目が覚めると、強面の巨漢が自分の顔を覗き込んでいる。
 は引き付けを起こしかけたが、そのお陰で悲鳴を上げることは避けられた。
「目が覚めたか」
 男は、思いがけず優しい笑みを浮かべてそっとの頬を撫でた。
「呂布殿」
 扉を開けて顔を出した髭の男が、の頬を撫でている男に声掛けた。
 呂布、ということは、この男はあの『人中の呂布、馬中の赤兎』と謳われた、あの呂布なのか。
 まさかという思いがある。
 は、二十一世紀を生きる現代人だ。
 呂布が生きた時代より、遥か千八百年以上後の時代の人間だ。
「……どうした、貂蝉」
 いぶかしげに振り返った呂布が、心配そうにを覗き込む。
 貂蝉?
 何のことだとは呂布を見上げる。
 対峙すると、呂布の体から周囲を圧倒する気が放出されているのが分かる。
 目の下の赤い隈取は、戦化粧なのだろうがあまりに似合い過ぎて違和感がなかった。
 自然に心臓が早い鼓動を打ち、は身を震わせていた。
「貂蝉殿が、お目覚めになられたのですか」
「張遼、医者を呼べ。何やら貂蝉の様子がおかしい」
 慌しくなる空気に、は一人取り残される。
 貂蝉とは、あの舞姫貂蝉のことだろう。何処に貂蝉が居るというのか、は室内をぐるりと見回す。
 だが、可憐な美女どころか女一人居はしない。
 居るのは、呂布と張遼、の三人きりだ。
 張遼はをじっと見詰めると、足早に歩いてくる。
「……貂蝉殿、私が誰か、お分かりになられるか」
 は首を傾げた。
「私の名前は、、です……けど……」
 場の空気が凍った。

 貂蝉が戦場にて弩弓の攻撃を受け、頭を強く打ったのは数日前のことであるという。
 は黙って、他人事のように聞いていた。
 昏睡していた貂蝉の体が、今や己の体になってしまっているなどと、理解しろと言う方が土台無理な話なのだ。
 けれど、池のほとりから覗き込めば、鏡のような水面に映るのは見慣れた顔ではなく傾城の美女の顔だった。
 と名乗ってより、呂布はに近寄らなくなった。
 遠くから、何か憎々しげに顔を顰めているのを見かけるぐらいだ。
 それも、が気が付いたと見るや、すぐに顔を逸らして立ち去ってしまう。
 女官女兵士の極端に少ない呂布軍に在って、は酷く孤独だった。
「貂蝉殿……否、殿、でしたな」
 振り返れば、張遼が佇んでいた。
 ほとんどの者がを避ける中、張遼だけがに親しく声掛けてくれる。
「すみません」
「何を詫びられるのか」
 努めて明るく笑おうとする張遼に、は却って萎縮した。
 貂蝉本人であればいざ知らず、今のは軍にとってはただのお荷物に過ぎない。
 舞を舞うような華麗な武技の心得もなければ、荒む呂布の心を慰めることも出来ない。
 せめて家事の手伝いでも出来ればいいのだが、のつもりでも、体はあくまで貂蝉のものだ。その貂蝉が家事などと、周囲の者は眉を顰める。
 結局、に出来ることは何もなかった。
 こうして日がな一日時間を潰していることだけが、の日課となっていた。
「呂布殿は、戸惑っておられるだけだ。直に慣れよう」
「……そうでしょうか……」
 呂布にとって、は愛する人の体を奪った得体の知れない存在に違いない。
 薄気味悪くこそあれ、側に置いておきたいものではなかろう。
 沈むに、張遼は優しげに微笑みかける。
「確かに貴女は貂蝉殿ではないかも知れぬが、貴女は貴女なり、素直で優しい心根をお持ちだ。その優しさは、呂布殿にとって掛け替えない労わりとなろう」
 力強い励ましに、は無理に微笑を浮かべた。
 張遼の厚意は嬉しかったし、有難かった。
 もしもが呂布に心を奪われていなければ、張遼を好きになっていたかもしれない。
 皮肉なことに、あれ程を厭い距離を置く呂布に惹かれていることを、は既に自覚していた。
 人々が寝静まった夜、星空を見上げて孤独に佇む呂布の姿、またその寂しげな横顔を見た瞬間、恋に落ちた。
 寝ても醒めても呂布の姿を目で追っている。
 馬鹿だな、と自嘲が零れても、は無意識に呂布を求めていた。
「……殿」
 はっと我に返ると、張遼が苦笑を浮かべている。
「すみません」
 張遼を前にして一人考え事に耽っていたことを恥じると、張遼は怒りもせず、が聞かずに居た話をもう一度繰り返してくれた。
 呂布に恨みを持つ者が、どうも近場に潜んでいるらしい。
 戦で雪げぬ恥の鬱憤に、手段を選ぶ余裕もない程とち狂っているようだと言う。
「呂布殿本人は元より、呂布殿が大切にしているものも狙われる恐れがある。まして、今の貴女は非力そのもの。どうかご自重召さるよう」
 警戒して兵を周囲に配置している。
 しかし、呂布軍は確かに精強だが、呂布を頼みにし過ぎる傾向が強く、統率が取れているとは今一つ言い難い。
 何であれば己か呂布と共に居たら良いと勧める張遼に、は固い笑みを浮かべた。
「落ち着くまでは、城の中に居るようにしますから……」
「……そうか」
 張遼もそれ以上は無理を強いることもなく、くれぐれも用心をと言い残して去って行った。
 忙しいのだ。
 軍務と政務の担当がぱっきり分かれた呂布軍において、無用の人物は誰一人として居ない。
 皆が皆、それぞれの為すべきことをきりきりとこなしている。
 それを間近で見せ付けられるのは、今のには苦痛でしかなかった。
 同じ何も出来ないのなら、呂布の機嫌を損ねるような真似だけはしたくない。
 それには、息を潜めてひっそりとしているより他にないように思えた。
 張遼の忠告に従い、城に戻ろうと立ち上がった時だ。
 甲高く風を切る音がしたかと思うと、腿の辺りがかっと熱くなる。
 勢いよろけ、その場に倒れこんでしまった。
 何だと手を当てると、ぬるりとした感触がある。
 広げて見てみれば、の手のひらは真っ赤に染まっていた。
 血だ。
 鉄錆び臭い匂いが鼻を突いた瞬間、は気が遠くなりかけた。
「殺ったか!?」
「いや、生きている。ちょうどいい、このまま攫って慰み者といこう」
 下卑た笑いが耳に付き、は張遼が言っていた賊が今まさに自分を襲っているのだと知った。
 ぞっとして鳥肌が立つ。
 貂蝉だったら何と言うこともなく打ち払うだろう賊共に、は歯向かうことすらままならない。
 嫌だ、駄目だと恐怖に駆られた。
 自身も確かに恐ろしかったが、この体はの物ではない。貂蝉の物なのだ。
 何よりも呂布に申し訳ない。
 呂布が愛する貂蝉の体を、こんな奴らにいいようにされていい筈がなかった。
「お、こいつ。無駄な抵抗しやがって」
「お前にもちゃんといい目を見せてやる。下手に逆らわず、俺達の機嫌を取っておいた方が得策だ」
 痛みを堪えて抗う。
 それぐらいしかには出来なかった。
 ならば、せめての事をという気持ちがを突き動かしていた。
「この女、いい加減に……」
 賊の声は、中途で掻き消された。
 何事かと顔を上げようとしたを、鋭い声が制する。
「目を開けるな、そのまま閉ざしていろ」
 瞬間、は目を閉じた。
 ザス、ザスと重い固い音が連続して響き、続いてどさりと何かが倒れこむような音がする。
 体が浮き、思わず目を開ければ、そこに居たのは呂布だった。
「閉じていろと言った筈だぞ」
 慌てて目を瞑ると、呂布はを抱えて歩き出す。
 足がずきずきとする。熱く、焼けるようだった。
「痛むか」
 目を閉じた向こうから、呂布の声がする。
「すみません」
「何を謝る。俺に手間を掛けさせたことか」
「……貂蝉さんの足に、傷を付けてしまいました」
 呂布が黙り込む。
 自分が助けたのが貂蝉ではなく、だということを思い出したのかもしれない。
「何故泣く。痛むのか」
「……いいえ」
 下ろしてくれと請うと、呂布は足を止める。しかし、を下ろそうとはしなかった。
「そのザマでは、歩けまい」
「でも」
 は口篭った。
 これ以上、呂布に手間を掛けさせたくなかった。
 貂蝉を気遣う呂布に抱かれているのは、悲しかった。
「……お前の名は、何と言った」
 不意に呂布が問い掛ける。
「……私は……」
「言え」
 逆らうことを許さぬ命令口調に、はおずおずと名を告げた。
「……、です……」
「そうか」
 呂布は一旦言葉を切り、黙り込んだ。
 沈黙がの肌をぴりぴりと震わせる。

 貂蝉、ではなく、、と呼ばれる。何故か胸が締め付けられるようだった。
「……はい」
「お前は、俺が好きか」
 再び口を開いた呂布は、が驚くような問い掛けを発した。
「どうだ。答えろ」
 は唇を震わせ、恐る恐る目を開ける。
 呂布の強い眼差しにぶつかって、慌てて目を閉じた。
 網膜に焼きつくような視線は、目を閉じてさえ尚を見詰めている。
「……好き、です……」
 唇に熱い感触が触れ、離れた。
「そうか」
 呂布が歩き出す。
「では、お前は俺のものだ」
 高らかな宣言に、の体中の血管が逆流し、心臓目掛けて雪崩れ込む。
 眩暈がして、何処か深いところに落ちてしまいそうで、は必死に呂布に縋った。
 柔らかな吐息が耳をくすぐる。
「お前を抱く。早く傷を癒せ、
 震えながら頷くと、呂布はもう一度口付けを落としてくれた。
 そう言えば今日はバレンタインだったと、何故か不意に思い出した。

  終

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