姜維の綺麗な顔が、赤く染まっている。
 返事を待って、どきどきしているのが手に取るように分かった。
 だけど、私はどうしてか声を発することができない。
 合成のりがねっとりと流れ出すみたいに、何かが私の中を這いずり回っている。
 冷たい感触に、私の体温がどんどん下がっていって、心が死んでいくみたいな気がした。



 諸葛亮は、今宵も一人、夜更け過ぎまで執務に当たっていた。
 山のような執務はこなしてもこなしても限がなかったが、だからといって手を休めればそれだけ執務が滞る。
 諸葛亮以上の才がなく、諸葛亮以上の信頼ある文官が蜀に居ない以上、これは止むを得ぬ状況といって良かった。
 けれど、時々諸葛亮は虚しさに苛まれることがある。
 月英という美しい才長けた妻を持ち、その信頼と忠誠は計り知れない。君主たる劉備の信任も厚く、今や諸葛亮は蜀の最重鎮としての地位を確固たるものとしていた。
 世の男が得たいと望むものはほぼ手にしていたといっていい。
 だというのに、諸葛亮の心は荒んでいた。
 忙しいから、と誤魔化していた。今は誤魔化し切れずに居る。
 理由は明白だった。

 埒もない考えを振り払い、諸葛亮は最後の竹簡に封をした。これで、今宵の執務は目途がついた。
 休もう、と諸葛亮は席を立ち、そして扉の閉まる微かな音を聞いた。
 何故だ。
 諸葛亮は心の中、寒々とした戦慄に慄きながら、それでも顔色を変えることなく闇を見つめる。
 闇の中から蝋燭の灯りの輪に姿を見せたのは、だった。
 蝋燭の乏しい光源が、先日の記憶を嫌でも思い起こさせる。
 何一つ身につけぬ白い体に、この指を何度も這わせた。
 一晩限りの狂気だったと、諸葛亮は努めて忘れようとしていた。請われて触れたのは事実だが、そんなことは諸葛亮にもにも何にもならないことだったからだ。
 もう二度と来てはいけない。
 それは二人の暗黙の了解だったはずだ。
 何故。
 の唇が戦慄いた。諸葛亮の疑問を、全身の皮膚で受け止めたかのように、の体が震えていた。
「私を、」
 諸葛亮は、ただ一言での言いたい事柄を見抜いた。
 ああ、早速姜維は伝えたのだ。
「私を、姜維の元に、と……貴方が……」
「本当です」
 怯えているかのように震えているの言葉を、諸葛亮は断じるように切り捨てた。
 実際、本当のことだった。
 姜維の恋心を見抜き、なら、貴方に相応しいでしょうと勧め、早く言ってしまわないと、他の男に盗られてしまいますよ、と冗談めかして急き立てた。
 全て本当のことだった。
 何が悪い、と諸葛亮は悠然と構える。
 それぐらい、許されても構うまい。私は、私は蜀の丞相たる地位にあるのだから。
 の目から涙が零れた。
 責めている。の気持ちを知りながら、愛弟子に押し付けるような真似をした諸葛亮に、怒りと憎しみを感じている。言葉はなくとも、その輝くばかりの目が、鋭く諸葛亮を射抜いていた。
 そのまま踵を返して、出て行ってくれればいい。
 僅かな期待をするが、はその足を諸葛亮に向けて踏み出した。
「何故ですか」
 諸葛亮の眉が顰められる。
「何故、なんですか」
 じりじりと踏み込んでくるを、諸葛亮は避けようとして背を向けた。
 その背にの体が押し付けられた。
「どうして!」
 縋りつく体は熱くて、柔らかだった。
 どうして。
 それは、諸葛亮こそが聞きたいことだった。
 私の知を持ってしても、貴女が何故私を選ぶのか、分からないのですよ。
「抱いて下さい」
 言葉は、衝撃を伴って諸葛亮を襲った。
「……最後に。一度だけでいいです、そうしたら、言う通りにしますから……だから……」
 一度だけ、という言葉は、何と甘ったるくてぐずぐずと腐敗じみた言葉だろう。最後というなら、先日の哀歓こそが最後に相応しいはずだった。
 女の卑怯さを振り回す。この言葉に乗せられてはいけない。破滅を意味するのだから。
「お帰りなさい。貴女は今、どうも熱に浮かされているようです」
 優しく、それこそ全神経を集中させて肩を押すのに、は意固地に諸葛亮の体に縋りついた。
「嫌です、お願いですから、お願いですからせめて詰って下さい! 私のことなんか目にも入っていないと、言葉にしてはっきり切り捨てて下さい! 迷惑なのは分かっているんです、だから、せめて本当のことを言って下さい!」
 本当のこと。
 それまで何とか微笑を浮かべていた諸葛亮の相貌が、みるみる剥がれて醒めていった。
 そんなにしてまで、傷を求めるのか。
 の体が突然宙に浮いた。
 諸葛亮に抱きかかえられ、隣室の、見知った牀に連れ込まれる。投げ出されて慌てて起き上がろうとすれば、諸葛亮の膝がの体を縫い止めた。
「本当のことを、聞きたいのですね。よろしい、申し上げましょう」
 これまでが一度として見たことのない諸葛亮だった。冷酷で、残虐な意志を目に宿した、恐ろしい鬼の顔だった。
 は声を上げるのも忘れ、呆然と魅入られていた。
「愛しています」
 言葉こそ優しげな愛の囁き、だが、その声は冬の月にも似た、何処までもしんと凍る冷たいもの
だった。
 は諸葛亮の言葉を理解することができず、ただ諸葛亮の目を見つめていた。
「愛していますよ、お会いしてからずっと……姿形ではない、何か、貴女には何かを感じていました。月英とは違う、会ってはならない、会えば破滅を呼ぶ魂、そう感じて怯えていました。けれど、私の目は私の意志に反して貴女を追ってしまう。貴女が笑い、貴女が話す。その姿を見るたびに、私がどれだけ貴女を憎んでいたか、貴女にはきっと想像もつかないのでしょうね。私は……私は、貴女を憎んで、けれど確かに愛していました。貴女を閉じ込め、鎖で繋ぎ、私だけの、私にしか見えないようにしてしまえたらどんなに幸福だろうか、ずっとそう思っていました。そんな狂気を、何も知らない貴女に押し付けるわけにはいかなかった。いいえ、知られることこそ怖かった。だからこそ私は貴女を遠ざけ、貴女から離れ、貴女を忘れようとしていたのに、貴女は」
 諸葛亮の言葉が途切れた。の胸に顔を埋め、微かに吐息を漏らす姿を、はやはり呆然として見つめていた。
 閉じ込め、繋ぎ、封じる。
 それはの望む恋の形ではない。愛する人のそばにいて、愛する人の心を満たし、愛する人に尽くす。それはもっと優しいものでなくてはいけないはずだ。
 諸葛亮は、間違っている。
「いいえ、違います。貴女がまだ理解できないほど幼い、ただそれだけのこと」
 諸葛亮の指がの服を暴いていく。魔法のようにあっという間にボタンが外れ、ホックが取れて、は生まれたままの姿に、いつか諸葛亮と肌を合わせた時と同じ姿になっていた。
「貴女がそう望むなら」
 やはり冷たいままの諸葛亮の声に、ははっと我に返ってじたばたと暴れ始めた。
 無駄だ。
 分かってはいたが、それでも諸葛亮の下から抜け出そうと暴れる。このまま諸葛亮の意のままになってはいけない、何故なら。
「貴女に、私を刻みましょう」
 死刑宣告のように、厳かに告げられる言葉に、は声を伴わない悲鳴を漏らした。

 何度抱いたのか、諸葛亮は薄闇の中ぼんやりと考えていた。
 初めての女を、情け容赦なく貫き犯した。
 破瓜の血は、鮮血でこそなかったが、薄汚れた跡を白い敷布に残していた。
 ぐったりとして身動ぎもしないを、ずっと見下ろしている。
 死んでしまったろうか。それならそれでも良い。それで私だけの物になる。
 だが、の胸が微かに揺れているのを見て、諸葛亮は激しい落胆と、それでいて僅かに安堵する自分を掴みかねていた。
 姜維の元にやれば、と諸葛亮は別の思考に切り替える。何時でも何かを考えずにはおられなかった。
 そうすれば、二度と会えぬということもないだろうから。
 未練があった。を傷つけぬ為にを傷つけ、守る為に穢した。そこまでが自分に許された役割だと確信していたにも関わらず、諸葛亮は二度とに会えぬことを恐れた。動揺したと言っていい。
 貴女が、私の元からいなくなるのだ。
 考えただけで、ぞっとするような心持だった。
 いけない、卑怯だ、と思いつつも、何も知らない姜維の微笑みに、口が勝手に言葉を紡いだ。
 早く、を得てしまいなさい。
 いいや、ひょっとしたらそれは、を守って欲しいという願望だったのかもしれない。薄汚れた自分の狂恋の魔手から、を救ってやってくれないかと託したかったのかもしれない。
 言い訳はよすがいい、諸葛孔明。
 自らの奥に住まうもう一人の諸葛亮が囁きかける。
 お前は切っ掛けが欲しかっただけではないか。蜘蛛が獲物を待つように、ただを急き立てる為に姜維を使ったのではないのか。
 卑怯者め。
 ああ、そうかもしれない。
 得たいと……理由もなく得たいと望む、それは諸葛亮にとって初めての恐怖だった。物事には筋道があり全ての現象は原因を伴うもののはずだ。少なくとも、そのはずだった。なのに、どうしてだけがこの法則から外れてしまうのか、諸葛亮は混乱していた。
 が死んでくれたらいい。
 そうしたら、少なくともこの無限の螺旋に乗ってしまったかのような思考の輪から外れられる。どれだけその後が苦しくても、辛くても、それは自分に課せられた罰なのだから甘受できると思った。
 どうしてこの方と出会ってしまったろう。
 が違う世界の女だと、諸葛亮は先んじて知っていた。
 会って、目を奪われた。得たいと、遮二無二突き動かされた。それはならぬことだと胸の奥底から声を聞いた。
 傷つけることしかできぬだろう。
 瞬時に理解した。何故なら、閉じ込めたいという願望が強く強く諸葛亮を誘ったからだ。
 貴女が死ねば、少なくとも私の手からは逃れられる。
 如何したら閉じ込められるのか、逃がさずに留められるのか、諸葛亮の頭脳は自然に策を献上する。
 駄目だ、如何したら貴女を傷つけずにおられるのだろう。
 苦しんでいるのに、こんなにも悩んでいるのに、あの日はおずおずと諸葛亮の元に現れた。
 酷い方だ。
 だから、きっと、傷つけてもいいのだろう、と、あの時。
「泣かないで」
 の指が、諸葛亮の頬に触れる。
 思考に耽っていた諸葛亮は、の動きに気付けずにいた。
 悪夢から醒めたようにぼんやりとして重い眼差しを、諸葛亮はに向けた。
「泣いてなど、おりませんよ」
 実際、本当のことだった。
「泣いてる」
 の柔らかな腕と胸が、諸葛亮を包んだ。
「貴女がそう言うのなら」
 それが、本当なのかもしれない。
 愛しい女に抱かれて、諸葛亮は体の力を抜いた。閉じ込めたかったのに、閉じ込められていることに今気がついた。
 やはりは、諸葛亮の知る全ての法則には当てはまらない、不規則極まりない存在なのだ。
 だから、惹かれたのか。そうか。
 諸葛亮が無意識に微笑み、それを見たが柔らかく微笑んだ。
 ああ。
 諸葛亮は軽く、それでいて深い溜息を吐いた。
 許された。
 これでやっと、望みが叶ったような気がした。



 姜維の綺麗な顔が、赤く染まっている。
 がこの間の返事をすると言って、呼び出したのだ。
「私ね」
 はい、と畏まって姜維が返事する。
「私、諸葛亮様が好きなの」
 姜維の顔が固まる。
「そ……そうでしたか……」
 丞相相手では、この未熟な私が敵うわけがない。
 姜維は、がっくりと肩を落とした。
「でもね、振られちゃったぁ」
 てへっ、と明るく笑うに、姜維は驚愕から声も掛けられない。
「それでね、最後の思い出にってお強請りして、セックスしてもらっちゃった。だから、もう処女じゃないよ」
 続けざまの悪びれない告白に、姜維はおろおろとうろたえる。丞相が、と考えると、焼いたらいいのか悲しんだらいいのか、とにかく収拾がつかなかった。
「だから、ごめんね」
 頭を下げて、姜維に詫びると、は背を向けた。
 その肩が小さくすくめられ、淋しげで頼りなげだった。
 はっと我に返った。何をしている、と自分を叱咤した。得たいと望んだのは、何の為だ。
 姜維は腹に力を篭めた。
「お待ち下さい!」
 立ち去りかけるに待ったをかける。あまりの勢いに呑まれて、は思わず立ち止まってしまった。
「わ、私がお嫌いだというわけではないのですね!」
 何を言い出すのか、とは困ったように姜維を見上げる。姜維は、手足を同時に出しながら、ぎく
しゃくとに近付いてきて、その手を握った。
 の目が困惑に揺れる。
「待ちます! 殿が、私のことを見て下さる日を、ずっとずっと待ちます!」
 驚いたが、姜維の手を振り払おうともがく。けれど、姜維はの手を強く握ったまま、まるで鎖で繋いでしまったのだと言うように離そうとはしなかった。
「だっ、駄目だよそんな、姜維!」
 姜維一人が馬鹿を見る。そんな惨い仕打ちはできない、してはいけない。は、姜維の手を振り払おうと必死になった。
 姜維は、ますます手に力を篭めて握り締めた。決して離さないという姜維の決意が、そこにあった。
「駄目ではありません、私は、殿が好きなんです! 殿でなくては、嫌なんです!」
 私が、そう思って決めて、だからこの手を離したりしません。
 顔を真っ赤にして喚く姜維に、は俯く。
「お願いです、待っていたいのです。ですから、待っていていいと、一言仰って下さい」
 の目から、涙が零れた。姜維はぎょっとして、しかし手を離すことはなかった。
「……馬鹿だなぁ、姜維は」
 詰られて頬を染めながら、姜維ははい、と頷いた。
「馬鹿でも、何でも、待っていたいのです。殿が嫌だと言っても、ずっと……その……」
 好きです、と掠れた小さな声がの耳元で囁かれ、弾かれたように号泣するを、姜維は不器用に抱き締めた。

 諸葛亮は、竹簡から目を離し、空の遠くを見つめていた。
 どうぞ、幸せに。
 口元には何時もより僅かに優しい微笑が浮かんでいた。


  終

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