拠点が落とされたと知って、だが曹丕の表情はほとんど変わらなかった。
 完全なものなどない。攻められて持ち堪えられなければ落ちる。道理だ。
 奪われたものは奪い返せばいい。
 勝つと思えば勝つ。
 それが曹丕の往く王道だった。
 総指揮を委ねられながら自ら戦場に赴くことにしたのは、ただの気紛れだった。
「お気をつけ下さい」
 背後から司馬懿が声掛けてくる。
「無用の心配だ」
 司馬懿が黒い羽扇で口元を隠す。まったく、この男も何を考えているのか知れない。しかし、曹丕にとってはそれも興味のないことだ。
 企みがあるなら、企んでいればいい。自分に害があるようなら潰すまでのこと。それができないのなら、自分はせいぜいそれまでの男なのだ。
 つまらないというのとはまた違うのかもしれない。
 気力が湧かない。熱くなれない。
 恵まれすぎているのかもしれない。父は覇王、母とは諍いもなく、生まれながらにして王の地位を望まれていた。父の性格が性格ゆえ、水面下とは言え弟とその地位を争うことになったが、結局は後継者に定められた。
 くだらない。
 別に弟に仕えても良かった。才長けた弟だが、政の才については如何とも見当がつかない。とは言え、父がほとんど整えてしまった世で、新しく何事か定める必要はない。なぞっていくだけの治世ならば、才などいらないだろう。
 自分が治めるとしても、それは変わらないのだ。才など、いらない。
 努力も、苦労も、何もない。無だ。
 美しい妻、才溢れる部下、不服などあろうはずもない。ないから不服なのだ。
 何かが燻っている。
 曹丕は天を仰いだ。何処までも高い空に、霞みたなびく白い雲が長く伸びていく。
 白馬の背で、曹丕は戦場とは思えぬ悠揚さで道を行くのだった。

 拠点が近くなってくる。風に乗って焦げ臭い匂いが鼻につく。火を使ったのだろう。そうまでして落としたい拠点とも思えないが、弱者の必死さの表れなのかもしれない。
 策など何も感じられなかった。
 拠点兵長の他に将らしき影が見える。
「……私と戦うか……」
 唇の端が僅かに上がる。
 戦場での高揚感だけが、曹丕が僅かに熱くなる瞬間だ。
 手にした無奏から冷たい感触が伝わってくる。
「それもよかろう」
 一瞬でカタがつく。
 情報では、兵力はこちらが倍近い。戦は多い方が有利なのだ。それは厳然たる事実だ。返しようもない。
 曹丕は馬を駆けさせた。
 近づいてくる相手の将は、女だった。少しだけ驚きつつ、曹丕は馬上からの決定的な一打を与えるべく、無奏を構えた。
 頭上から斜めに振り下ろす。角度からして避けにくい攻撃を、女は手にした武器で防いだ。
 ぎぃん、と重い音がして、無奏は弾き返された。その隙に女は身軽く飛び上がり、馬上の曹丕を叩き落す。危ういところで無様な転倒は避けたが、女の手から繰り出されるとは思えぬ猛撃が襲いかかってくる。
 曹丕も無奏で攻撃を防ぎ、隙を見て反撃に出るのだが、女もまた曹丕の攻撃の隙を狙い反撃に
転じてくる。時折手勢の兵が乱入して、二人の危うい均衡を崩そうとするのだが、素早い動きと
連打で薙ぎ払い、相手への壁と変えて隙を埋めてしまう。互いに明確な打撃を与えられぬまま、
時間だけが過ぎていった。
 突然、時の声が上がる。
「本陣が……」
 陥落した、撤退せよとの合図が届き、曹丕は耳を疑った。
 相手の女の顔に笑みが浮かぶ。恐らく、自軍の勝利を何かの合図で悟ったのだろう。

 拠点から、援軍の武将が駆けつけてくる。
 曹丕は、と呼ばれた女が味方に気を取られた隙をついて愛馬に飛び乗った。
 振り向くこともなく、一心不乱に馬を走らせる。
 何本かの矢が馬の足元に突き刺さったが、曹丕は馬を制して戦場を駆け抜けた。
 捕まるわけにはいかなかった。

 総大将の曹丕を誘き出し、本陣の留守を預かる将三人を見事に撃破されてしまった。散々と言っていいだろう。
 敗将の責を取るべきところだが、曹操は謹慎を命じるに留めた。身内を庇ったのではなく、敵に内応して裏切ったことが発覚した将がおり、責めるべきはむしろそちらであって、重過ぎる罪は他の将に悪い影響が出るという考えかららしい。
 危ういところを助かった、というべきか。
 それでも、曹丕は何事もなかったように、常と同じように虚ろに宙に目をやっていた。
「どうかなさいまして、我が君」
 曹丕の、移ろう感情が最も表層に近付いてきた瞬間に声が掛かる。絶妙の呼吸だ。
「甄か」
 腰掛けた曹丕の、触れるか触れないかの位置に立つ。気に触らず、かつ遠くない位置取りは、身分の高い男の妻として生きてきた甄姫ならではのものだろう。
 その甄姫に触れるでなく、曹丕は独り言のように呟いた。
「甄よ。私は欲しいものができた」
「まぁ、何ですの?」
 甄姫の目がきらりと光る。曹丕はその光を目の端に留めつつ、言葉を綴った。
「先日の戦場で、たった一人で私を止めた女がいる。あの女が欲しい」
 今も未だ、曹丕の脳裏にはあの女武将の姿が焼き付いている。
 強い眼差しを持った女だった。引き結んだ唇の形が美しかった。
 物思いに沈む曹丕の傍らで、甄姫の目はますます輝きを増す。
「まあ……では、私が戦場でその方とお会いしたら、生け捕って差し上げますわ」
 あながち冗談とも思えない。甄姫は、美しい外見とは裏腹に、居並ぶ将軍達と比しても見劣りのない実力の持ち主なのだ。
「……殺すのではないのか」
 曹丕が重たげな視線を向けると、甄姫は美麗な微笑を紅い唇に乗せた。
「我が君が望む方に、そのような真似はいたしませんわ」
 戦場のことですから、何か些細な手違いが生じるかもしれませんけれど。
 続けられた言葉に、曹丕は愉快気に笑い、甄姫も応えて笑った。感情の篭らない、冷たい笑みだった。
「私はしばらく戦場には赴けぬ。甄に託すとしよう」
 甄姫の笑みが歪む。取り繕うように微笑を作り、一礼して去っていく甄姫を見送り、曹丕は再び笑った。
 私が厭うのは無。私が逃れたいのは停滞。
 例えそれが愛でも憎しみでも、私を生かしてくれるものが欲しい。

 女の名を呟くと、体の芯に焦げるような熱を感じる。
 曹丕の脳裏で、が跪いて血を流し、曹丕を憎憎しげに睨み付けていた。
 どくんと心臓が脈打つ。官能めいた血の流れに、曹丕は女と交わっているような肉の昂ぶりすら感じた。
 傷ついたをその場に組み敷き、思う様犯した。無論今は想像の中だけでの話だが、いずれそうしてみせる。
 曹丕は胸に手を当て、己の鼓動を楽しんだ。
 恋というものが本当に此の世にあるなら、私は今、恋をしているのかもしれない。

 、私を退屈させるな。
 私はお前を追い詰め、捕らえ、私の意のままに蹂躙する。
 お前は私に抗い、戦い、決して屈服するな。
 そうして初めて、私は生かされる。

 曹丕は腰掛けたまま、そっと目を閉じ、短い午睡についた。
 口元に淡く、微笑が浮かんでいた。


  終

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