妙齢の女の子が集まって話すことなど、大概パターン化しているものだろう。
 お昼休み、ドラマの話や仕事の愚痴に飽くと、今度は社内の男達について色々な噂話や品定めが始まった。
「私はねぇ、やっぱりTEAM呉の周瑜課長がいいなぁ〜」
「え、あの人女子高生と付き合ってるって噂だよ。ロリじゃん!」
「夏侯惇部長に彼女できたってホント!? 私、すっごいショックなんだけど!」
「あー、アレ? デマじゃないの。だってあの夏侯惇部長がさぁ……」
 一体どこから聞き及んでくるのだろうと不思議になるほど、彼女達は事情通だった。
 そんな中、はただ黙って微笑んでいるだけだ。決しておとなしい性格だからというわけではない。
 興味がないのだ。
 ドラマも、数いるかっこいい男性社員も、の好みではない。
 今、が最も興味をひかれているのは、先日拾った猫の具合であり、ここの所かかりきりの、冬の新作の制作発表会の為の書類作成だった。
 お昼を食べたら早めに戻ろうと思っていたのだが、女の子同士の付き合いも無下には出来ない。特に、のような事務職の女にとっては、『仲間外れ』は致命傷になりかねないからだ。仲間外れのターゲットにされるのには、大層な理由はいらない。ただ気に入らない、それだけで、面白いほど簡単に横の繋がりがなくなる。
 前の会社をそれで退職したは、運良く一流企業といわれる『K.A.N』に入社できたことに何より感謝していたし、できればずっとここに勤めていたかった。
 好きでもないドラマを録画して見たり、女の子の無味乾燥な世間話に付き合ったり、それも業務の一環だと思えばさほど苦ではない。
は?」
 社内で一番好みの男性は、と口々に言い合っていたのが、にお鉢が回ってきたらしい。
 は、内心面倒だな、と苦笑いしながら、考える振りをした。
「……そうだなぁ、私はやっぱり、うちの『君主』かな」
 他の誰とも被らないように人選する。と、女の子達が一斉にざわめいた。
「嘘ぉ、、親父趣味なのー?」
「ああ、でも、ってそんな感じする」
「でも、曹操専務って女ったらしらしいよ〜、社内に何人も愛人がいるって!」
「君主だったら、私は孫堅専務のがいいな! 渋いじゃん!」
 エトセトラ。
 どうしてこの子達はこんなことでこんなに楽しそうに笑えるんだろう。
 私、おかしいのかな。
 ちっとも可笑しくも面白くもないんだもの。
 笑顔を浮かべながら、は考え込む。
「おや、楽しそうですね」
 ひょい、と顔を覗かせたのは、チーフデザイナーの張コウだった。
「私の名前が出ないとは、至極残念ですね、麗しい方達」
 きゃあっと歓声が沸く。
 女性的な張コウは、女の子達に実はとても人気がある。整った綺麗な顔立ちをしていたし、一度モデルを乗せたバスが事故に遭った時、急遽代役としてステージに立ったのだが、とても素人とは思えない華やかさで見事にショーを成功させてしまった。それ以来、隠れファンが多いのである。
、曹操専務がお呼びですよ」
 早く行かれるといいでしょう、何かご機嫌斜めでしたから。
 張コウの言葉に、女の子達は一斉に顔を合わせ、申し合わせたようにを見た。
 心当たりはない。
 は首を傾げながら、とにかく行ってみようと腰を浮かせた。
「行ってらっしゃい」
 張コウが含みのある笑みを浮かべる。
 何だろう、と不安になった。

 許しを得て、専務室の重たいドアを開ける。
 フロアの明るいオフィスとは違い、重厚な色合いで統一された室内には、センス良く調度品が置かれ、その高価さは美術品には興味のないにも、何となくでも分かるほどだ。
 曹操はその室の奥、幅広の黒っぽい一枚板のデスクに腰掛け、書類を見ていた。大きな窓には木製のブラインドが掛けられ、外の明るい日差しを程好く遮っている。
「この書類だが」
 差し出され、受け取る。
 曹操が指差す項目に答えながら、これぐらいならでなくても答えられそうなものだが、と密かに訝しく思っていた。
「ところで、お前に訊きたいことがある」
 ある程度の受け答えが終わり、そろそろ退室かと思った時、突然曹操が切り出してきた。
「……はい、何でしょうか」
 『君主』が己如きに何を訊くつもりだろう、とは少し身構えた。
 曹操が、薄く笑う。
 君主・曹操は冷笑すれど朗笑はせず。
 敵対するTEAMや会社の人間は、曹操の笑みをそう評価するらしい。
 確かに、あまり気持ちのいい感じはしない笑みだ。
 だけど、この人の仕事の能力は本物だ。指導力も実行力も社内でも群を抜いて高い。切れ味の良い剃刀のような、と言うが、正に曹操の為にある言葉だろう。
 この人の下で働けることは、本当にラッキーだと思った。
「お前は、儂が好みらしいな」
 唐突な言葉に、穏やかだった心情が突然掻き乱された。
 思わず、えっと声を立ててしまう。
 曹操は、そんなを見てくつくつと笑った。これもまた、含みのある嘲笑に見えた。
 かぁっと顔が赤くなる。
 仕事はできる方ではないと思っている。努力して、その能力の足りなさを埋めているつもりだ。
 けれど、いやだからこそ、この手の嘲笑には我慢できない。努力を踏み躙られているような気がする。
「……失礼いたします」
 声が震えていてみっともないと思ったが、このまま残っているのは耐えられそうもなかった。
「怒ったか」
 曹操の冷たい声が、鼓膜を貫いての足を止めさせた。
 怒鳴ったわけではない、声量の如何ではなく、持って生まれた支配者のオーラのようなものが、の足を止めさせた。
 目を見ることが出来ず、俯いたまま『いいえ』と呟いた。
 嘘だ。怒ったのだ。
 だが、それを言って曹操の機嫌を損ねたくはなかった。
 この職を、失いたくなかった。惰性で過ごしていた前の職場と違って、仕事には遣り甲斐があるのだということを初めて知ることができた職場だった。
 今、たった一言の失言で失いたくなかった。
「お前は、儂という人間が分かっておらぬようだな」
 まぁ仕方ない、と曹操は足早にに歩み寄り、が身を引くよりも早く、その手を掴んでしまった。
 同僚の言葉が蘇る。
――でも、曹操専務って女ったらしらしいよ。
 そんなまさか、という否定が先に立った。
 は社内でも地味な方だ。意識して目立たぬように努めてきたこともある。それを、共に仕事をする機会もなかった曹操に見出されるなど考えられない。
 来客用のソファに倒されるように座らされた。
 事務とは言え私服なのが幸いした。今日はパンツスーツだったので、醜態を晒さずに済んだ。
 肩に手を回され、その重みに体が硬直する。
 曹操は、ローテーブルに置いてあった封筒を取ると、に押し付ける。
「見よ」
 封筒には、大きく赤のスタンプで『重要』と押してある。そんな書類を自分が見てしまっていいのかとは悩んだが、曹操の鋭い目に促され渋々中の書類を取り出す。
 書類は、再来年を目処として新しく建てられるショップの計画書だった。
 更に促されて中を見ると、人事関連のトップの方にの名があった。
 店長、と記されている。
 同姓同名。
 が考えたのは、まずそれだった。だが、顔を上げたに、曹操がにやりと笑って遣す。
 では、……ではやはり自分なのか。
 汗がたらりと背中を流れた。
「ちょ……ちょっと待って下さい、私、ずっと事務畑で、店舗経営なんて全然……」
「学べば良い」
 あっさりと切り替えされて、は絶句した。
「お前を推薦してきたのは張コウだ。本来ならば、短期間の予定ではあったが、奴にこの店を任せる予定だったのだがな。これ以上忙しくなるのは肌に悪いなどと抜かしおったわ。オフィス街のど真ん中、逆を言えば休日に客が来ないという悪条件でもある。経営は生半なことではなるまい」
 だったら、尚更自分などが任されていいはずがない。
 は何とかして曹操を説得しようと思うのだが、衝撃が大き過ぎて舌が回らない。
「断るというなら、会社を辞めてもらうよりないな」
 ぴしり、と頬を叩かれるような厳しい言葉に、はがっくりと項垂れた。
 無理だ。
 できるわけがない。
 曹操の目が、不意に緩む。
「……張コウが言っておった。お前は、わざと地味に装っていると。だが、色のセンスに卓越した物を感じる、とな。それは天性のものだ、打ち捨てておいては勿体ない……そうも言っておった。一年、お前を預からせてほしいと、あの張コウが直々に儂に嘆願してきたのだ。その意味が、お前に分かるか」
 張コウは、表向きは柔らかだが、人に対する好悪は異様にはっきりしている。
 好きなのは仕事ができる者、嫌いなのは仕事ができない者だ。
 張コウに見出されることは、ある意味TEAM魏においての出世の登竜門なのだ。
 その張コウが、を見出した。
 更に、直々に己に預からせてほしいとまで申し出ている。
「さて、お前はどうするのだ」
「わ、私……は……」
 できるわけがない。
 そんな重要な、重大なポストについて、やっていけるわけがない。
 でも、

 やってみたい。

 胸が一際高く鳴り響いた。
 曹操が満足げに頷く。
「すぐにも移動書を作らせよう。明日は、直接張コウの元へ行け」
 どもりながらも返事を返すと、移動の準備をしようと腰を上げる。
「……何処へ行く」
「え……あ、あの、机やロッカーの整理を……」
 午後の仕事とて残っているのだ。移動の辞令が出るまでは黙っていなければなるまいが、机は結局片付けなければなるまい。引継ぎの支度もしなければならないだろう。
 曹操が不機嫌そうに眉を顰める。
 何か仕出かしたかと肩を竦めると、曹操は大袈裟に溜息を吐いた。
「……良い、仕事に戻れ。ただし、終業後はすぐに此処に戻って来い」
「打ち合わせでしょうか」
 何気なくが口にすると、曹操は更に不機嫌そうに眉を顰める。
 今度は首が竦んだ。
「……営業時間内に職務を済ませ、営業時間外は私生活を楽しむ。これがTEAM魏の最基本だ。良く覚えておけ」
「は、はい!」
 低い、恫喝するような声音に、思わず直立不動になって返事を返した。
 だが、それならば何をすると言うのだ。
 は不思議に思って曹操を見つめた。
 視線に気が付いた曹操に、ぎょろりと睨めつけられる。
「……良いか、張コウに預けると言っても、それは仕事の上での話だ。勘違いしてはならんぞ」
 私生活に乱れが生じる暇などない、ということだろうか。は疑問に思いながらも、はい、と返事をした。
「とは言え、根を詰めれば疲れも生じよう。体の疲れは休養で取れば良いが、精神の疲れはそうもゆかぬ」
「はい」
「そちらの方は、儂が面倒を見てやる。安心して任せるが良い」
「は……え?」
 それは、如何いう意味なのだろうか。
 先程とは違った緊張が、体を固く強張らせる。
 曹操がにやっと笑った。
 悪巧みを持ち掛けるような、無邪気な子供の笑みに見えた。
「お前の好みは、儂なのだろう?」
 まさか。
「……あの、この人事を承諾されたのって、ひょっとして、ついさっき……とかですか……?」
 そんな馬鹿な。
 だが、曹操は無言のまま、あの無邪気な笑みを浮かべるに留めた。
 張コウに先に手を出されるのを恐れて、人事の発動に躊躇っていた、なんてことは、有り得ない……と思いたい。是が非でもそう思いたい。
 曹操は機嫌良く、デスク前で書類などを見ている。
 こんな、お茶目な人だったろうか……。
 は、自分の中の曹操像が、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じた。
「何処か、行きたい所があるならば考えておくと良い」
 もし何であれば、泊りがけでも一向に構わんと付け足され、は眩暈を覚えて額を押さえた。
「ね、猫が……拾ったばかりなので、ちょっと泊りがけは……」
 何、と曹操が渋面を作る。
「それは心配だな。では、儂がその猫を診てやろう」
 多少は医学の心得もあるぞ、と言われても、人間と猫では雲泥の差があろう。家に上がり込もうと言う魂胆が見え見えだ。
 敢えて答えず、質問をぶつけた。
「あの……専務、私のこと、ご存知だったんですか?」
 曹操は意外そうにを見つめ、何を今更、と呟いた。
「入社当時から、目をつけておったぞ?」
 目を掛けていた、ではなく、つけていた、なのか……。
 がっくりと肩を落とすに、曹操はまた笑った。
「能力のない者に興味はない。だが、能力のある者は全て儂の元に揃えることにしておる……まして」
 引き寄せられ、軽く唇が触れた。
「これと目を付けた女は、逃すまいぞ」
 自分の他に、いったい何人にその口説き文句を言ったのやら。
 どうやら、女の子達の情報は正しいようだ。
「……就業中です、専務」
 続けようとする曹操を押し退け、は曹操の腕の中から脱出した。
「では、終業後なら構わんな?」
 ぬけぬけとほざく曹操に、は白い目を向けた。
「……考えておきます」
「前向きにな」
 扉を閉め、はその場にうずくまった。呻き声が漏れる。
 顔が熱かった。
 嫌ぁっ、冗談のつもりだったのに、ホントにストライクに来たぁっ!
 ちょっと強引で、可愛いところもあって、淀みなくそれでいて押し付けがましくなくを翻弄する男。
 どうしよう、押されたら自信ない。
 は混乱した頭のまま、とにかく仕事へと戻って行った。
 扉を挟んでの様子を楽しんでいた曹操は、予想通りの楽しい反応に心を躍らせていた。最初にを見つけた時から、ずっとシミュレーションしてきたのである。完璧だった。
 デスクに戻ると、内線をかけて人事部に異動の命令書を作るよう命じる。
「……専務付プランナー兼任、と入れるのを忘れるなよ」
 相手方は、どういう人事だと押し黙ったが、曹操は構わず内線を切った。
「張コウめ、儂が目をつけておったのを知っておったくせに」
 本当なら、曹操付きの個人秘書にする予定が狂ってしまった。
 よりにもよって口うるさい夏侯惇の前で、『欲しいのです、あの才が! 何でしたら、隅の隅まで私の色に染め上げて』などと言うものだから、曹操の都合良く人事の手配が出来なくなってしまったのである。
「まぁ良いわ」
 予定とは違うが、何とか最初の口付けまでこぎつけた。
 今宵は、何処まで行けるだろう。そう考えると、胸が弾んだ。

 恋の曹操、本領発揮はこれからである。


  終

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