うちに居候が一人いる。男の子だ。私は『へーくん』と呼んでいる。元の名からすれば、『ぺーくん』と呼ばなければならないのだろうが、どうしてもピンクの派手派手しい衣装が連想されて、わざと変えた。当の『へーくん』が気にしていないのだから構うまい。
へーくん……平くんは、三国時代から現代日本にやってきた男の子だ。年は十九だと言う。年に似合わない落ち着きと、年相応の純朴さを兼ね備えた不思議な子だった。しっかりしているけど、何処か抜けている。私が彼に一番最初に出会っていたからいいようなものの、下手をしたら悪の道を転がり落ちていたかもしれない。想像もつかないけれど。
どういう経緯で此処にやってきたのか、当人にも良く分かってない。ただ、しばらく此処にいなければならないように思う、と真面目腐った顔で言われて、私はじゃあ家にいたら、とごく自然に申し出ていた。
うちは新興住宅地のど真ん中にある。人間関係もないに等しい。防犯には向かないが、わずらわしいご近所付き合いがないのは助かる。父が死んで、それまで住んでいた社宅から出なければならなかったのだ。母は、父の退職金と保険金からこの小さな家を買った。父が死ぬ前に、本当は買おうと決めていたんだけど、とぽつりと漏らされたことがある。
母は、あまり私に干渉しない。世のお母さん達がどんなにうるさくてえげつないものなのかを、友達は私に散々連呼してきたが、私がぴんとこないのはそのせいだろう。
ほっとかれた、という記憶もあまりないので、母はきっと私を扱うのが上手かったのだろう。
そんな環境なので、母は私が平くんを連れて帰ってもあまり驚かなかった。
行き場所がない、でもしばらくの間のことだから、うちに泊めてあげたいと申し出て、隣にいた平くんも、お願いいたしますと深々と頭を下げた。
たぶん、格好が格好だったせいもあるだろう。
平くんの服は、いかにも普段から着慣れているというように何度も洗われて馴染んだ状態だったし、織や柄なんかも日本のそれとは違っていた。何より、使い込まれた大きな剣(斬馬刀というようだが)は、実戦で使われたという証のように、細かい刃こぼれや刀身の凹みが見て取れた。
「刀は、隠さないとまずいと思うわよ」
母は、それしか言わなかった。
後で聞いた話だが、やっぱり最初は驚いたらしい。でも、私が家に連れてくる友達は変な子ばっかりだから、平くんもそうなんだろうと思って何も言わなかったらしい。悪い子ではなさそうだし、嘘もついてなさそうだったから、と言っていた。
有難いけど、失礼な話だ。
ともかく、平くんはうちにいた。
平くんは、良く働いた。手が空くことを嫌って、何かやることはありませんかと母と私に尋ねて回る。
普通の男の子が嫌がりそうな、家事仕事なども良くこなした。最初は洗剤の泡に慣れなくて、茶碗を幾つか割ったのもご愛嬌だ。お買い物に行く時は、当たり前のように荷物を持ってくれた。優しい子なのだ。
平くんが働き過ぎるくらい働いてくれるので、私は段々家に帰らなくなった。
私はバイトを増やし、バイト代をせっせと溜め込んだ。何時何があってもいいように、という、それは目的のない貯金だった。
夜中の一時を過ぎた頃に帰宅し、母がまだ起きていたのを見て、そのまま居間に進む。説教されるな、と分かっていた。
「平くんが、心配してる」
そう、と私は軽く答えた。居間の奥、閉ざした襖の向こうで平くんは寝ていると思われた。
平くんは、夜が苦手だ。日が暮れると眠くなるのだという。代わりに、日が明ける前には起き出している。どうしても生活の習慣が抜けないんだろう。
私は、朝はぎりぎりまで寝て、夜遅くに帰ってきていた。深夜のバイトはなり手が少なかったから、私は割と重宝されている。
平くんには、そんな私の生活が不可解なのだろう。若い娘が夜遅くに外をうろうろするなんて、考えられないに違いない。
私は母に、バイト先で頼りにされていること、長期の勤務を望まれていること、もう承諾してしまったこと、夜道は遠回りでも明るい道を通っていることを一つ一つ説明し、理解を求めた。
母は、複雑な顔をしていた。
あんた、平くんが嫌で帰ってこないんじゃないの。
母の言葉に、私はまさかぁ、と笑って答えた。意識して、明るい声を出すようにした。
嫌いではない。鬱陶しいだけだ。
母は、平くんがことの他お気に入りだ。私は、母があんなに人に構うのを初めて見た。父にも、あんなに構ってはいなかったのではないか。
さすがに色恋沙汰のような泥臭い話はないようだが、母は素直で優しい平くんばかり可愛がるようになった。
切っ掛けは何だったかもう覚えてない。つまらないことだったと思う。帰ったらおかずがなかったとか、もらいもののケーキを二人で食べてしまったとか、そんなことだったと思う。
けれど私は心の中で激しく荒んで、もうどうでもいい、勝手にすればと吐き捨てた。蔑ろにされていると思ったのだ。
父が死んで、呆然としていた母に代わって葬式やら親戚への電話やらの手配をしたのは私だ。銀行にまで行って、父の死亡を申し出て口座の凍結までしてもらった。
布団に潜り込むたび、あの時の母の言葉が蘇ってくる。
あんた、お父さんが死んで、よく色々やってくれたね。偉いね。
普通に聞いたなら、褒め言葉だ。
だけど、私の耳には、実父が死んだというのに冷静に立ち回る親不孝な娘と責められているように聞こえた。
私だって、ただ泣いて呆然としていたかった。でも、それが出来なかったから仕方なかったのだ。
平くんは、よく気が付く。言葉遣いも丁寧だ。箸の使い方も上手い。何に付け、不器用でも一生懸命だ。器用に適当にこなす私とは、正反対だ。母も、平くんがいるとよく笑う。
平くんがいる間は、私は家に居なくてもいいのじゃないだろうか。居心地が悪いのだ。いないでいいと言われている気になる。
私は、目覚ましがちゃんと起きなければならないギリギリの時間にセットされているのを確認して、布団に潜り込んだ。
今日は一段と遅くなった。
腕時計は午前二時になろうとしていた。家の近くの小さな児童公園まで来て、人影に気が付いた。
こんな小さな公園では、引き摺り込んで乱暴と言うわけにもいかないだろう。でも、何もせずに突っ立っている人影と言うのは、なかなか不気味なものだ。
影が、私に気が付いた。
思わず後ろに後退ると、時間に似合わぬ明るく元気な声が私を呼んだ。
「殿!」
私は不意を衝かれた。
眉間に皺を寄せ、嫌悪感を顔に出してしまった。
私は、公園の脇に設置された街灯の光の輪の中に居た。だから、恐らく平くんには私の表情が良く見えたことだろう。輪の中に入ってきた平くんが、不思議そうに私を見る。
泣きたくなった。
何時までも動かない私に、平くんはにこにこと笑いながら歩み寄り、迎えに来ました、帰りましょうと言って私の手を取ろうとした。
私はまた失敗した。
温かい皮膚の気配に、手を引っ込めて後ろ手に隠してしまった。
背中の下の方で、そっと指に触れる。
冷たい。
こんなところも、正反対だ。
平くんは、困っていた。私の顔を見ようとするので、私は俯いて避けた。
しばらく沈黙が落ちた。
「拙者のことが、お嫌いなのですか?」
まさか、と笑いたかった。
ただ、鬱陶しいだけだと内心で嘲笑したかった。
どちらも出来なかった。
堪え切れなかった涙が、ぼとぼとと流れ落ちた。
平くんの言葉は、物凄く、痛かった。
嫌いなわけがない、だったら連れて帰ったりしない。幾ら物分りがいい母親だからって、平くんは男の子なのだ。怒られて拒絶される可能性の方が高いに決まっている。でも、そうしたら土下座してでも頼み込んで、それでも駄目なら、貯金を叩いて安いホテルを探して。
私が、助けてあげようと思った。
助けてあげないといけないと思った。
私がいないと、駄目なんだと思った。
けど。
別に、そんなことはなかった。平くんに居場所を与えるきっかけにはなったかもしれない。でも、平くんは、私なんかいなくても普通に暮らしていけていた。細々としたこともすぐ覚えたし、こっちの服にもすぐ慣れた。
何より、お母さんには私がいなくても平気なんだ、ということを痛感させられた。
あの日のお母さんの、『平くんが心配している』の一言は、私にとっては最後通牒みたいなものだった。
お母さんは?
お母さんは、私のこと、心配してくれてないの?
そう、と軽く答えた私は、心の中でずっと、ぐるぐると同じことを考えていた。
あんた、平くんが嫌で帰ってこないんじゃないの。
お母さんはどうなの?
お母さんは、私が遅くったって、嫌じゃないんでしょ? 平気なんでしょ?
平くんが心配してるから。平くんが嫌な気持ちになるから。
だから、私が合わせなくてはならないのか。
嫌だ。
私は平くんをうちに連れて帰った。だから、私は平くんに、私の場所を明け渡す。お金が溜まったら、あのうちを出て行く。
それでいいじゃないか。もう、惨めな思いをしたくない。
平くんはいい子だから。
彼を嫌って、憎んで、それで済むなら話は簡単だ。でも、私はそこまでちっぽけな人間になりたくない。あがいてる。ちっぽけなのを認めたくなくて、あがいてる。
嫌だ。
平くんと並ぶのは、嫌だ。
比べられる。叶いっこない。
一人でいたかった。
そしたら、何も見ないで済む。比べられないで済む。
「嫌いなのは、自分だよ」
ほっといて。一人にして。
けれど。
平くんは、突然私の背中に手を回し、置き去りにされて忘れられていた私の手をぎゅっと握った。
抱擁とはまた違う、不思議な体勢だった。
「ほっとけません。殿は、拙者を助けて下さった方です。放ってなど、おけません」
平くんは、突然弟の話をしだした。
自分が養子であること、弟と会ったのは弟が生まれたばかりの時、それからしばらく離れて暮らしていて、再会したのは弟がかなり大きくなってからだったこと。
弟は平くんを避けたそうだ。いつも困ったような、悲しそうな目を伏せるのを見て、平くんはどうしたらいいだろうと悩んだと言う。
「居場所が、なくなるように思ったそうです」
やっと和解した時に、弟はそう言いました。殿を見ていると、あの時を思い出します。
見下ろす平くんの目は、困ったような、悲しそうな目をしていた。
「殿が居てくれないと、拙者もまた、居場所がないのです」
家族の居場所は、譲って譲られるものではないのだから。
帰りましょう、と優しく諭されて、また目の奥が熱くなる。
足は相変わらず重かったけれど、少しずつ前に進んだ。
平くんは、やっぱり優しい。
その優しさは、でも、ちょっと卑怯だと思った。
終