は自宅のアパートに戻ると、ブーツを脱ぎながら奥に向かって声を掛けた。
「ただいま、劉備様ー」
 すると、襖がすっと開いて、劉備がひょっこり顔を出した。
「おお、お帰り、殿。今日は遅くなると聞いていたが、案外早かったのだな」
 わざわざ玄関まで出てきてくれた劉備に、は手にした紙袋を差し出した。
「チョコ、食べます?」
「よろしいのか」
 嬉しそうににっこり笑うと、劉備は両の手で恭しく袋を受け取った。
 現代に来てこの方、チョコレートは劉備の好物の一つだ。
 元々甘い物が好きだったようだが、食べ過ぎて太ってしまわないかと密かに心配している。
 袋を覗き込んだ劉備は、ちょっと不思議そうな顔をした。
「……殿、これは、何方かに差し上げると仰っていたのではなかったかな」
 よく覚えている。
 と言っても、劉備がこのチョコレートをとても食べたそうにしていて、強請られた時に人にやるものだと説明はしてあった。きっと、それで覚えていたのだろう。
「あぁ、渡す必要、なくなっちゃったんで。劉備様用はちゃんと別に用意してありますけど、良かったらこっちも食べちゃって下さい」
「しかし……」
 困ったようにを見詰める劉備に、は軽く肩をすくめた。
「渡す前に、要らなくなっちゃったんです、ソレ」

 コーヒーを淹れ、炬燵に潜り込んだは、『不要』になったチョコレートの包み紙をやけくそ気味に盛大に破り始めた。
 その破砕音に脅えるように身を縮こまらせた劉備は、の顔を不安げに見詰めている。
「……でね、薄々は感付いてた訳ですけども、私もいい加減諦め悪い性質だったもんですから、見て見ない振りしてて。そしたら、今日になって発覚しちゃった訳ですよ」
 が付き合っていた男は、と他の女性を二股掛けていた。
 今日になるまでその二股相手が誰か分からなかったのだが、相手の方から名乗り出てきて、それと分かった次第だ。
 相手は、の後輩だった。
 これまで手取り足取り仕事を教えて目を掛けていた子だっただけに、の衝撃は計り知れない。
 プライベートまで話していたのが仇を為した。
 の彼氏に横恋慕した後輩は、の知らぬところで猛攻を仕掛け、二股相手の座にちゃっかりと収まっていたのである。
 加えて、劉備のことさえあることないこと吹聴していたようだ。
 部屋はきっちり分けていたし、探られて痛い腹などないのだが、同居している事実そのものが災いしたらしい。
 が彼氏と待ち合わせした場所に突如割り込んできて、勝手なことを散々に喚き散らした。
 一度はかっとしかけただったが、不意に馬鹿馬鹿しくなって醒めてしまった。
 二股掛けてへらへら笑っていられる彼氏と、自分の所業を棚上げし、正義漢面して怒り狂う後輩を見て、つくづく自分が情けなくなった。
 こんな連中と付き合っているのもアホらしいと、熨斗付けてくれてやるから好きにしろと言い残して帰ってきたのである。
 職場のことを考えると気が重かったが、別に犯罪を犯した訳ではないから気にしたことではない。
 同僚には先程一斉メールで事の次第を暴露したから、多少度胸も付いていた。
 意外とショックもないのだが、話を聞かされた劉備の方はそうもいかないようだった。
 顔面を蒼白にして、微かに震えてさえ居る。
「わ、私のせいでそのような……」
「……いや、だから。劉備様のせいじゃ、ありませんから」
 元々二股を掛けていたのは向こうの方だ。
 大体、劉備のことは事情があって親戚を家に同居させていると言ったまでで、あの連中が勝手に妄想したに過ぎない。
 それこそ持って生まれた品性を疑われたとしても、仕方がないというものだ。
 劉備は何事か思い悩んでいたようだが、炬燵から抜けると、の横で正座した。
殿」
「はい」
「私の嫁御になっていただけまいか」
 思わず固まる。
 冗談かと思ったが、劉備は至極真面目な顔をしており、とても冗談とは思えない。
 唐突に申し出ていい事柄でもなかろうに、強い責任感が明後日の方向にでも発動してしまったのだろうか。
 は何の気なしにチョコレートを摘み上げ、劉備の口元に運んだ。
「……殿」
 何事か言い掛けた劉備の口に、チョコレートを放り込んでしまう。
 うぐ、とかむぐ、とか言いながら、口の中に放り込まれたチョコレートに難儀している劉備を見て、はようやく冷静な判断能力を取り戻した。
「責任とって、なんて、今時流行りませんよ」
 言ってから、そうか、この人はずっと昔の人だったなと思い出した。
 チョコレートをようやく食べ終えた劉備が、再び口を開く。
 は、タイミング良く二個目のチョコレートを放り込んだ。
 あぎ、とかんぐ、とか言いながら口の中のチョコレートと格闘している劉備を、はじっと見詰めた。
「私のこと、好き?」
 チョコレートを飲み込んだ劉備は、またも口を開き掛け(今度は箱に収められたチョコレートをちらちらと見ながら)、タイミング良く掛けられた言葉に目を丸くした。
 その顔が、かぁっと赤くなる。
 そうか、好きか。
 どんな言葉よりも雄弁な表情に、も釣られて赤くなる。
 この様子では、責任取って、という訳ではないようだ。
 ならば、つまりそれは、前からそういうことだったのだろう。
 照れ隠しに口の中に放り込んだチョコレートは、今まで食べたどんなチョコレートよりも甘かった。
殿」
 おずおずと劉備が声掛けてくる。
「そんなとこに居ると、寒いですよ」
 炬燵布団をめくり上げ、自分の隣に劉備を招き入れる。
 劉備も無言で応え、の隣に潜り込んだ。
 並んで腰掛け、気が付くと、二人の手は繋がっていた。

  終

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