相手の好みさえおおよその見当が付けば、落とせなかった男はまず居ない。
 は、自身が嘯く言葉を実際にこなしてみせてきた。
 大抵の女性には嫌われ、片手に足りる数の友人には呆れられる。
 仕方ないと開き直るからいけないと、忠告好きな友人に幾度叱り付けられたことか。
 曰く、は子供なのだという。
 が男に対して求めるものは、ある意味求められても困る代物で、だから相手が気の毒だと言うのだ。
 とは言え、それは友人の解釈であり、に実感はない。
 何とはなしにいいな、と感じると、とにかく落とさなくてはという義務感に駆られる。
 恋人の居る居ないに関わらず、ともかく振り向かせたくてしょうがなくなるのだ。
 いっそ、他人の男が欲しくてしょうがないというのであればきっぱり決別できるのに、と前述の友人は言うのだが、も相手の何に惹かれるのか理解しないまま突き進むので何とも言いようがない。
 の口説きに陥落した男達は、けれどしばらくするとから離れていく。
 その理由もよく分からない。
 何となく、とか、どうしても、とか、口の中でぶつぶつ呟くようにして別れを切り出す相手は、必ず既に新しい相手を作っていて、それでも、何となくあっさり引かざるを得なくなる。
 得なくなる、と言うのがおかしいと友は言う。
 じゃあどうすればいいのだとが問い返すと、始まりそのものがおかしいのだと言い返される。
 定番のようなやり取りだった。
――いい、じゃなくて、好きって思ったら告白しなさい。その時に、自分を作ったら絶対駄目。
 友人の忠告は毎回一言一句違わず、ももう暗記してしまった。
 しかし、その言わんとするところは分からない。
 いいなと好きだなの差が分からない。自分を作ったら駄目、という意味も分からない。
 好意を持つ相手に好かれたかったら、相手の好みの態度・行動を取るのが当たり前だと思う。
 相手に合わせようともせず、ありのままの自分を好きになってほしいなどとは、我儘もいいところではないか。
 そんな女の考えること等、には理解し難い。
 そもそも、ありのままの自分を好きになってもらえなかったら、どうするのだろう。癇癪起こして泣き喚くのだろうか。素の自分を好きになってくれないなんて、どうかしているとでも思うのだろうか。
 でなければ、じゃあしょうがない仕方がないとして、さばさばと次の相手を探すのかもしれない。
 とにかく、想像が付かなかった。
 忠告好きの友人も、のこの疑問には手を焼くようで、世の中には加減と言うものがあるのだ、という謎めいた言葉で切り上げてしまうのが常だった。
 自身、突き詰めて考えるのが苦手な性質であったから、『悪癖』は『悪癖』のまま今日まで来てしまったのだった。

 家がそこそこいい家だったので、は女官として城に上がることを許されていた。
 出身が物を言うご時世である。
 今、の住む成都を納めている劉玄徳も実は天子の末裔と言うから、率直に時世を写していると言って良かった。
 成都は山間に位置しているせいか、それ程人が多いということもない。
 働き手は多ければ多い方が良いのが通念で、遊んで暮らせるようないい御身分の者はほとんど居ない。よって、が働かなくてはならないのも極当たり前の話だった。
 ところが、前述の通りの気質はとても万民に愛されるものではなく、従って他の女官達には悉く嫌われた。
 働きが悪い訳でもなし、何もここまでとは思うものの、神経質にの存在を煙たがる女官達の包囲網は、を確実に追い詰めていった。
 幸いなことに、自身がキレる前に周囲の者がそれと気付き、を別の職場へと移して事態の収拾を計ってくれた。
 ただ、水魚の交わりとして名高い諸葛亮直属の女官、という立ち位置は、の身を案じてのものだかどうだか甚だ怪しいものだった。
 諸葛亮と言えば、国家の重鎮中の重鎮と言っていい。
 下手な真似をすれば首を落とされるより恐ろしい目に遭わないとも限らず、はしばし無用の緊張を強いられたものだ。
 上官下官の区別なく、惚れ込んだとなれば何の遠慮もなく声を掛けるでも、まさか天下の臥龍相手に軽はずみはすまいと仕組まれたのやも知れない。
 だが、慣れてしまえば思ったより居心地のいい働き口だった。
 諸葛亮は多くを求めなかったし、は女官として最低限の働きをこなせばそれで良かった。
 殊に、諸葛亮の休憩時には間を空けず熱い茶を出してくれるところが気に入ったとかで、を顔ではなく名前で覚えてくれるまでになっていた。
 褒められ、その理由を聞かされた時、しかしは戸惑いを隠せなかった。
 仕事がない時は湯の傍で控えているからこそ、出来ることだ。特別なことではないし、他の女官達にはむしろさぼりと取られることの方が多い。
「そうですか」
 の言葉を面白げに聞いていた諸葛亮は、その表情を崩さぬままに口を開いた。
「……ですが、他の女官には出来なかったことなのですよ。貴女のように素早く、しかも味も良い茶を出せる女官は悲しいかな、居りませんでした。貴女には出来た。ですから、私の褒め言葉を素直に受け取ってはくれませんか」
 確かに、他の女官達は暇があればおしゃべりにうつつを抜かしに行ってしまう。湯の傍で待機していようなどとは思うまい。
 だが、とて同性とのおしゃべりは嫌いではない。話す相手が居ないから、仕方無く湯の傍に居るだけの話だ。
「でも」
 言葉を募ろうとするに、諸葛亮は絶妙の間合いで茶器を置いた。
 微かな音に勢いを殺がれ、は口を閉ざす。
「やれることを、やらずにいるのとやっているのとでは雲泥の差があります。貴女はそのことを覚えておかれると良い」
 柔らかな笑みと伏し目がちな黒目は、本来相反したものだ。
 けれど、諸葛亮の涼やかな顔の輪郭に納められてしまうと、それら二つは奇妙に調和してを惹き付ける。
 高鳴る胸に、ああ、またいつものが始まった、と半ばうんざりした。
 諸葛亮相手ではどうにもならないではないか。
 身分の高き、尊きもさることながら、諸葛亮には才にも恵まれた美しい妻が居る。
 それでも自分は諸葛亮を求めようというのだろうか。
 が自身の内面に向き合っていた時間は、想像するより遥かに短かったろうと思う。
 しかし諸葛亮はその間を見逃さず、まるで心の裏側までも覗き込むように目を凝らした。
「何か、気懸りなことでも」
 問い掛けの形は取っていても、問い掛けとは思えない。
 言え、と厳命されているような心持ちにさせられた。
 困って、それで常の友人とのやり取りを口にした。かねがね疑問に思っていたことだから、この際諸葛亮の知恵を拝借できればすっきりするかもしれないと考えたのだ。
 くだらないことにその知の結晶を一片たりとて使わせることにはやや抵抗があったけれど、惚れました口説かれて下さいなどと戯言申し上げるよりは遥かにマシだと思えてならなかった。
「好きになった相手に合わせる、ですか」
 諸葛亮はわずかに呆れているようだ。
 呆れられても仕方がないとは思ったが、本当に呆れられると何だか立つ瀬がない。
 軍略とか政略とかに使うべき知識を、確かにこんな瑣末な話に役立てろとは暴挙もいいところなのかもしれなかった。
 気まずさから取り消そうと思い立つが、それより早く諸葛亮が口を開く。
「本来、そのような気遣いは言葉に表すべきものではありますまい。相手に合わせる、特に己から好意を抱いた相手に合わせようなどとは、極々自然な感情なのですから」
 思いがけず肯定され、はうろたえながらも口の端を綻ばせた。
 諸葛亮の言葉は、だがそこで終わらない。
「問題は、相手に合わせ過ぎることでしょう。相手を一方的に思い、敬い、へつらうことに何の意味があるのか。中には、そのような相手をこそ好む性質の者も居りますが、まず一つの例外もなく暴君愚民の類に該当せし者となりましょう。まともな神経を持つ者であれば、十をして十、百をして百、一切逆らうことなく粛々と従う人間など薄気味悪くこそあれ、まともに付き合おうとは思えますまい」
 あまりの言いように、は唖然とさせられた。
「……刃向かったり、罵ったりする方がまだましだと仰るのですか」
「そうは申しません。ですが、何事にも限度と言うものがあります。人は、止めて欲しい時、叱り付けて欲しい時があるものです。また、自分と異なる意見に耳を傾け、より良いものを求めたいと思うこともあります。それを、ただ言うがままにはいはいと答えられて、果たして気分がいいものでしょうか。まともに取り合う気がないだけ、己と深い付き合いをするつもりがないと思われないとは限らないのではないでしょうか」
 諸葛亮の言葉は歯切れが良く、否定する材料をに与えない。
 人それぞれではあるが、と逃げの言葉で締められては、最早言うべきことすら見つからなかった。
 酷く納得した。
 相手に合わせていれば良い、というのは、結局すべてを相手任せにして自分は責任を負わない卑怯なやり方とも言える。
 放った問いが返りもせず、足もとに無様に投げ出される惨めさは考えるだに鳥肌立った。
 聞いて、と話し掛けた相手が、生返事ばかりだったとしたら、腹が立つだろう。
 何故なら、まともに相手にされていないからだ。してくれようという意志が感じられないからだ。
 従順で聞き分けがいいことは、決して完全な美点ではなかったのだ。
 長年やり取りしてきた問い掛けは、諸葛亮の手であっさりと解に導かれてしまった。
 友人も、恐らくは同じことが言いたくて、けれど言葉を見つけられずに歯がゆい思いをしていたに違いない。
 諸葛亮の言葉は何一つ難しくはなかったが、いざ自分で考えて答えようとすれば、それは難解かつ複雑で的を絞れないものになろう。
 冷静かつ沈着に、あくまで一事象として人の心を捉えるからこそ、こんなにもはきはきと答えられるのだろうと想像できた。
「好きです」
 告白の言葉は、の意思を無視してぽろりと転げ落ちる。
 諸葛亮に動じた様子はない。
「何故です」
 飲み乾した茶器を軽くの方へと押しやってくる。
 そろそろ休憩は終わり、手短に答えろという合図のように思えた。
「私、の、悪癖を治す……その、理由を、きっかけを下さいました、から……」
 好きと思ったら、告白していいんだよね、と脳裏に浮かぶ友人に密かに問い掛ける。
 友人は答えず、いつもの困った笑みを浮かべていた。
――あ、そうか……自分を作ったら駄目なんだよね……?
 でも、本当の自分って何だろう。どんななんだろう。
 途端に困り果て、泣きたくなった。
 諸葛亮に、何となく、どうしてもと切り出されたらと考えると、それだけで胸が痛くなる。
 こんなことは初めてだ。
「生まれ立ての赤子のように、何も知らず、何もかもに答えを得ようとするのですね、貴女は」
 諸葛亮が席を立つ。
 椅子の足がずれて、耳障りな音を響かせた。
「私も、貴女に興味が沸きました……ですが、それだけです」
 胸の痛みは切り裂くように強くなり、の眦から涙が零れ落ちる。
 諸葛亮の吐息が髪に触れ、その指が俯いたの顔を上げさせた。
「私の関心を、興味を惹いてご覧なさい。そうしたら、私の方から貴女を口説いて差し上げましょう」
 諸葛亮は、笑っていた。
 声こそ挙げてはいなかったが、上辺だけの感謝の笑みでなく、心から愉快そうに笑っている。
「で、でも」
 自分を作ったら、いけないのではなかったか。
 の疑念は、言葉に紡ぐより早く諸葛亮に聞き取られていた。
「作るも何も、貴女は未だこれが貴女だという貴女を持っていない。違いますか」
 生まれ立ての赤子とは、比喩ではない。
 何も考えることなく、ただ何となく相手におんぶして生き様を定めようとしていたの性質を、如実に言い表していた。
「私は、貴女に何も求めません。だから、貴女が私の言いなりになることも、そんな貴女を愛いと思うこともない。貴女は、ただそこに在るだけで私に求められるような女性にならなくてはいけない」
 諸葛亮は卓に乗せられたままに放置されていた茶碗を取ると、の手にぽんと乗せた。
「本日の茶も、大変美味でした。片付けの方をお願いいたします」
 そうして肩を抱き、を戸口へと連れ出してしまう。
 背後で閉められた扉が沸き起こす風に押されて、はふらふらと廊下を歩きだした。
 一人廊下を歩いてしばらく、ようやく、体良くあしらわれたのではないかと思い至った。
 の惚れっぽさが側仕えする諸葛亮の耳に届いていないとは思えなかったし、よしんば届いてないにせよ、美麗な妻を持つ身で言うことだろうかと思えたのだ。
 軍師なのだから、の一人も籠絡できなくては話にならないのかもしれない。
 とにかく諸葛亮の本意が読み取れなくて、は眉を顰めた。
 同時に頬が熱くなる。
 何も求めない、と諸葛亮は言っていた。
 けれど、『自分が惹かれるような女になってみせろ』との言葉は確かにに対して『求める』言葉であった。
 合わせることと求めに応じることは、どう違うのだろうか。
 求めに応じて、応じられた時、果たして諸葛亮はをどうするつもりなのだろうか。
 には判じられなかったが、ただ、諸葛亮が好きだという気持ちだけはしっかりと、の胸に焼き付けられていた。

  終

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