「徐晃様、Trick or treat!」
「は?」
 の唐突な言葉に、徐晃は目を丸くした。
 不思議な出で立ちをしたこの少女を拾ってきたのは、もう何年前になるだろうか。
 最早少女と言うには似つかわしくない程に成長していたが、徐晃にとってはいつまでもあどけない少女のようなひとだった。
 突拍子もない言葉に目を丸くする徐晃に、はくすくすと笑う。
 母親の面倒を見させるという名目で屋敷に置くことになっただったが、徐晃の心配を他所に二人は仲良く折り合っていた。気が合ったのだろう、物静かな母親が声を立てて笑うことも少なくない。
 その母から、暗にを徐晃の妻にと薦められもしたが、徐晃は素知らぬふりをして断った。
 は中原の生まれではない。何処か遠く、徐晃が想像も付かぬ場所からやって来ていたのをの話から知り及んでいた。
 己と言う愚鈍な枷に繋げば、は息苦しい儒教の束縛にも繋がれることになる。
 自由闊達で伸びやかなには、ずっとこのままで居て欲しいと希っていた。
 と言って、他にやる気にはどうしてもなれずにいる。
 を欲しいと直接言われたこともあった。
 徐晃が敬愛して止まない曹操でさえ、の出自を知って目の色を変えたものだ。面白い、欲しいと呟いた時、徐晃は自分がどのような顔をしていたか知らない。
 けれど、徐晃の顔を見た曹操が、酷く苦い笑みを浮かべて冗談だと取り成したことを思えば、相当酷い体たらくを見せていたのだろう。
 を求める声は次第次第に少なく、小さくなり、徐晃はほっとしている己に嫌悪した。
 愛おしいと思う気持ちに嘘はない。
 妻に迎えたいと厚かましく妄想したこととて幾度もある。
 しかしはどうだろう。
 そう考えると、血の気が引く。足元から崩れ落ちそうな感覚に青褪める。
 到底言い出せそうになかった。
 己が庇護の下、笑みを浮かべていてくれるだけで十二分に報われる気がした。
 もういい加減にしなければと思ってはいる。
 思ってはいるのだ。
 を自由に、幸せに出来る男を捜してやらなければと思ってはいる。
 思うことが贖罪になるのならば、徐晃はもうとっくに許されていい程思っている。
 そんな筈は、当然ない。
 自嘲が漏れた。
 が小首を傾げて徐晃を見上げている。
 その口元に笑みが掃かれているのを確かめて、徐晃も笑みを浮かべた。
「……これは、申し訳ござらぬ。何か」
 自問の波に囚われていたことを詫びると、は唇を可愛らしく尖らせ、腰に手を当てて徐晃を睨め付ける。
「もう、考え事なんかなさって」
 すぐに笑い転げる少女は、徐晃に向けて手を広げた。
「お菓子を下さいな、でなければ悪戯してしまいますよって。そんな風に家々を回るお祭りが、私の国にはあったのです」
 私の国、と聞いて徐晃の目が曇る。
 は徐晃が再び口篭った理由が分からないで居た。きょとんとしたあどけない目で徐晃を見詰め、早くと言うように手を差し伸べる。
「……その包み、お母様にお約束した干果ではないのですか?」
 愛用の白虎牙断をのみ下げて帰ってくる徐晃が、珍しく藁で編んだ袋を提げている。竹簡などは納めようがない小さな袋だったから、はてっきりそうだと思って手を伸べたのだ。
 違っていたのなら恥ずかしいと手を引っ込めかけるのを、徐晃は慌てて引き止めた。の見通し通り、これは母と約束した干果の包みだった。
 そうして握ったの手は、徐晃の厚い大きな手にすっぽりと包めて仕舞う程に小さかった。
 その事実が、徐晃の頭を再度白く染めてしまう。
「……徐晃様?」
 様子がおかしい徐晃に、はいぶかしげだ。小首を傾げていたのだが、はっと思い当たったように顔を伏せた。
 笑みを消したに、今度は徐晃がいぶかしげにを見詰める。
「あ、の……お話、お聞きになったのでしょ?」
 話とは、何だ。
 黙ったままの徐晃に、は困ったように唇を噤む。柔らかな朱色に染まる肉片は、妙に艶やかで徐晃の気を無為に逸らせる。
「お母様が、私の夫になるひとをお世話して下さるって……あの、徐晃様に言い付けておくと仰っていたから……」
 途端、徐晃の体は石のように固まった。の手を握ったままだということも忘れ、ぎゅっと強く握り込む。
 痛みに思わず徐晃の手を振り解こうとしたに、徐晃の激情は堰を切って溢れ出した。
「ならぬ!!」
「え」
「ならぬ、ならぬ!! は、拙者の元に居なければ!! 何処にもやらぬ、何処にも行かせぬ、は、は拙者が、拙者の……!!」
 鍛え上げられた、岩盤の如き胸の中に巻き締める。
 その強靭さと息苦しさに、が小さな悲鳴を上げた。
 徐晃は、はっと我に返った。
「……せ、拙者、は……」
 己が愚行に、徐晃は絶望する程恥じ入っていた。
 何の為に心を殺してきたのか、これではまったくわからない。
 ただ、の為に、を愛するが故にと見守ってきたつもりが、いつの間にかどす黒い支配欲に満たされていたことをまざまざと見せ付けられた。
 何が思っている、か。
 厚かましいにも程があった。
 弾かれるように後退った徐晃に、は目を丸くする。
「……す、すま……」
 詫びようにも舌も上手く回らない。徐晃はひたすら混乱していた。
「徐晃様」
 凛と響く声が、徐晃を打った。
 逃げ出そうともがいていた足が、ぴたりと止まってその場に縫い付けられる。
 無様に腰を屈めた歪な姿で立ちすくむ徐晃の元に、が歩み寄ってくる。
 もう、いかぬ。
 徐晃は観念して目を閉じた。
「お菓子を、下さいませんでしたね」
 柔らかな感触が唇に押し当てられ、徐晃は驚愕して目を開けた。
 眼前にあったのは、白い肌に相対して黒々と長い睫、そして麗しく染まる頬だった。
 感触はすぐに離れていき、間近にあったの顔は俯いて徐晃の視線を厭う。
「……だから、悪戯、です」
 徐晃を見上げるの目には涙が滲んでいた。
 けれどその口元には、微笑が浮かんでいる。
「早とちりなさって、徐晃様らしくもない」
 浮かぶ涙を拭うも、後から込み上げてくるもので、自身も手を焼いているらしい。
「お母様が私にお世話して下さるって仰ったのは、徐晃様、貴方のことなんですよ!」
 徐晃は、糸で引かれるようにの目元へと指を伸ばす。
 の微笑みは深くなる。徐晃の手を取り、その甲を頬に擦り付けた。
 暖かい。
 先程味わった暗い絶望でなく、込み上げるような幸福感が徐晃を包んだ。
「……、今一度、今一度拙者に先程の言葉を言ってくれぬだろうか」
 の目が不思議そうに見開かれる。
 すぐに笑みを浮かべ、徐晃の耳に囁きかける。
「Trick or treat?」
 徐晃はを抱き締め、その唇を心置きなく吸った。
 抱え上げられ、徐晃の顔を間近に見詰める。徐晃の首に手を回したは、その頬を愛おしくまた恭しく包んだ。
「HAPPY HALLOWEEN、徐晃様」
 でも、こういうことをする挨拶ではないんですよ。
 笑い転げるに合わせ、徐晃も声を上げて笑った。

 遠くから聞こえる徐晃の笑い声に、徐晃の母は少しばかり驚いていた。あの物堅い徐晃が、声を立てて笑うことは珍しい。
 何かよほどいいことがあったと見える。それとも、があの『はろいん』とか言う話をして、徐晃を可笑しがらせたのだろうか。
 その様を想像し、母もくすくすと声を上げて笑った。
 自慢の息子は、約束した干果を手に、美しい花嫁を連れてそこまで来ていた。
 ハロウィンの挨拶をに道々教えられながら、とびきりの悪戯を胸の内に秘めている。

  終

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