ここ最近、夏侯惇の生活は単調を極めていた。
 大きな戦がなかったせいもあろうし、都に留まり執務中心の生活を送っていたせいでもあろう。
 曹操にからかわれ尽くして一日を終え、屋敷に帰るとが出迎えてくれる。
 を相手に酒を呑み、延々と曹操の愚痴を零す。
 零すだけ零すと、人心地付いて眠気を喚起され、眠りに就く。
 その繰り返しだった。
 は、異世界から来た娘だった。
 夏侯惇の他は曹操と夏侯淵のみが知る事実であり、ろくでもない騒ぎになるのを恐れて三人は口を噤んだ。
 田舎から戦火を逃れてやってきた縁戚の娘であると言うことにして、夏侯惇の手元に置いている。
 深窓の令嬢扱いで、知らぬ者からやたらと興味をもたれていたが、先日夏侯惇の手が付いたと噂が流れ、沈静化して今に至る。
 噂だけでなく、事実手を付けたのだが、きちんとの了承を得た上での話で、だから『手を付けた』等と不名誉ないわれを受ける覚えはないと夏侯惇は胸を張る。
 式こそ挙げていないが、正当な妻であると夏侯惇が認め、家人もそれに倣っている。
 妻だ妾だの区別は、夏侯惇には興味はないが、が肩身の狭い思いをするのが不憫でそう定めた。
 結局、夏侯惇のベタ惚れなのだった。
 曹操の愚痴を零すのも、に限っての話だった。
 他の者には決して言わない。例え夏侯淵を相手にしても、愚痴など零したことは(他者からの判断はどうであれ)一度としてなかった。
 に曹操の愚痴を零すのは、つまり、夏侯惇なりの最大の愛情表現と言ってよかった。
 夏侯惇が最も敬愛する男に対して零す愚痴を聞けるのはだけであり、それだけ特別なのだと証していた。
 思い込みかもしれないが、夏侯惇はも分かってくれていると信じていた。
 だからこそ、延々と零してきたのだ。
 今、が夏侯惇の愚痴を遮り、強張った顔で夏侯惇の前に立つまでは、ずっとそう思い込んでいた。

「お話があります」
 強張った顔に似つかわしい、強張った声だった。
 耳にした途端、夏侯惇は逃げ出したい心境に駆られた。
 それこそ脇目も振らず、このまま真っ直ぐ屋敷を飛び出して、何処ぞの僻地で異民族相手に刀を振るっていたい。
 叶う筈もなく、夏侯惇は一つしかない眼をうろうろと宙に向けた。
 如何にも嫌そうな態度にも気を悪くしたか、ふっと視線を俯けて夏侯惇から逸らした。
 夏侯惇は心底動揺した。
 強張った顔を向けられた時もぎくりとしたものだが、向けられた視線を逸らされて、ほっとするどころか更に動揺していた。
 これ以上この場に留まっては、良くないことになる。
 直感して、夏侯惇は逃げ口上を探した。
「……今宵は、もう遅い。明日にせんか」
 言い逃れるにしても、もう少しマシな言葉はなかったのかと、己自身に腹立たしくなる。嫌なことを先送りして、その場しのぎをしただけだ。
 の目が怖い。妙に力が篭もっている。
「今日、でなくては、駄目なんです」
「……そうか」
 勢い込んでいると感じた。
 ならば、夏侯惇が何を言おうと火に油を注ぐのみだろう。
 黙って聞いておくのが得策だ。
 得策だと思う。
 だが、どうしても動揺が収まらない。聞きたくないと神経がざわめく。
「酒を」
 落ち着こうと手にした酒瓶を逆さにすれば、既に呑み尽くしてなかった。
 これ幸いと催促する夏侯惇に、は眉を吊り上げた。
 すぐに下がりはしたものの、下がり過ぎて悲しげな顔になる。
「私の話は、聞きたくないんですか?」
 そうではない。
 慌てて否定しようとした夏侯惇だったが、は酒瓶を手にくるりと背を向けてしまう。
「……もういいです。お酒、取ってきます」
 力ない肩に、か細い背に、あからさまな落胆の色が見える。
「すまん」
 夏侯惇に抱き留められ、はその場に立ち止まった。
 けれどその顔は俯けたまま、夏侯惇を振り返ろうとは決してしなかった。
 愚かな真似をした。
 失態を償う機を自ら逸してしまったのだと、ひしひし感じていた。
 これでは、に見損なわれてもやむを得ないではないか。
「……お前が、いい加減俺に呆れても仕方なかったな。すまなかった。だが、俺は、お前を手放したくはないのだ」
 その思いに偽りはない。
 に告白をした日から、その思いに頷いてもらった日から、夏侯惇の心はずっとに傾き続けている。
 今、この手を振り払われたら、夏侯惇は寄る瀬を失くした小舟のように己を見失うことだろう。
 が顔を上げた。
「は?」
 何を言っているのだと非難せんばかりの呆れ顔だった。
 白けた空気がどっと辺りを支配する。
「……は?」
 奇妙な沈黙が落ち、夏侯惇もも、互いの顔を見つめ合った。
「……私が、何を言うつもりだと思ったんです?」
「……あ、いや……その、だな……」
 どうもすれ違いが生じていたらしいと分かり、夏侯惇は冷や汗を掻いた。
 愚痴を零すことにどうしようもなく女々しさを感じており、にだけだと思ってはいても、いつも引け目のような気持ちを感じていた。
 それでつい思い込んでしまったようだが、が聞かせたかった話とやらは、夜毎に聞かされ続ける愚痴への不満ではなかったらしい。
 で、誤解が解けたと察したのか、急に肩の力が抜けた。
 酒瓶を卓に戻すと、夏侯惇の手を取る。
「今日は、私の世界では、バレンタインデーという日なんです」
「そ、そうか……」
「はい。……それで、そのバレンタインデーという日は、女性から男性へ愛の告白をしてもいいという日なんですよ」
 夏侯惇の一つしかない目が、丸くなる。
 の顔は真っ赤に染まり、眼の辺りに妙に力が篭もっていた。
 赤くなったところ以外は、ちょうど先程見せた表情とそっくりだ。
 あぁ、とようやく夏侯惇は納得した。
 が何の話をしようとしていたのか、理解できたのだ。
 肩から力を抜き、の顔を見詰める。
「……私から貴方に、ちゃんと言ったことがなかったと思って……」
「……そうだったな……」
 夏侯惇から告白をした。
 お前が大切だと、この天の下で唯一想える女だと、だから傍に居て欲しいと希った。
 は、ただ『はい』と言って頷いた。
 それでいいと思っていたが、確かにから夏侯惇をどう想っているかは聞いたことがなかった。
 繋いだ手から、が微かに震えているのが伝わってくる。
 酷く緊張しているのが分かって、夏侯惇は優しく、愛おしく、握った手に力を篭めた。
 しっかりと包まれて、は力を得たものらしい。
 俯けた顔を凛と上げ、夏侯惇に微笑み掛けた。
「貴方が、大切です。この天の下、貴方だけが私の想い人。だから、ずっと傍に置いて下さい」
 はっきりと言った後、はほっと溜息を吐いて、夏侯惇の胸に頬を寄せた。
「……好きです……」
 真摯な告白は、想いを通じ合っていたからこそ、言い難くもあり余計な緊張を促したのだろう。
 大任を果たしたかのようなの様に、夏侯惇はこれまで以上に愛しさが込み上げてきた。
 夏侯惇はを抱き寄せ、その髪に唇を寄せた。
 芳しい花のような香りに、夏侯惇はえも言われぬ安らぎを覚える。
 大切だ、と改めて感じた。
 この天の下のみならず、天の上、また果てまでも、想う女はのみだと誓うことが出来た。
 しばらく二人で抱き合っていたが、それだけでは物足りなくなってきた。
 安らぎが情動へと変化する。
 傍にいたいと思う心が、相手を得たいという衝動を促した。
 寝室へ移ろうとさりげなく体を起こすと、夏侯惇の胸に顔を埋めていたが、不思議と憮然とした顔をしている。
 てっきり喜びに打ちひしがれていると思っていた夏侯惇は、の意外な表情に首を傾げた。
「……で、貴方は私が何を言い出すと思われてたんですか?」
「……その話は、まぁ、良かろう」
「良くはありませんよ、気になります」
 すったもんだの挙句、渋る夏侯惇から事実を聞き出したは、滅多に破裂させない癇癪玉を爆発させた。
 そんなことで腹を立てるなら、とっくに腹を立てて屋敷を飛び出していると言うのだ。
 確かにその通りだったから、夏侯惇は反論も出来ず、の怒りを一身に受ける羽目になった。
 すぐにの怒りは解けて、二人仲良く寝室に向かうのだが、これは蛇足の話である。

  終

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