龐統が聡い人だとは分かっているつもりだった。
 は、彼が己の外見の醜悪を厭っているのを知っている。
 けれど、その分他者より細やかな、傷つき虐げられてきた者のみが得られる視点から人を労わることができるのも知っていた。
 自分などより遥かに上等な人間だ、とは彼の人柄を慕っていた。
 それは恋慕の情などと言うものではなく、同類相憐れむと言った類に過ぎないものではあったが。
 今日に限ってはその憐憫の情が仇となり、可愛さ余って憎さ百倍、身勝手な親しみを感じていた分、憤りが一気に噴き上がりの唇を戦慄かせた。
 龐統は気遣ってくれただけだ。
 いつもと違うの様子に素早く気付き、人目のないところでしかも何気ない世間話を装って、それとなく慰めてくれようとしたのだろう。
 だが、にはその気遣いこそが苛立ちのきっかけとなった。努めて平静を保っているつもりでいただけに、あっさり見破られた悔しさ恥ずかしさは筆舌に尽くし難い。
 貴方は分かっておられるはずなのに。
 そう考えると、敢えて見過ごしてくれなかった龐統が、極めて下賎な事情通気取りに思えてならなかった。
 そんなことはない、心尽くしの気遣いだと思う気持ちとないまぜになり、は唇を噛み締めたまま無言で背を向けるという不遜を仕出かした。
 怒り、咎めてきてもいいはずの龐統は、しかし悲しげに目を伏せただけで、去っていくを引き止めようとはしなかった。

 は、女でありながら槍の名手と謳われている。
 それは確かに、蜀の誇る槍の使い手(趙雲、馬超、姜維)に比べれば幾らかは格が落ちるが、それでも蜀軍の中にあってその腕はかなりの評価を受けている。
 馬超が一兵卒から拾い上げ、時には手ずから指導し副官に据えるまでになった。
 我が目の確かさを誇る馬超に、はいつも面映げに頬を染める。
 この時もそうだった。
 戦勝の宴を切り上げ、たまたま行き会った馬超と並び、日常の細々とした会話を交わしていた。
「……しかし、俺の目の確かさはどうだ。たかだか女如きをと嘲っていた連中も、今ではさすがは馬将軍などと誉めそやしおる」
 は常の如く頬を染め、俯いた。
 いつも馬超の傍に居る馬岱も、偶々何かの用で居合わせてはおらず、は初めてと言っていい主と二人きりの時間に胸を高鳴らせていた。
 女の業か、は馬超のことを想うようになっていた。時に厳しく、時に優しく、直向な彼の武に、心根に惹かれていたのだ。
 想うだけで構わないと思っていた。それ以上は望むべくもないと自らを律しつつ、しかしはもしかしたらという可能性を捨てきれずにいた。
 現に、こうして連れ立って歩いているというだけで、浮き足立つような喜びが込み上げる。
 足を止めてを振り返る馬超は、篝火に照らされて更に際立ち美しかった。
 見蕩れるように顔を上げると、馬超はにっこりと笑って言い放った。
「お前は何故、男でないのだろうな。いや、その体躯といい、本当に女なのか?」
 酔っていることもあったろう。
 彼の奔放さを咎める馬岱が居なかったことも、この場合は災いだった。
 の背丈は、馬超とほぼ変わらない。西の血が混じっているのか、元々の筋骨もたくましい。槍の使い手として鍛え上げてきただけに、尚更その傾向を強めていた。
 馬超の傍に居られるならと振り切ってきた事柄だった。
 だが、自ら見ないように努めてきたことを、他者から、しかも愛する男から笑みをもって告げられれば、それは見えない刃と化す。
 斬りつけるどころか、心臓に垂直に突き立てられた気がした。
「……女ですよ、失礼な」
 の反論に、馬超はそうか、すまんと素直に詫びてきた。しかし、顔は笑みを浮かべたままだった。悪いとは思っていないのだろう。
 あるいは、が微笑みを浮かべていたから気付かなかったのかもしれない。
 意地だった。
 つまらない、下らない意地でも、は張り通した。胸がどんなに痛くても、苦しくても、笑みを絶やさず馬超と並んで歩いた。
 馬超にを傷付けるつもりがないのは明々白々だ。ならば、が取り乱して馬超の心を乱してはならない。
 副官としての勤めだ、想っているだけでいいと決めたではないか、とは胸の痛みに語りかけた。
 馬超と別れ、一人になり、自分の幕舎に戻って初めて、は泣いた。
 声を完全に殺し、涙だけを落とした。

 翌日、は泣いていたことなど微塵も伺わせない様で、再び馬超の下で勤めを果たしていた。
 馬超は気付きもしないし、上手くやっているという自負があった。
 勝ち戦からの帰路の仕度に、軍の中はどこか浮かれて賑々しい。
 そんな中、は龐統に呼び止められたのだった。
――どうか、したのかい。誰かに、何かつまらないことを言われでもしたかね。
 軽く、あくまで軽く、龐統はに問いかけてきた。詳細を聞き出そうという言葉ではない。そういう風には感じられなかった。
 でも、とは心乱れるままに息を荒げる。
 何かあったのかと察したならば、何でもない振りをしていることも察して欲しかった。努めて平静を装っているのだから、合わせて何もないと流してくれても良いではないか。
 青褪めて戻ったに、馬岱がすぐに気付いて労わってくれる。
 職務を変わろうという申し出を丁寧に断り、は兵糧の残量報告をするべく馬超の元に赴いた。
 仕事はきちんとしなければという気概だけが、今のを支えていた。

 成都に戻ってしばらく経った頃、馬超が凄い剣幕で駆け込んできた。
 執務の最中に諸葛亮に呼び出されたのだが、何か叱責でも受けたのだろうか。
 考えるが思い当たらず、首を傾げるの元に、馬超はまっすぐ突っ込んできた。
っ!」
「は、はい」
 怒鳴りつけられ、身をすくませる。
 その様を見て、馬超も幾らかは冷静さを取り戻したらしい。気まずげに唇を噛んでいたが、堪えきれないといった態で再び口を開いた。
「……お前、龐統殿のところに行く気はあるか」
「は」
 問い返すでなく、は口をぽかんと開けたまま固まってしまった。何のことだか分からない。
 馬超の後ろから付いてきた馬岱が、苦笑交じりに場を取り成す。
「従兄上、それではも返事のしようがありますまい。よろしければ、私が代わりにご説明申し上げますが」
 キリキリと歯を噛み締めていた馬超だったが、不意に背を向け乱雑に椅子に腰掛けた。
 それを是と取った馬岱は、苦笑しつつもに向き直り、改めて説明を始める。
「諸葛亮殿から、龐統殿の軍にをもらえぬだろうかと、そういう呼び出しだったのですよ。龐統殿の軍は、軍師の軍だけあっていささか武の方が心許ない。ならばということで、白羽の矢が当たったのがと言うわけです。それで」
「行かぬでいい」
 馬岱の簡潔な説明を遮り、不貞腐れた馬超から茶々が入った。
「従兄上」
 叱咤するような馬岱に、馬超はぎぬ、と目を剥いた。
「行かぬでいい、は俺手ずから仕込んだ副官だぞ。それを、くれと言われて簡単にくれてやれるものか」
「ですが、我らの元に留まるよりは、扱いはぐっと良くなるはずですよ」
 馬超には馬岱が付いている関係で、が今より上の位になることはまず考えられない。けれど龐統の軍に行けば、龐統は軍師である都合上、実戦の方はほぼすべてに一任されるだろう。出世と言って良い。
 それでもうだうだと渋っている馬超を他所に、はぼんやりと思考にふけっていた。
「あの……それは、龐統様のご希望なのでしょうか……」
 突然口を挟んだに、馬超も馬岱もやや驚いたようだった。
「いえ、そこまでは聞き及びませんでした」
 馬岱が答えると、は馬岱に後を頼み、急ぎ早に執務室を後にした。

 龐統の執務室には龐統しか居なかった。
 早々に人払いを済ませたのかと、その手回しの良さに腹立たしくなる。
「お話、伺いました。何故、私なのですか」
 の突然の来訪にも動じずに居た龐統が、不意に顔を上げと目を合わせてきた。
 すぐに逸らされはしたが、一瞬垣間見た龐統の目は、驚愕に満ちているように感じられた。
 その驚きがを我に返した。
 龐統は、そう言えば副官らしい副官は連れていなかった。その醜さを恥じて、人との関わりあいを避けているからだと専ら評判だったのだが、してみると執務室に人気がないのは極当然のことと言えるだろう。
 また、先程の驚きようから龐統もの引き抜きの件を知らなかったに違いない。落ち着いて見えたのも先入観の賜物で、そもそも顔を隠した龐統の表情など読み取りようがないのだ。
 龐統に責のない私怨で目を曇らせていたことに、は身の置き所のない羞恥を持て余した。
 敏く察した龐統は、強張っていた体を弛緩させゆったりと座り直した。
「……何のことかは分からないがね、大方孔明辺りの差し金だろう。後でたぁんと苦言申し上げておくから、お前さんは安心して帰ったがいい」
 優しげに、面白みすら篭めてを労わる龐統に、は泣き出したくなった。
「私は、龐統様に無礼を働いた女です。どうしてそんなにご親切にして下さるのか、分かりません」
 項垂れて立ち尽くすに、龐統は苦笑して、如何にも困ったという風に首を傾げた。
「そう、だねぇ……あっしに取っちゃ、お前さんは十分可愛い女だから、かねぇ」
 思いがけない言葉に、は驚き声を失った。
 龐統は慌て、取り繕うように矢継ぎ早に言葉を継ぐ。
「いや、お前さんが気にしていることは、おおまかなとこだがあっしも察しちゃいるよ、いるがね、だが、お前さんは十二分に綺麗だし、体はこの上なく丈夫だし、それはお天道様がお前さんに与えて下すったもんだし、ともかく、お前さんが悲嘆に暮れる程、お前さんは悪かぁないって、そういうことさ」
 沈黙が落ちた。
 一度は黙った龐統は、恐る恐る言葉を付け足した。
「……そりゃあ、あっしのような男にこんなことを言われたって、お前さんの気は晴れやしないだろうがね」
 すまなかったね、と詫びで締めくくると、龐統はに退室を命じた。

 馬超の執務室に戻ってきたを、馬超も馬岱も怪訝な顔で出迎えた。
 精気を抜かれたが如くぼんやりしているを見ることなど、二人ともこれが初めてだったのだ。
 どうした、と何気なさを装って問いかけると、はふと馬超の顔をじっと見つめ、困惑したように首を傾げた。
 重ねて問うと、如何にも言い出し難そうにもじもじとし始める。小娘の如き振る舞いに、やはり二人が呆気に取られていた時だ。
「お話を、お受けしようと思うのですが」
 何のことだと首を捻っていた馬超は、はっとして勢いよく立ち上がった。

 馬超がどれ程叱責しても、懇願しても、は頑として譲らなかった。
 結局、諸葛亮の命をまま拝領し、龐統の軍に加わることになった。その時の龐統の驚き慌てる様は、常に飄々として冷静な彼らしくもなく、しかしの淡い微笑みとあいまって非常に微笑ましい光景だった。
 龐統と馬首を並べて隊列に並ぶは、人々の目に花開くが如くに美しく映り、人々の噂に長い間のぼっていたという。


  終

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