孫策が良く食べることは、正直にとっては誤算だった。
 とにかく食べる。
 がっつり食べる。
 ご飯だったら一回で三合はぺろりだ。
 体育会系の男子だったらこれぐらい食べるのは当たり前なのかもしれないが、生憎の周りにその系統の男子は居らず、正常な男子が食べる量として許容範囲なのかどうかも判然としない。
 あんまり良く食べるものでこちらの食欲がなくなるのはいいとして(本当は良くないのだが)、問題は家計にモロに逼迫するということだった。
 はそれ程がっつり食べる方ではない。
 けれど、一人暮らししている都合上、孫策が食べれば食べるだけ財布にダメージを被るのは当然の話だ。
 これが痛い。
 物凄く痛い。
 ここ最近、の家では米の飯は出てこない。
 もっぱら麺類の理由は、単純に米が高くて麺(乾麺)が安いからだ。
 近所の100均やらで買い占めてもすぐになくなってしまうのだが、それでも一食100幾らで主食が賄えるのは大きい。
 が会社に行っている間は、菓子やパンを与えている。
 それらは好まないのかあんまり食べないようで助かっていたが、それでも一人暮らしでそれなりで収まっていた食費が、がつんとかさむようになったことに変わりはない。
 どうしたものか考えて、ある日思いついたことがある。

 孫策を外に出したがらないが、珍しく孫策を連れて外に出た。
 理由は悪目立ちするからなのだが、そろそろ食費に不安が出てきたとしては、やむにやまれぬという心持ちだった。
「何処、連れてってくれんだ?」
 無邪気にはしゃいでいる孫策に、は目当ての店を指差した。
 行列こそないが、そこそこ混雑したラーメン屋だ。この辺りではそれなりの人気店なのである。
 最近では珍しくなりつつある『15分内に食べ切れたら賞金一万円』の張り紙が、入口の前にでかでかと張り出されている。
「これ、食べ切ったらお金もらえるんだよ」
「……へぇー」
 おかしなことをすると言わんばかりに目をきょろんと揺らしている孫策に、は少し不安を覚えた。
「大丈夫? 食べ切れる?」
 食べ切れなかったら五千円払わなければならない。
 正直、それは痛い。
 孫策が無理そうなら、この案は没にして別の案を考えようと思っていた。
 だが、孫策は張り紙を繁々と眺め、心配するを余所にひょいっと入っていってしまった。
 が慌てて孫策の後を追うと、孫策はカウンターの一席に腰を下ろしていた。
「表のやつ、金もらえるんだよな?」
 開口一番そんなことを言うもので、店主の目がきらりと光る。
「お客さん、あれ挑戦すんの?」
「おう」
 やる気なさげに返答する孫策に、店主はカウンターからテーブルに移るように指示した。
 店の中に居た何人かの客が、ひそひそと、あるいはくすくすとさざめきながら孫策を見ている。
 はうろたえつつ、孫策の前に腰を下ろした。
「だ、大丈夫なの?」
 の問い掛けにも孫策は答えない。
 居心地悪い時間が過ぎていき、やがてラーメンが運ばれてきた。
「げっ」
 唸ったのは孫策ではなくの方だった。
 桶かこれはと言いたくなるような特盛りサイズの丼に、麺とスープがたぷたぷ揺れている。
 何人前だか見当も付かないが、三四人前では済まなそうな量だった。
「かっきり十杯分の麺だ」
 店主がにやにや笑っている。
「そんだけのボリュームで失敗しても五千円なんだ、お徳だろ?」
 勘定のみで言うなら確かにお徳かもしれないが、制限時間は15分しかないのである。
 しかも、麺とスープだけならともかく、メンマ、葱、海苔にチャーシュー卵にナルトと、きっちり十人分全種を載せられているようなのだ。食べ切れるとは到底思えない。
 単純計算、ラーメン一杯を1.5分で食わなくてはならないことになる。
「これって、スープも……?」
 恐る恐る確認するに、店主は何をかいわんやとばかりに大きく頷く。
「む、無理……」
 もうもうと沸き立つ湯気から漂うとんこつの匂いに、は早くも満腹感を覚えていた。
「さぁ、時間測るぞ。用意はいいな。……せぇの、スタート!」
 店主の掛け声と共に、孫策が丼に食らい付く……と思っていたギャラリーは、微動だにしない孫策にざわめいた。
「ちょ……な、何してんの、伯符!」
 焦ったが身を乗り出す。
 無理だと思いつつ、しかしむざむざ五千円払うのは惜しまれた。せめて半分くらいは食べて、五千円の元を取って欲しい。
 孫策はの顔を見遣ると、別段慌てる様子もなくへらっと笑った。
、箸」
「はっ……」
 は半泣きになりながら、テーブルの端に立てられた割り箸を取って盛大に割る。
 動揺が割り箸に現れたのか、割り箸は微妙に歪んで割れてしまった。
 孫策は、渡された割り箸を感心したように見詰める。
「いいから、早くっ!」
 悲鳴を上げるを不思議そうに見ながら、孫策はラーメンに割り箸を突っ込んだ。

 の顔が青褪める。
 目の前の孫策は、平気の平左だ。
 店主の顔に笑みが浮かぶ。
 但し、引き攣った笑みだった。
 若い店員が苦い顔をしながら、プラスチックの盆に載せられた『賞金』と記してあるポチ袋を孫策に差し出した。
「ん」
 孫策は礼を言うこともなく受け取り、何を言うこともなく立ち上がる。
 何処にあのラーメン入ってんだろう……。
 やや筋肉太りしているとは言え、引き締まった体躯に大量のとんこつラーメンが納まっているようにはどうしても見えない。

 孫策に促され、慌てて立ち上がると、店主は顔を引き攣らせつつも孫策に声を掛けてきた。
「うちのラーメン、美味かったろ」
 美味いからあんなにあっさり入ったんだ。
 そんな風に自分を慰めようとしたらしい店主は、次の瞬間引っ繰り返る羽目になる。
「あんまし」
 首を傾げながら肩をすくめた孫策を、は慌てて連れ出した。
 店のそこかしこから敵意が向けられ、孫策は元よりにまで襲い掛かってくるようだったのだ。

「……もう、あんなこと言わないの!」
「何でだよ、嘘言ってねぇぞ」
 けろりとした顔をして言い放つ孫策に、は顔を顰めた。
 あのラーメン屋は、常連でこそなかったが、無性にラーメンが食べたくなると立ち寄る店だった。店主の態度がやや鼻に付くものの、味自体はそこそこ良かった。こんな騒ぎを起こしては、もう行かれないではないか。
「だってよ、あの親父、客が飯食ってんのずっと睨んでんだぜ」
 おかしいだろ、そういうの。
「え……」
 そうだったろうか。
 そういうことをしていてもおかしくない店主ではあったが、食べている時は顔を伏せているので気が付かなかった。
 だが、孫策はいつそんなところを見ていたのだろうと考え掛け、ふと思い出す。
 店に入る前、孫策がやたらと張り紙を見ていると思ったのだが、あれは張り紙ではなく店主の顔を見ていたのかもしれない。
 やる気がなかったのではなく、店主の横柄な態度に無言で腹を立てていたのだろうか。
 孫策があんなむっつりした顔をして食事をしているところなど見たことがなかったが、実はそういう理由だったのかもしれない。
「腹減ったなぁ」
 唐突な言葉に、は思わず鼻を吹いた。
「ちょ……な……ま、マジで!?」
 あれだけ食べた後で未だ足りないというのか。
 呆れを通り越して空恐ろしくなる。
「マズイ飯食うと、何か口直ししたくなんだよなぁ」
 孫策は極当たり前のように呟く。
 頭が痛くなったが、今は孫策が手に入れた賞金がある。これで食べれば、少なくともの財布が痛むことはない。
「何が食べたい? 伯符が食べたいものがあったら、連れてってあげるよ」
 二人で入っても、一万円あればそこそこいいものが食べられそうだ。先程のラーメン分底上げもあるし、如何な孫策と言えど阿呆な食い方は出来まい。
 の言葉に、孫策はの顔をじっと見詰めた。
「何でもいい、が食いたいモン」
「え、いいよ。だって、伯符が稼いだお金じゃん」
 大概のものは食べられる。思いつかないなら大まかにでも言ってくれれば、良さげな店を見繕うからと勧めると、孫策は頬をぽりぽりと掻いた。
「じゃあ、家帰ってソーメン」
「は?」
 そんなのいつでも食べられるではないか。
 が首を傾げると、孫策は不意に笑い出した。
 頬を染め、如何にも照れ臭そうだ。
「……ん、でもよ、お前と二人きりで食えるだろ?」
 誰に気兼ねすることなく、嫌味な店員にじろじろ見られることもなく。
「それに、お前に俺が食ってるとこ見られんの、結構好きなのな」
 呆れたような顔をしたり、仕方ないかと諦めたような顔をしたり、時折くすりと笑ったり。
「そ……そんな顔、してたかなぁ」
 心当たりはあるのだが、孫策に筒抜けになっているとは思わない。
 そこまで素直に顔に出していたかと思うと、無性に恥ずかしくなった。
「してた、してた」
 孫策は無邪気に楽しそうに笑っている。
「そんで、つい食い過ぎんのな」
「……え」
 の顔を見ているのが楽しくて、ついつい食べ過ぎてしまうのだと笑う孫策に、は愕然とさせられていた。
 だから、昼はあまり食べないで居たのだ。
 菓子やパンが嫌いな訳ではなく、そこにが居ないから食べない。
 朝夜食べ過ぎた分を昼で調整していたとすれば、それは至極納得が行く答えと言えた。
 休日は、が寝坊するから朝昼兼用のブランチを食べている。
 つまり、そういうことなのだ。
 急に疲れが出たような気がして、はがっくり項垂れる。
「……?」
 慌てたように孫策が駆け寄ってきて、の顔を覗きこむ。
「どした? 気分悪いのか?」
 言うが早いか、ひょーいと抱き上げられてしまう。
 驚いて、声も出ない。
「やっぱ、家帰ろうぜ」
「か、帰るのはいいけど、降ろしてよ」
 が慌てるも、孫策は『駄目だ』の一言で却下し、そのまま走り出した。
「ちょ、ちょ、伯符っ!」
 が騒いでも、孫策は聞く耳も持たず軽快に走る。
 向かった方向がまるで逆だと伝えるのに、は酷く難儀した。

 終

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