気が向いたと言えばそれまでだが、恭順してしばらくの間は賊徒の鎮圧を命じられていた身の上に取って、都の道は複雑かつ趣深い。何とはなしに、常とは違う道を歩いていた時だった。
 張遼の耳に、騒がしい喚き声が届く。
 目を向けたのも、何となくの話だ。声の性質が野太い男のものではなく、甲高い女子供のものだったせいもある。然したることもない小さな諍いと断じて良さそうだった。
「いけません、様!」
 怯えを含んだ鋭い絶叫と共に、茂みの中から飛び出してきた塊がある。
 塊は、張遼の存在に気付く前にその懐に思い切り飛び込んできた。
 すぐさま、茂みの中から追い掛けてきた侍女と思しき女が小さく悲鳴を上げる。
「も……申し訳ありません、ご無礼を……!」
 ぶつかってきたのはこの鮮やかな衣を纏った『塊』であって、侍女本人ではあるまい。
 にも関わらず、這いつくばるようにして頭を下げているのは、張遼が手にした黄龍鉤鎌刀の厳めしさ故かもしれない。
 張遼の手の内に収まっていた『塊』は、まるで弾かれるようにぱっと後ろに飛び退り、仁王立ちに立って手足の先に力を込めている。
「無礼者!」
様!」
 飛び出してきた挙句に人にぶつかってきた者の言葉とは思えない。
 礼儀で言うなら非はと呼ばれるこの娘にこそある。
 見たところ、年は未だ小娘とも言い難い幼い娘である。髪も、ようよう結べている程度の長さでしかなかった。
 侍女のなだめも耳に入らないと見て、張遼を睨め付ける目は激しく鋭い。
「私は、魏公曹操の娘。貴方が父の配下であるなら、尽くすべき礼を尽くしなさい」
 見る見る内に青褪める侍女を他所に、は毅然として張遼を睨め付ける。
 ややもして、張遼は黄龍鉤鎌刀を傍らに置き、膝を着いた。
 満足げに頷いたは、侍女を振り返ると先に室に戻るように命じた。
「そんな、様……」
 侍女の目は、ちらちらと張遼を盗み見ている。
 不安があるのだろう。
 しかし、は敢然として侍女に立ち去るように命じ、すぐに戻るからと重ねて申し付けた。
 渋々立ち去る侍女を見送り、は改めて張遼に向き直る。
「……先程は、失礼しました」
 打って変って緩く頭を下げるに、張遼は内心驚きを禁じ得ない。
 表情に露にするような愚こそ犯さなかったものの、身分の尊きを押し付けて寄越した者の態度とはどうしても一致しなかった。
 は、年相応の膨れ面を見せながら何事か悩んでいる。
 その手に木切れが握られていて、手持無沙汰にゆらゆらと揺れていた。
 女の子が悪戯に振り回すような長さのものではない。長さだけなら、大人が握る太刀ほどもある。
「……剣術の、稽古をしていて……今の者に見咎められて、これを取り上げられそうになったものですから……」
「剣術の稽古を?」
 鸚鵡返しに聞き返す張遼に、は素直にそう、と頷いた。
「私、大きくなったら戦場に立ちたいのです」
 唐突には野心を口にした。
 胸に秘めた望みは、女の身の上ではなかなか叶えられるものではない。
 分かって居るのか居ないのか、は目を輝かせて一人話し続ける。
「その為に体を鍛えて、それに剣の稽古も欠かさないようにしたいのだけど、今みたいに邪魔が入ってしまうでしょ。すぐ飽きるとか、我儘とか、みんな勝手なことばかり言ってきて、ホントにそう思うなら放っておいてくれたらいいのに」
 はしょんぼりと俯いた。
 大言壮語の類だが、出まかせではないのはよく分かる。
 幼いその手には、既に稽古で付けたと思しき数多の擦り傷が、新旧交えて浮いている。
「何故、剣術を?」
 張遼の問いは簡潔過ぎて、は首を傾げる。
 しかしすぐに呑み込んだようで、小さくこくりと頷くと、張遼の目を見据えた。
「曹操の娘であれば、他所の国の王や、諍う相手の元に献じられるのが筋でしょう。あまり役に立てるとは思わないけれど、私達が良き妻として、良き目鼻として働けば、父の覇道の足しにはなるかもしれない」
 だが、はそれが嫌なのだという。
「……怖いからじゃなくて……ううん、怖い、こともあると思う……でも、私はそんな遠回しにではなくて、もっとちゃんと、目に見える形で父のお役に立ちたい。兄達のように、戦場に立ちたいのです」
 の言葉は矛盾に満ちている。
 異国に嫁に出されるのが怖いというなら、戦場で血を流すことはもっと恐ろしいに違いない。
 役に立ちたいという思いは認められたいという思いの裏返しに過ぎず、結局身勝手、自己満足の域から抜け出せるものではなかった。
 けれど、張遼は頭ごなしにを責めようとはどうしても思えない。
 同年の娘達であれば、未だ遊戯に夢中な頃であろう。先のことなど考えず、また考えぬようにして現状の温い暮らしに浸っていて当たり前の、幼い娘だった。
「少しだけ、お時間をいただけませんか。稽古を付けてくれとは言いません、私の型、おかしいところがないか見ていただきたいのです」
 それを稽古と言う。
 苦笑を滲ませながら、張遼は問うた。
「何故、私に?」
 は頬を染める。
 さすがに唐突過ぎたかと案じたのだろう、素直に理由を答えた。
「父の、昔からの将は、私のことを聞き及んでいるらしく絶対に教えてくれないのです……曹操の娘が、戦場に立つなど許されるものではない、とか……」
 新参の、顔も知らぬ将なら教えてくれるのではないか、そう考えたのだという。
 張遼の苦笑が深くなる。
「それを聞いて、私が教えて差し上げられるとお思いか」
 あ、と声が上がり、は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
 張遼はつっと手を伸ばし、の手から木切れを取り上げた。
「そのようなことでは、他国に嫁入りが決まったとて、父君の役には立てますまい。剣術の前にせねばならぬことが、如何様にもありましょうぞ」
 恥じ入ったのか、からの応えはない。
 取り上げた木切れはささくれ立って、鍛え上げられた張遼の手のひらでさえもちくちくとした痛みを覚える。
 練習用の模擬刀や木刀が手に入らぬとは言え、せめても握りに細工する知恵は回らなかったようだ。
 単純かつ真っ直ぐな気性が窺えて、張遼はむず痒いような笑みを堪えねばならなかった。
「……まず、もう少し大きくなってから、でしょうな」
 が顔を上げる。
 濡れた眼が大きく見開かれ、勢いでか涙が一粒、ぽろりと転げ落ちた。
「体が幼い内から無闇に稽古をしても何にもならぬ。まずそこそこ成長されるまで、走ったり飛んだり、そういうことをなさるがよろしかろう」
「それでは、遊んでいるのと変わりません」
 膨れるに、張遼は厳めしく眉間に皺を寄せた。
「剣に振り回されるようでは、まともな型は身に付きますまい。付いたところで、戦場に立つ頃にはおかしな癖となるは必定。丈夫な体を作るのが、結局何よりも早道となりましょうぞ」
 張遼の言葉は的を射ていて、の口答えを許さない。
 何か言い返したかったらしいも、終いには口を閉ざしておとなしく頷いた。
「……では、私が大きくなったら、ちゃんと教えて下さいますか」
 悪戯に誤魔化されるまいと意気込むに、張遼ははっきりと頷いて返す。
「剣を取るに相応しい年になられれば、必ず」
「父に……曹操に目を付けられることになっても、必ずお教え下さいますか」
 執拗に食い下がるの問い掛けは、愚問と言う他ない。
 応と言ってくれと迫るを、張遼の破顔が遮った。
 からかわれたと、またも顔を赤くして眉を吊り上げるに、張遼は静かに応じた。
「譜代とも頼む臣下にたしなめられていて、未だ父君からお叱りがないということであれば、それはお許しいただいていることと同じと思いますぞ」
 は口をぽかんと開けた。
「それとも、人伝にでもお叱りを賜ったことがおありなのか」
 問われ、は勢いよく首を横に振る。
 曹操は、己の思考を騙られることを殊の外厭う。
 今の今まで何の音沙汰ないのであれば、意図はどうあれの『暴挙』を暗に認めているからだったろう。主を敬愛して止まない将達が、その娘の我儘を一切忠告しないとは思えなかった。
 は肩を縮込まらせている。
 気付きもしなかった事柄を新参の将にあっさり指摘されたのでは、立つ瀬もないのは良く分かる。
 張遼もそこで話を切り上げ、に背を向けた。
 曹操の娘であれば、嫁にやる先は他国とは限らない。
 褒賞として、戦績を挙げた将に嫁ぐこともあるだろう。
 その相手が自分でないとは限るまい。
 埒もない愚考を過らせて、張遼は再び苦笑した。
 曹操に仕えてより、初めて零した笑みであることを張遼は未だ気が付いて居なかった。

  終

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