今日という日を迎え、周瑜は晴れやかだった。
 対して、は幾らか不機嫌そうに見える。
「……そんな顔をするな。お前も元の世界に戻れるのだ、もう少し喜ぶといい」
 周瑜が喜んでいるのには、歴とした理由がある。
 それはちょうど昨年のことだ。
 どこからともなく響いた声に、周瑜が妻、小喬は答えてしまった。
「えっと……とりっく?」
 途端、小喬の姿は消えた。
 代わりに現れたのが、だった。
 二人は入れ替わりに互いの世界へ飛ばされたのだ。
 周瑜の取り乱しようは凄まじかったが、の持っていた鏡が周瑜の乱心を鎮めてくれた。
 見上げる空さえ異なってしまった二人だったが、たまたま互いに持ち合わせていた鏡を通し、元の世界と声の通信だけは出来る。
 そこで、小喬はの家に、は周瑜に保護されることが決まり、『元の世界に戻れる』と思しき翌年の今日を待つことになったのだった。
「……ンなこと言ったって、ホントに戻れるかも分かんないし……」
 下手すると、また別の世界か世界と世界の狭間に閉じ込められてしまうかもしれない。
 SF小説やファンタジーが確立した現代に住むの方が、その手の知識は広く深い。
 だが、そんなとは裏腹に、周瑜は酷く楽天的である。
 周瑜の性格を慮かるに、これは非常に珍しいことだった。
 とは言え、その理由は実に簡潔明瞭である。
『大丈夫だよ、ちゃん。あたしには、分かるの』
 鏡から漏れる脳天気な声に、周瑜の表情は緩む。
「もうすぐ会えるな、小喬……」
『周瑜様……』
 目の前で繰り広げられる甘ったるい会話に、は口をへの字に曲げた。
 手にした鏡を、ぽいっと井戸に投げ捨てる。
「! 何をする!」
「知らないよ! 人の気も知らないで、目の前でいちゃつかないでよっ!」
 叫ぶの目から、涙が溢れ滴り落ちる。
 ぎょっと身を引く周瑜に、は自嘲めいた笑いを浮かべた。
「ごめんなさい……ちょっと、苛々しちゃってて……ごめんなさい……」
 見るからに肩を落としたは、ノロノロと井戸の縁へ向かう。
 それを、周瑜が引き止めた。
「……すまぬ、お前の気持ちも省みず」
 期日が近くなるにつれ、が鬱々とすることが多くなったことは周瑜も知っていた。
 それを、小喬が戻る嬉しさにかまけて放置してしまっていた。
 戻れるのだから嬉しいだろうとは、何と惨い言葉だったろう。
 小喬がの家族に大切にもてなされているのを、近付く別れに名残惜しんでくれていることを聞いていながら、自分の仕出かした心ない仕打ちを悔やむ。
 が本当に戻れるかどうかと恐れていたにも関わらず、慰めの言葉一つも掛けていなかったことを改めて思い起こし、周瑜は深く落ち込んだ。
「……公瑾さん」
 いつの間にか、周瑜の傍らにが立っていた。
 周瑜の服の袖を握るの手は、酷く心細そうだ。
「私、ホントは、帰るのが怖いんじゃない」
 涙で潤んだ目が、周瑜を捕らえる。
 その目が持つ熱さを、周瑜は知っていた。
 はっとする。
、君は」
 濡れた目で見詰めるの唇は、蝶を誘う花のように艶やかだ。
 戦慄きながら愛の告白を象るその動きに、周瑜は魅せられたように唇を寄せた。
「周瑜様っ!」
 ぱぁっと光が溢れ輝き出す。
 光の元は、井戸の底だ。
 ほぼ同時に、盛大な水音が響き渡る。
「やだぁ、何これー!?」
 ばしゃばしゃと派手な悲鳴と音が続いていた。
 周瑜は、ぱっと腕の中のを振り返る。
 は確かにそこに居た。消えてしまいそうだ、ということもない。
 二人は入れ替わりで互いの世界に飛ばされたと思われていたのだが、こうなってみるとどうも違うらしい。
「……ねぇ、公瑾さん」
 に突かれ、周瑜は我に返った。
 大慌てで井戸端に駆け寄り、小喬に励ましの声を掛ける。
 騒ぎを聞き付けた呉の臣下が集まって、辺りは騒然とし始めた。
 は、一人ぼんやりと手のひらを眺める。
 やはり、消える様子はない。
 ここに残りたいと、周瑜の側に居たいと願ったからだろうか。
 小喬もまた、きっとそう願ったからこそこの世界に戻ってこれたのだろう。
 周瑜を想う心は、互いに劣らず、負けぬくらい強いのだ。
 そのことは、この事実が証してくれている。
 しかし、小喬は周瑜の妻であり、対するはただの保護対象に過ぎない。
 競おうにも立場が違い過ぎる。
 でも。
 それでもは、周瑜を諦めるつもりにはなれなかった。
 助け出された小喬の姿を見て、は足早にそちらへ向かう。
ちゃん」
 塗れ鼠ながらの姿を見て笑みを浮かべる小喬に、は仁王立ちで対峙する。
「私、公瑾さんが好き!」
 二人を取り囲む人垣が、周瑜を含め一瞬にして凝る。
 小喬も驚いたようで、大きな目を真ん丸く見開いた。
 が、すぐ様不敵な笑みを浮かべ、と張り合うように仁王立ちする。
「私だって、周瑜様、大好きだもん!」
 ぴんと張り詰めた空気が、周囲をも緊張に巻き込む。
 睨み合う二人の視線が、激しくぶつかった。
 そして、二人は大口を開けて笑い出す。
 周りも、周瑜も、呆気に取られて二人を見遣る。
 二人は同時に、くるりと周瑜を振り返る。
 周瑜は訳もなく、びくりと身を震わせた。
「Trick or Treat!」
 声を揃えた『呪い』に、周瑜は慌てふためく。
 消えはすまいかと体のあちこちを覗き見ている滑稽な様に、二人は声を揃えて笑い出した。
 笑いは笑いを呼び、その周辺は笑いの渦に包まれる。
 周瑜もとうとう、皆に釣られて笑い出した。
「……負けないからね」
「私だって」
 と小喬は、ひっそり囁き合い、そっと手を繋ぐ。
 気付いた周瑜は、とてつもなく複雑そうな目で二人を見ている。
 思わず吹き出した。
 皆の笑いは、長く長く続いていた。

 終

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