振った。
「明日からまた違う企画書に入らなきゃいけないんで、今日中にやっちゃいたいんです。後少しだし……だから、ごめんなさい!」
 両手を合わせて拝むように頭を下げると、夏侯淵は少し淋しそうに溜息を吐いた。
「何だかなぁ。惇兄もちょっと、をこき使いすぎだぜ……そしたら、今度は絶対、だぜ?」
 小指を差し出してくる夏侯淵に、は笑って自分の小指を絡めた。
 ゆーびきーりげーんまーん、と笑いながら勢いよく手を振る二人に、徐晃は何とも言えない顔をする。
「よし、じゃあ仕方ねぇから、男だけでむさ苦しく呑むとするか!」
 むさ苦しいとは何です、と張コウが文句を付ける。首だけ振り返ってにウィンクすると、渋る徐晃を引き摺って出て行った。
 三人が出て行ってしまうと、フロアにはだけが残った。
 窓際の、大きなデスクに目を向ける。
 席の主である夏侯惇は、夕方から得意先を回ってそのまま直帰するはずだった。
 はパソコンに向かい直すと、キーボードをかたかたと慣らし始めた。

 ふと気がつくと、時計は十時をとっくに回っている。
 鳴っていた電話が、が手を伸ばした途端、りん、と軽い音を立てて切れた。
 音を小さくしていたせいもあったが、電話に気がつかないくらい集中していたのだ。
 背もたれにもたれ、うんと背中を伸ばすと、キャスターがずるりと滑ってひっくり返ってしまった。
 派手な音をたててひっくり返る。掴まる場所もなかったので、は物の見事に床に放り出された。
「あ、たたたたた……」
 幸い、頭は打たなかったが、背中がじんと痺れている。
「……何だかなぁ、もう」
 そのまま仰向けになって天井を見上げる。白い天井は埃の影も見えない。何処からか、エアコンの微かな音が聞こえていた。
 ここのところ、は自覚するほどスランプ気味だった。
 遣り甲斐のある職場に運良く就職できて、忙しいながらも充実した毎日を送っていたのに、ここに来て突然、石に蹴躓くように調子が出なくなった。
 田舎の母は、結婚適齢期にもなって男の一人もいないからだ、などと言って見合いを勧めてきたが、仕事が面白くなっている今、結婚なんて考えられなかった。
 一人で帰る真っ暗な1Kのマンションが、淋しくないといえば嘘になる。
 だが、今日のように気のいい同僚や上司が呑みに連れ出してくれたりするし、特定の男がいないことに不便を感じたことはない。
 女としての本能が、安定を求めているのだろうか。
 結婚は、安定なのか?
 疑問を感じる。結婚すれば幸せになれると母は言うが、如何にも胡散臭くて信じられなかった。
 では、仕事をしていれば幸せなのか。
 遣り甲斐も充実も十分感じている。けれど、幸せかと訊かれたら、やはり何か違うような気もした。
 段々考えるのも面倒になって、は目を閉じた。
 今日は、このまま泊まって行っちゃおうかな。
 此処にはイベント前に集中する業務をこなす為、仮眠施設が備え付けられている。労働基準局の基準がどうかは知らないが、TEAM魏のメンバーで会社に泊り込みする業務を厭うものはいない。
 許猪などは、みんなでご飯が食べられるから楽しいと、用もないのに参加してくることさえあった。
 そしたら、後は明日の朝、見直しがてら朝食とって締めよう。
 は立ち上がり、パソコンに向かった。

 替えの下着や着替えは、いつ使うことになってもいいようにロッカーに仕舞ってある。急な出張の備えでもあるのだ。警備システムは、各部署、各部屋ごとに備えられているから、ただ廊下をぶらぶらするだけなら咎められることもない。表玄関はもう施錠されている時間だし、社員用の通用門は社員証がカードキーのオートロック式になっているから、下手な気遣いもいらない。外に食事に出ても良かったが、腹は空いていなかったので抜いてしまうことにした。
 仮眠室の隣に設置されたシャワールームに入り、汗を流す。
 設備は、本当に自慢できるほど整っている。
 よく自分がこの会社入れたな、とぼんやり考えていると、突然誰かが飛び込んできた。
 え、と振り返ると、息を弾ませた夏侯惇が、凄い形相で立っていた。
「……無事、か」
 がっくりと肩を落とすと、ぜえぜえと息を継いでいる。緩められたネクタイが、くしゃくしゃになって背中に回されているのが見えた。
 には、何のことだかさっぱり分からない。
 ようやく呼吸を整えた夏侯惇が、頬を赤らめてそっぽを向く。
「……とりあえず、フロアに居る。早く、服を着ろ」
 突然の夏侯惇の来訪に呆然としていたので、跳ね扉越しとは言え全裸を晒していることに、気がつかなかった。

 フロアの片隅に設置された簡易応接室で、は夏侯惇と向かい合わせに腰掛けていた。
 夏侯惇の説明は、こんな感じだった。
 電話をかけても出ない、携帯にかけても出ない。
 念の為と思って会社に戻ると、の席の椅子が蹴倒されている。
 すわ、何事かと慌てて警備システムをチェックした。フロアの警備は未だなされていない。が帰宅したというデータもなかった。ひょっとして、良からぬ輩に拉致でもされたのかと社内を駆け巡っていると、シャワールームが使用中になっている。
「それで、中に飛び込んだというわけだ」
 ノックもせずに悪かったな、とぶっきらぼうに呟くのが、詰られるのより堪える。
 面倒になって、どうせ朝一で来るのは自分だと倒した椅子を放置したのだ。よもや夏侯惇が帰社してこようとは思いもよらなかった。
「……直帰のご予定では……」
 の問い掛けに、夏侯惇はああ、と首を摩った。
「家に誰がいるわけでもなし、……とにかく、心配になったから、な」
 照れ隠しなのだろうか、しきりに首の辺りを撫で摩っている。
「……その様子では、飯もまだだろう。何処か、食事にでも出るか?」
 夏侯惇の誘いに、は首を振った。
「……シャワー浴びちゃいましたし……化粧も、落としちゃいましたから……」
 ぼそぼそとした呟きに、夏侯惇も小さく、そうか、とだけ答えた。
 沈黙が落ちる。
「あの……ご心配かけてすみませんでした。でも、何もありませんから……もう、帰ってお休みになって下さい」
 時間は、もう零時を回った。夏侯惇の家なら、終電には間に合うだろう。
「お前は」
 夏侯惇がを見つめる。
「……私は、元々泊まっていくつもりでしたし……もう終電出ちゃってますから」
 タクシー代くらい出してやるぞ、と夏侯惇は言ったが、は苦笑して辞退した。
 夏侯惇にそんなことをしてもらう理由がない。
「……タクシー代は出してやる。帰れ。家で休め」
 だが、夏侯惇は執拗に帰宅を促す。
 が困惑していると、夏侯惇はの視線を避けて横を向いた。
「……社内とは言え、若い娘が一人で泊まるようなところじゃない。家に帰れ」
 は、思わず鼻で笑ってしまった。若い娘、というほどの年ではない。親に、結婚適齢期なのに、孫の顔も見せずに死なせる気かなどと嫌味を言われるような年なのだ。
 夏侯惇の訝しげな視線に、は首を竦めた。
「私、そんな子供じゃありません。部長、心配しすぎですよ」
 また、沈黙が落ちた。
 夏侯惇と一緒にいると、息が詰まる。
 胸が苦しくなって、泣きたくなってくる。
 逃げ出したくなって、は口の中でごにょごにょと言い訳しながら席を立とうとした。
「いかんか」
 夏侯惇が、突然口を開いた。中腰に浮かせた腰が止まる。
 顔を上げた夏侯惇と、の目が合う。夏侯惇の目は、あまりに鋭くて射抜かれるようだった。
 怖い、と思った。
「俺が、お前の心配をしては、いかんか」
 夏侯惇の体が、ソファからゆらりと浮き上がる。
 は、呆然と夏侯惇の動きを目で追った。夏侯惇の腕がを捉えた。汗に混じって、アルコールの匂いもする。得意先で接待でもされたのだろうか。
 腰を上げたソファにもう一度、今度は背中から倒されて、真上にある夏侯惇の顔を見上げた。
 逆光の影響か、夏侯惇の顔が見知らぬ男のように見えた。
「俺は、お前が」
 夏侯惇の言葉はそこで途切れ、不意に顔が近付いた。
 思わず目を閉じたの唇に、温かくて柔らかいものが押し付けられた。
 やっぱり、酒臭かった。
 指と思しきものが、の開いた襟元から鎖骨を撫ぜる。くすぐったさに身を捩ると、夏侯惇の声が降ってきた。
「……嫌、か……?」
 は、薄く目を開き、ソファの縫い目を見つめた。
「……ここでは……」
 嫌です、と呟くと、夏侯惇はの背に腕を回して抱き寄せた。
 耳元に囁かれる。
 は、こくりと頷いた。

 翌朝、一番乗りで出社したは、書類を纏め上げ、プリントアウトして夏侯惇のデスクに置いた。
 ふう、と息を吐く。
 ここしばらくのスランプから脱却した、という実感と充実感があった。
 出社途中にあるパン屋で買ったクロワッサンサンドを三つ平らげ、歯を磨いて口紅を直し、コーヒーを沸かして飲んでいると、同僚が次々に出社して来た。
「おはよう、。今朝は、一段と麗しいですね!」
 張コウが、両手を広げて挨拶してくる。
 は笑って、おはようございます、と挨拶を返した。
「うーん、いい笑顔ですね……書類は、無事に終わらせられたようですね?」
 はい、何とか、と笑うと、張コウは目を細めてを見つめる。
 何気ない仕草で、張コウはの耳元に唇を寄せた。
「……夏侯惇部長ご愛用のボディソープと、同じ香りですね……?」
 ぎょっと目を剥くから、張コウは素早く体を離した。
「良い香りですね……使い手次第で、香りとはこうも印象を変えるもの……覚えておきましょう!」
 芝居がかった張コウの声に、夏侯淵はまた始まったよ、と苦笑し、徐晃は憮然として二人を見つめる。
 心臓をばくばくさせているに、張コウは蟲惑的な笑みを浮かべた。
「……今宵は、私にお付き合い下さいますね……?」
 勿論、二人きりで、と囁いて、張コウはウインクして去って行った。
 は何とも言えない顔をして、出張の為に朝一で新幹線に乗っていった『恋人』のデスクを振り返る。
 電話、してくれるって言ってた、うん。
 何とか貞操は守れますように、と念じるだったが、張コウが意気揚々と携帯の通じない店をリストアップしているのを、まだ知らずにいたのだった。


  終

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