何と仰いましたか、今。
 それが彼の返事だった。
 熱かった頬が、さぁっと波が引くように冷えていく。
 無意識に期待していた甘い言葉は、脳裏から瞬く間に消え去った。
 聞こえていなかったはずはない、彼の耳はいつもどんな小声でも拾い上げてしまう特別製なのだ。
 だから。
 彼がそう言うのは、私に対する慈悲なのだ。
 引き返すなら、今ですよ、という。
 だから、私は。

 私は、馬岱が好きだった。
 華も実もある将軍達の中で、ぱっと見かなり地味な、けれど温厚で人当たりのいい実直な彼は、私にとって居心地のいい逃げ場所だった。
 私はこの国の人間ではない。
 それどころか、この時代の人間ですらない。
 私はSF小説では使い古された、時間跳躍とかいう奴でこの時代に飛ばされた(らしい)。
 近所のいわく付きの神社、その『いわく付き』という奴は伊達や酔狂ではなかったのだ。馬の嘶きという、街中では有り得べからぬ『もの』に、私がうっかり好奇心を出したのがそもそもの間違いだ。
 突然物凄い力に引っ張られて、放り出されたのはこの蜀だったという訳だ。
 私は、よりにもよって軍議の只中、将軍達が軒並み列席していた室のど真ん中に現れた。
 敵というにはあからさまに無力で、おかしな格好をしておろおろとうろたえる小娘は、怪しいというより滑稽に過ぎたのだろう。
 ぽかんとしていた人の良さそうな髭のおじさん(後で劉備様と知ったわけだが)が、突然けらけら笑い出したかと思うと、私を指差して隣に居たどじょう髭の人(これは諸葛亮様だった)に何やら話しかけていた。
 後で聞いたところによると、何でも仙女が現れたぞ、吉兆だと言って笑っていたらしい。
 無論、それは本気などではなくて、そうでも言わないと場が収まらなかったのだろう。
 けれど、結局納まりのいい説明が付かなかった私は、仙女(というか、せいぜいその使い魔かなんかだろう。仙女があんな阿呆な登場の仕方をするものか)として丁重に持て成されることになった。
 言葉も通じなかった私は、この三年懸命に努力し、どうにか人並みに話をできるまでになった。
 何もできることがなかったから、劉備様や将軍達の道化のような役割を務め、戦で疲れた心を慰めるように努めた。
 私という存在は、本当にその程度の役にしか立たないちっぽけなものだったけれど、物珍しさも手伝ってか皆が優しく接してくれた。

 それで困ったことがあった。
 いつの頃か、私に綺麗な簪や着物を贈るのが流行りだしたことがある。
 流行というのもおかしいけれど、本当に毎日のように贈られていたのだ。
 辞退しようとしてもかなり強引に押し付けられて、結局有り難く頂戴するしかなかった。
 身に着けて行けば喜ばれたけれど、それを見た他の将軍達が次々と新たな贈り物を持ち込むので、私は一時期どうしていいかわからなくなった。
 そんな時、助けてくれたのが馬岱だった。
 自分と従兄も、この蜀に来て様々なもてなしを受けたが、それに見合うご恩を返せずに心苦しい思いをした。我らは武を以って恩返しが出来ようが、あの娘にはそれもできず、きっと辛い思いをしているに違いない、と諸葛亮様に掛け合ってくれたのである。
 諸葛亮様も、すぐに劉備様に掛け合ってくれて、この贈り物合戦は沈静化した。
 劉備様自身も実は密かにこの合戦に参加していたのだが、相当こっ酷く絞られたらしく、わざわざお詫びにまで来てくれた。
 傾国の女と後世に悪名を轟かすことになったらどうするのかと怒られたそうだ。
 そんな馬鹿な、と笑ったけれど、傍目から見たらそうだったかもしれない。私は諸葛亮様にお願いして、いただいた簪や着物を金銭に変え、各将軍達の連名で負傷兵やその家族への手当てとした。
 もちろん、各将軍には先んじて頭を下げて回ったけれど、あまりいい顔はされなかった。
 当然だろう。心を込めて送った品を、金銭に変えてしまうのだから。
 けれど、この手当ては思った以上に劉備様や将軍達の名を高め、蜀の仁徳は天下にますます強く大きく鳴り響くことになった。
 結果オーライで、私はかなりほっとしたものだ。
 その時、諸葛亮様の命で私に付き添ってくれていた馬岱が、私に尋ねてきた。
――せっかくの着物や簪を売ってしまって、貴女はいいのですか。
 いいも悪いも、私には過ぎたものばかりだったから、これでいいに決まっている。
 たどたどしい言葉で説明すると、馬岱は傍に生えていた花の付いた枝をぱきりと手折って、私の胸元に差し出した。
――では、せめてこれを。
 その時の馬岱の表情、仕草のことごとくを、私は細かに覚えている。
 生まれて初めて男の人から差し出された花の、あの瑞々しい精気さえも、今でも私ははっきり思い返すことができる。
 私は、それまで贈られたどんな贈り物よりも、彼から贈られた一輪の花に心を奪われたのだ。
 あの瞬間、私は彼に恋をした。

 馬岱に告白したのは昨夜のこと。
 月が満ちて明るい、人気のないバルコニー(本当は何と言うか私は知らないが)という絶好のロケーションで、私は馬岱と二人で話しこんでいた。
 いつも通り、他愛のない世間話、今日は月が綺麗だとか、彼の自慢の従兄の話とか。
 馬超様の話をする時、彼はとても生き生きとした顔をする。
 だから、私も彼から馬超様の話を聞くことを好んだ。
 美しい面立ちの華やかな将軍は、西涼の錦と誉れも高い、実に気高い方で、その武は舞を舞うが如く、一度戦場に出れば敵兵はことごとく震え上がり、敵将は目も眩むばかりに怯んで立ちすくむのだと言う。
 凄い方なんだなぁ、と、戦場に赴くことのない私はぼんやりとした感嘆を覚えた。
 聞けば聞くほど私とは遠い存在で、ただ懸命に話している馬岱の顔に見入るばかりだった。
――私は、あの月のように穏やかな馬岱の方が好き。
 一緒にいると落ち着けて、二人でいる時だけは彼を呼び捨てにすることができた。
 そのことは私の密かな優越感となり、彼の自慢の従兄と同じくらい、彼に大切にされているような気になった。
 昨夜に限っては月がとても明るくて、眩しくて、私はだから気が緩んでしまったのかもしれない。
 彼が、従兄の自慢をしていたのは、別に自慢する相手に困ってのことではないと言うことを、私は愚かにも気付かずにいたのだ。
――従兄上は、まるで日の光のように明るく眩い方なのですよ。
 その馬岱の言葉に導かれるように、私は馬岱が好きだと言ってしまった。
 何か予感があったのかもしれない。馬岱にそれ以上言わせてはいけない、良くないことになると。
 彼はふっと目を動かして、微笑んだ。
――何と仰いましたか、今。
 そうして、口を噤んだ私に優しく言った。
――……えぇと何でしたっけ、そうそう。従兄上が、貴女と一度ゆっくりお話がしたいと、こう仰っておいでなのですよ。如何でしょう、今度私共の屋敷にいらっしゃいませんか。
 あれでなかなか照れ屋なのですよ、戦場ではあれほど豪胆な方なのに、わざわざ私に言付けるなんて、可愛いところがあると思いませんか。
 馬岱の声は、私の皮膚の上を滑っていった。
 私の耳に届くものは何もなく、私の心はどんどんと冷えていった。
 あんなに熱心に勉強した言葉が、文字の一つも思い出せなくなっていた。
 さよなら、と日本語で告げて、私は馬岱に背を向けた。
 月がとても明るくて、私の足元に青みがかった濃い影を落とす。
 奈落に落ちていくみたい、と私はぼんやりと思った。
 恋が破れたというだけで、私はどん底に落ちていったのだ。

 城壁から落ちれば死ぬかしら。でも、あそこに登るのには見張りの兵をどうにかしなくちゃいけないし。
 井戸に身を投げたら死ぬかしら。でも、お水を使う人に迷惑だし。
 馬鹿だなぁ、と思いながら、私はどうしたら馬岱から離れられるか考えていた。それが死ぬことに直結するのが、我ながら愚の極みだったけれど。
 一緒に居たくなくなった。
 顔も見たくないし、声も聞きたくない。
 あんなに好きで、思うだけでときめいた胸は今、陰鬱なわだかまりでいっぱいになっていた。
 心臓が入っているかも怪しい澱んだ胸に手を遣ると、一瞬本当に鼓動が消えてしまっていて慌てて飛び起きた。
 触り方が悪かったのだろう、ぎゅっと押し付けた手のひらに、ちゃんと規則正しい鼓動が伝わってきて安心した。
 死ぬことを考えていたくせに、と私は自嘲した。
 こんなものだ、結局は。
 死ぬほど好きだと思っていても、それは自分に酔っているだけで、実際死ぬほど恋焦がれるなんてことはない。
 自覚して、いい勉強になったねと茶化した時、ドアの外から声がした。
 馬岱だった。
 ああ、でも。
 声を聞きたくないというのは本当だ。
 それでも、私は衝動的に湧き上がる吐き気を堪えてドアのところまで歩いた。
 細く開いた隙間から、馬岱の顔が覗いていた。
「……具合が、悪いとお聞きして」
 私は答えようがなくて、頑張って、それこそ一生懸命頑張って、口の端を少しだけ引き上げることに成功した。
「うん、寝てれば直るから。ごめんね」
 閉じようとしたドアを、馬岱の指が阻む。危うく彼の指を挟んでしまうところだった。
「従兄は、本当に素晴らしい人なんですよ」
 そう。
 そうね、馬岱。
 貴方は賢いし、誠実だし、冷静に物事を判断できる人だ。私が馬岱よりも馬超様を選び添い遂げる方が、結局は私の未来を明るく確たるものにしてくれるかもしれない。
 貴方の話以外でも、彼に熱を上げている女官の話や憧れの眼差しを隠そうともしない女兵士のことを、私は城内の噂で聞き知っている。
 西方の凛々しい面立ち、見事に均整の取れた体躯、一度でいいから彼に抱きしめられたいと願う女の数は、数える暇もないそうだ。
 でもね、馬岱。
 私は馬鹿で愚かしい人間だと、今さっき確認したばかりのところだったのね。
 そんな奴に、最も正しい、最良の選択を教えても、何にもならないのね。
 学校の成績のいい子が優秀な教師になれるかといったら、そうじゃないの。
 わからないことがわからない人には、わからない奴のわからないところなんか分かりようがないのね。
 それと同じでね、馬岱。
 それでも貴方が好きだという私の気持ちは、一生貴方に伝わらない。
 やっぱり私は、貴方の居ない所に行きたい。
 貴方の居ない所に行って、貴方のことを忘れてしまいたい。
 一生伝わらないって分かっているのに、傍にいるのは辛過ぎるでしょう?
 どうせ伝わらないなら、私はこの胸が痛くなるのだけでも何とかしてしまいたいの。
 思い込みで痛いんだってわかってる。
 心臓はちゃんと動いて、今も私の体中に酸素を送り続けてくれている。わかってる。
 でも、痛いんだもの。痛くて、苦しくて、しょうがないんだもの。
 言っても仕方ないことだから、私は言わなかった。
「ごめんね」
 酷く憂鬱で胸が苦しくて、酸素が足りない感じだった。
 やっぱり、馬岱と顔を合わすのは、今の私には辛い。
 甘ったれてるかもしれないけど、今は放っておいて欲しかった。
 ドアにかかる馬岱の指を、私はそっと引き剥がした。
 さよならの言葉は、やっぱり日本語だった。
 閉じようとしたドアが突然何かに引っかかり、弾け飛ぶように大きく開かれる。
 あっと声を上げて引っくり返りそうになった私は、素早く抱きかかえられて鍛え上げられた腕の中に戒められていた。
 びっくりして目を見開いた私の眼前に、馬岱の怒ったような顔が近付き、世界は暗転した。

 馬岱に引き合わせられて見えた馬超様は、噂どおり精悍でたくましい若武者振りだった。
 遠巻きに伺ったことはあるけれど、間近に見上げる整った面立ちは、これがいわゆる甘い顔という奴かとしみじみ納得できるものだった。
「良く来てくれた。具合はもう大丈夫なのか」
 私の体調が芳しくないという噂を聞いていたらしく、優しく気遣ってくれた。
「では、改めまして。、こちらが私の自慢の従兄ですよ」
「こうして直接口を聞くのは初めてだが、俺は貴女を良く存じ上げている」
 こんな綺麗な人に見知られていたかと思うと、少し気恥ずかしくなった。
「従兄上、こちらがです」
「分かっている」
 いいから奥へ、と案内を買って出た馬超様を制し、馬岱は言葉を続けた。
「この度、私の妻に迎えることになりました。さ、、ご挨拶を」
「不束者ですが、馬家に嫁ぐことになりました。どうぞよろしくお引き立て下さいますよう、お願い申し上げます」
 その時の馬超様の顔は、整った顔に似合わずとても間の抜けたものだった。
 しばらくの間、馬超様は馬岱を相手に槍の稽古ばかりに励まれていたそうだが、そこで作ってくる馬岱の痣を数えるのは、私のしばらくの楽しみでもあった。

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