バレンタインになると、チョコレートの受け取りを頑として拒否する人間が必ず現れる。
それは、ラジオのディスクジョッキーであったり、テレビに出てくる芸能人であったりするのだが、彼らと直接会ったことはない。
しかし、入社して初めてのバレンタインで、日頃の感謝の気持ちを兼ねて義理チョコを配り歩いていた時、遂に出会った。
この人は、今までずっとこういうことを言ってきたのだろうか。
生半な回数でなかっただろうなと、は少しずれた感心をしていた。
「……でも、義理チョコですよ? 別に、お返しなんか期待してませんよ?」
バレンタインは世界各地にある伝統的なイベントだ。
別にチョコレートを贈ると決められている訳ではないが、その手のテンプレートはないよりはあった方が気が楽だ。無限の品数から選べと言われるよりは、この中から選べと言われた方が大してセンスも問われなくて済む。
母の日のカーネーションと大差ないとは考えていた。
敢えて言うなら、ホワイトデーの方がよっぽど製菓会社の陰謀だろう。ホワイトデーをネタに騒いでいる話はあまり聞かないから、いかんせん不公平な話だ。
「何と言われようが、受け取らないのが私の主義だ」
美麗な細面をつんと澄ませて吐き捨てる。
そこらの男性が言ったのならば、ある種の負け惜しみを感じたかもしれないが、この顔で言われると本気で侮蔑されているような錯覚を覚える。
単純に主義主張をしているだけだとは思うが、酷く凹んだ。
周瑜は、そんなを一瞥しようともしない。忙しそうに(実際に忙しいのだろうが)書類を広げ始めていた。
差し出して引っ込みの付かないチョコレートの包みを、渋々と手元に戻す。
回れ右して後ろを振り返ると、如何にも気の毒そうにを見詰める視線の群れに出くわした。
皆、周瑜がそういう主義だと知っていたのだろうか。
晒し者にされたようで、恥ずかしさから顔が焼けた。
営業課の尚香が、デスクに向かうにさりげなく寄り添う。
「……ごめんなさい、には言ってなかったのね。周兄、今日ばっかりは駄目なのよ」
の所属する課には、女性社員は一人しか居なかった。
本当はもう一人居たのだが、どうも何かトラブルを起こしたらしく、年末の忙しい時期にあてつけがましく辞めてしまっていた。
そのどたばたがあったものだから、に耳打ちしてくれる者が居らず、自身もまた情報収集する余裕がなかったのだ。皆が皆、多分誰か教えているだろうと忙しさにかまけていた。
ならば、わざと晒し者にされた訳ではないのだろう。が顔を上げると、同僚の女子社員は一様に申し訳なさそうな顔をしていたり、に向けて拝んで居たりした。
落ち着くには落ち着いたが、却って周瑜のつれなさが切なくなった。
ちらりと振り返る。
やはり、には目もくれていない。書類を見ながら、何処かと電話の応対をしていた。
普段は気さくとは行かないまでも、仕事に熱心なには当たりの柔らかい周瑜が、あんな風に吐き捨ててくるとは思わなかった。
嫌なら嫌で仕方ないと思うが、あんなに大きな声でむげな扱いをせずとも良いではないかと恨み言が募る。
単なる義理チョコなのだから、有難うで済ませてくれればいいのに。
「……やっぱり、彼女持ちだからですか」
こっそりと訊ねると、尚香は難しげな顔をして、うぅんと唸り声を上げた。
「そういう訳でもないみたいなんだけど……周兄、ああいう顔だから昔からやたらと贈られてたみたいだし、そこら辺で何かあったんじゃない?」
会社に入った頃には既にああだったと聞いて、は納得したようなしないような、複雑な気持ちに駆られていた。
本当は本当に、周瑜のことが好きだった。
彼女持ちなのも知っていたし、別に付き合って欲しいとは思って居ないつもりだった。
あくまで義理チョコの範疇を越えず、しかし気持ちを込めて贈りたいと、は早い時期から熱心にチョコレートの選別を繰り返してきた。
迷惑にならないようにと気遣ったつもりが、贈ること自体迷惑がられるとは思ってもみなかった。
思った以上にダメージをもらい、落ち込んでいる自分に嫌気が差す。
食べてしまおうか。
捨ててしまうのは勿体なさ過ぎる。
貧乏性だなぁと思いながら包装を解いた。
一人で居残って書類の整理をしていたから、おやつ代わりにちょうどいいと思うことにした。
どうせだからお茶かコーヒーでも買ってこようかと考えていると、誰かが扉をノックしている。
上司はどうしても外せない接待で先に帰っており、今頃訊ねてくるなんて誰だろうと首を傾げながらドアを開ける。
周瑜だった。
驚いて声も出ない。
「……少し、良いだろうか」
やや高い硬質な声は、周瑜のものに違いない。
考え込み過ぎて夢を見ている訳ではないと分かり、は自分を取り戻した。
「あ、と、どうぞ。誰も居ませんけど……何か、お探しの資料でも?」
「いや……」
周瑜の視線が一点で止まり、もそれを無意識に追う。
視線がデスクの上のチョコレートに向けられていると分かると、は無性に恥ずかしくなった。
「あ、の、ちょ、ちょっとお腹すいたから、食べちゃおうかなと思って……」
何で言い訳をしているのだろうと思いながら、は埒もない戯言を続ける。
「つ、疲れた時とか、甘いものとかいいって言いますよね、勿体ないし、だから」
「そうだな」
周瑜は、やや堅苦しい笑みを浮かべた。
無理に笑おうとしているようで、は胸が軋むのを感じる。
そんな顔をさせるくらいなら、チョコレートなんて渡さなければ良かった。
捨ててしまおうかと投槍に考えていると、思い掛けない言葉が降って来た。
「……私がもらっても、構わないだろうか……?」
ぱっと顔を上げると、周瑜が申し訳なさそうに眉を下げている。
こんな顔を見るのは初めてだった。
「今更だとは思うのだが……小喬に、いや、ある人に、何と言う惨い仕打ちをするかと叱られてな」
落ち込みながらも何処か惚気るような表情に、はさりげなく自分の胸を押さえた。
「私自身も、あのような態度を取ってしまったことを反省している。詫びて済むことではないが、……すまなかった」
深く頭を下げる周瑜に、は理由もなく泣き出したくなった。
とっても敵わないな、と思うと、笑い出したくもなる。
そして、欠片も見込みはないんだな、と、やっぱり悲しくなった。
「開けちゃいましたから……」
言いながら、デスクに置かれた箱を取り上げる。
周瑜は小首を傾げた。
気落ちしたような苦笑いの表情に、に許して欲しかったのだと、許してもらえないのかとがっかりしているのだと感じた。
「……お裾分けってことでしたら。バレンタインとかじゃなくて。それでいいですか?」
すっと差し出すと、周瑜は一瞬不意を突かれたように素の顔を見せた。
けれどすぐに理解して、華やかな笑みを浮かべて見せた。
「有難う」
小さなチョコレートを手に取ると、周瑜はそのまま口の中に放り込んだ。
も周瑜にならってチョコレートを口に含む。
カカオのほのかな苦味を包んだチョコレートが、舌の上でとろっと蕩けて消えていく。
頑張って厳選した甲斐あってか、とても美味しかった。
「美味い」
周瑜も、にっこりと微笑んだ。
「……ホワイトデーに、何かお返ししなければな」
「いいですよ、ただのお裾分けですし」
「そうはいかん。……何か、欲しいものはあるか?」
ここで本人に訊いちゃうのが周瑜らしいな、とは思った。
本人が欲しいものをプレゼントするのがベストだという考えは分かるが、裏を返せば訊ねなければ分からない程、に興味がないとも言えるのではないか。例えば、相手が小喬だったら、こんな風には訊ねないだろう。
「じゃあ、クッキーとか」
「それでいいのか?」
もっと高いものでも構わないと言う周瑜に、は苦笑いした。
高いものだと、手元に残ってしまうような物を贈られてしまうことになるだろう。
それは嫌だった。
きっと、忘れられなくなる。
「食べる物でいいですよー」
振り絞るように笑みを浮かべると、周瑜は何事か考え込んでいるようだった。
「……あぁ。では、美味いラーメン屋に連れて行ってやろう」
「は?」
にとって、あまりにも突拍子のない言葉だった。
ラーメンと周瑜の華麗な外見とが、どうしても結び付かない。
「どうした? ラーメンは嫌いか」
味は保障付きと言う辺り、通っているのだろうし、好物なのだろう。
「……いえ、好きです」
「そうか、ならば良かった。孫策は別の店を推すのだが、私から言わせて貰えば、一番美味いのはやはりあの店だと思う。も気に入ると思うのだが」
塩が好きだとかメンマを追加するのだとか、語り出した周瑜の顔は生き生きとしていた。
本当に好きらしい。
「では、3月14日に。……都合が悪ければ他の日でも構わないが、その時は早めに連絡をもらえると有難い」
「あの」
は構わないが、周瑜はいいのか。
問い掛けた言葉を、は飲み込んだ。
「……大丈夫です」
「そうか、では3月14日に」
来た時とは裏腹に機嫌良さげに帰っていく周瑜を見送り、は、小喬に怒られても知らないぞ、と小さく呟いた。
普通、バレンタインデーもホワイトデーも、彼女持ちであるなら彼女と過ごすのが通例だろう。
小喬に怒られ、慌てて詫びに来る周瑜の姿が容易に想像できた。
くす、と思わず笑ってしまった。
は椅子に座り、チョコレートをもう一つ口に含む。
甘い至福が口の中に広がった。
「……やっぱり、好きだなぁ」
の呟きは、誰に聞かれることもなく消えた。
終