「姜維、私とセックスしたいと思う?」
 唐突な問い掛けに、馬の背を撫でてやっていた姜維は、その手を止めて振り返る。
「せ……何ですと?」
 聞き慣れない言葉に、姜維は首を傾げる。遥か遠くの異国からやってきたというこの娘は、ひどくざっくばらんで馴れ馴れしい。
 それでも、天性の愛嬌というか、人懐こさがあり、あの関羽でさえ渋々この娘の存在を認めているようだ。
「セックス。まぐわいっつーの?」
 姜維の体がぴしりと固まる。
 昼日中のことだ。如何に周囲に人がいないとは言え、何ということを言い出すのか。
「ねー、したい? したくない?」
 ねぇねぇ、と子供のように問い詰められ、姜維は目を白黒させた。
「…………し、したい、です」
 男とは、かくも脆いものなのか。
 姜維は己の悲しい性に、密かに涙した。
「そうだよね!」
 異国から来た娘……名をという……は、嬉しそうに微笑み、ぴょんと飛び上がった。
「私、頑張ってみる!」
 そのままどこぞへ走り去ってしまい、姜維は一人、顔を真っ赤にしたままで取り残されてしまった。

 姜維のような真面目な男の子でも、私としてもいいって思うんだから、少しは魅力があるってことだよね!
 髪を撫でつけ、服装に乱れがないか確認し、よし、と気合を入れて想い人の執務室を訪れた。
 が執務室を訪れると、諸葛亮は山積みの竹簡に目を通しているところだった。
「何か、御用ですか」
 竹簡から目を離さず、諸葛亮はに話しかける。の他には誰もいない。『集中したいから』と言って、諸葛亮は一人で執務に当たることが多かった。
 だからこそ執務の時間を狙ったのだが、その仕事量の凄まじさに、も思わずたじろいだ。
 諸葛亮には月英がいることは知っている。
 でも、この時代なら想いを遂げられるかもしれないと、一度は諦めかけた恋心を奮い起こしたのだ。妾が駄目でも、せめて諸葛亮の子を身篭れないかと思った。諸葛亮の面影を秘めた子となら、例えどんなに貧しくても生きていけると思っていた。
 まず第一歩を、と意気込んで来たのだが、自分が単なる邪魔者でしかないと思い知らされただけだった。
 肩に入った力が抜ける。
「……すいません、考えなしでした……」
 出直します、と言うと、諸葛亮が竹簡から目を離した。手招きされて、疑問に思いながらも嬉しく
なって、諸葛亮の元に駆け寄る。
 諸葛亮と机を挟んで向かい合う。今までで一番近い距離に、は嬉しさのあまり頬を染めた。
「……如何して貴女が私のような者に好意を寄せて下さるのか分かりかねますが」
 前口上なしでずばりと心を言い当てられて、はぎくりと身を強張らせた。
「お止しなさい。いくら想いを寄せていただいても、私は貴女が思うような男ではないのですから」
 の恋が、一瞬で終わりを告げる。
 好きだな、と自覚したのは会ってからすぐ、月英のことや自分の容姿、才能のことで悩みぬいたのがここ二ヶ月、それでも好きだと思ったのが一週間前、想いを告げようと心に決めたのがつい先刻のことだ。
 この恋は、果たして長かったのだろうか、短かったのだろうか。
 の顔を繁々と見つめていた諸葛亮が、不意に溜息をついた。
「……ですから、私のような男に想いを寄せても幾らにもならないと言うのですよ」
 はらはらと零れる涙に、はようやく気がついた。慌てて拭うのだが、涙はなかなか止まってはくれなかった。
 諸葛亮が席を立ち、の脇に立つ。
「私は、私の子が生まれることに何の興味もありません。むしろ、生まれずとも良いと思っております……儒学の教えには反しますが。私の子が私になることは決してない」
 ならば、いらないのですよ、そんなもの。
 諸葛亮の言葉を、は呆然として聞いていた。
「さ、今日のことは忘れて、お帰りなさい。そして、もっとまともな、きちんと貴女を愛してくれる男と添い遂げることです。貴女は気付いていないようですが、貴女の心を得たいと願っている男は多いのですよ」
 の背を押そうとするのだが、は足に根が生えたのだと言わんばかりに動こうとはしなかった。
 諸葛亮が、僅かに困ったような笑みを浮かべた。
「……嫌、ですか……」
 の目から、新たな涙が溢れ出す。顔の線に沿って流れ落ちていく涙を、諸葛亮は指ですくって味をみた。
 あ、と小さく声を上げ、が動揺する。
 心を読まれたことより、失恋したことより、諸葛亮に涙の味を知られたことに衝撃を感じる。
 ただ諸葛亮を見つめて立ち尽くすに、諸葛亮は暗い笑みを見せた。
 諸葛亮の唇が、の耳元に近付き、毒のような言葉を流し込む。
「申し上げた通り、私は私の子には興味ありません。ですから、後孔でよろしければ、貴女の想いを叶えて差し上げましょう」
 びくり、との肩が撥ねた。
 艶然と微笑む諸葛亮の顔を、まじまじと見つめる。
 今、この人は何を言った。
 後孔?
 そう言ったのか。
 一度きり、最後の思い出、それを、後孔で受け止めれば叶えてやるという。それは、女として愛されたいにとって、何よりも屈辱だった。
 嫌なら嫌だと言えばいい、何もこんな風に辱められるいわれはない。決してない。
 は唇を噛み、失恋の悲しみの涙を屈辱の怒りの涙と変えて立ち去った。
 無言で室を後にするを、諸葛亮は淡い苦笑を浮かべて見送った。
 仕事がある。
 諸葛亮は、何事もなかったように席に着くと、再び竹簡を手に取った。

 蝋燭の灯りが、何処からか吹き込む風に煽られて、じりじりと音を立てた。
 夜も更け、もうかなり遅い時間だと思われた。
 そろそろ眠ろうか、と諸葛亮は立ち上がった。続きの隣の間には、簡易な牀台が設えてある。諸葛亮はそこで眠り、日が昇るのと同時に執務に取り掛かるのだ。
 暗闇に覆われた扉から、誰かが忍び込んできた。
 殺気こそないが、極度に緊張した空気が漂っている。
「馬鹿な方だ」
 諸葛亮は、暗闇に手を差し伸べた。
「おいでなさい」
 そのまま、隣の間に向かう。
 足音がゆっくりと諸葛亮を追う。
 牀台の前に来て、後ろを振り返った諸葛亮の目に、蝋燭の不安な灯りに照らされたの姿が映った。
 肩が小刻みに震えている。怯えた目が、諸葛亮を見上げた。
「私の言ったことが、ご理解いただけませんでしたか」
 静かな声に、は一瞬頷きかけ、強張りを解くかのようにふるふると横に振った。
「初めてなのでしょう?」
 しばらく間があって、はこくりと頷いた。
「……馬鹿な方だ」
 諸葛亮は同じ言葉を繰り返し、の体を抱き上げた。とても、毎日竹簡のみを相手にしている男の力とは思えなかった。
「私は、己の言葉を覆したりはいたしません。良いのですね?」
 暗に、止めるなら今だと促されるが、はぎゅっと目を瞑ると、諸葛亮の首に腕をまわしてしがみついた。
 諸葛亮はの腕を引き剥がすと、無理やりと目を合わせた。
 怯えて惑うの目が、それでも閉じることを忘れたかのように諸葛亮の深い黒の瞳と合う。
「馬鹿な方だ」
 口付けは突然で荒々しく、は貪られるような感覚に苛まれた。
 逃げを打つ舌を捕らえられ、絡ませられる。呼吸を欲して唇をずらせば、追われてまた貪られる。重ねた唇が何度も形を変えて合わせられ、どちらのものともしれない唾液が口の端から零れて糸を引いた。
 すぐに上がる息、ぼんやりとした視界に見下ろしてくる諸葛亮の姿が映り、何時の間にか口付けが終わっていたことを知った。
「……せめて、優しく抱いて差し上げましょう」
 いらぬ気遣いばかりする。
 壊してくれればいいのに、とは胸の内で囁き、涙した。
 自分など、諸葛亮の心には欠片も存在しないのだと告げられた気がした。

 馬の背を撫でてやっていた姜維は、その手を止めて振り返った。
 昨日と打って変わって大人しいに、気遣わしげに目を向ける。
殿、あの、よろしければこれから遠乗りでも如何ですか」
 気晴らしに、という言葉は飲み込んだ。
 は気だるそうに顔を上げると、お尻が痛いからパス、と呟いた。
「ぱ……?」
 困ったように首を傾げる姜維に、は何処か淋しげな笑みを浮かべる。
 その笑みに、姜維は何故か胸が苦しくなって、言葉を失ってしまった。
「……今度、また時間があったら、誘ってくれる?」
 の言葉に、姜維は最敬礼するように背筋を伸ばし、顔を真っ赤にして頷いた。

 諸葛亮は、竹簡から目を離し、珍しく空の遠くを見つめていた。


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