は現在、蜀は張飛の下で従軍している。
 元は猟師の父と二人暮らしで、幼い頃から仕込まれてきた故か偵察の能力に長けていた。
 今日も常の通り偵察に出掛けたのは良かったが、速攻で見つかり逃走の途に付いている。

 おかしい。
 いつもであれば、疾っくに撒いて居ておかしくない頃合いだった。
 相手は少ない。
 ひょっとしたら一人かも知れない。
 だが、気配を見事に断たれていて確証が取れない。
 一人かもと思ったのは、人数が多ければ多い程気配を断つのが至難の技になるからだった。
 だが、は知っている。
 熟練した猟師は、相当の数で徒党を組んでもまったく気配を滲ませたりしない。
 気配に敏感な獣達でさえ容易に欺くその手腕は、自身が目の当たりにしてきた事実だった。
 悪戯に相手を一人と決め付けることはできない。
 の隠れた茂みの傍に、突如として矢が突き立てられる。
 隠した気配が驚愕で溢れ出しそうになるが、ぎりぎりのところで堪えた。
 様子見に違いなかった。
 相手も、の居場所を絞り切れずに居るに違いない。
 ならば、今しばらくここで辛抱するのが得策だ。上手くいけば、諦めて立ち去るやもしれない。
 そも、が得た情報は皆無なのだ。敵が執着するいわれはない。
 敵の総数、陣、主力の将兵、何一つ分からずに逃走していた。
 潮時というものがある。
 は、猟を通じてそのことを骨身に染みて理解している。
 獲物がないからと欲張っては、命が危ない。
 そうした連中がどんな末路を辿ったか、は何度も見届けてきた。
 対象は獣から敵軍とずいぶん変わってはいたけれど、やることに何一つ変わりはない。
 餌場の代わりに駐屯地を、獲物の特定の代わりに将兵の特定を、群れの確認の代わりに軍の規模を確認するだけの話だ。
 実際、のように猟師上がりの斥候は少なくない。
 長く続く戦で、狩り場が激減してしまったのだ。
 上手く騙されているような気がしないでもなかったが、大徳が天下を治めた暁には、狩り場の復興も約束してくれている。
 泥鰌髭の言うことに不信感がないではないが、おまんま食べる為にも職に就かなくてはならなかったのだから、致仕方ない。
 また矢が飛んできた。
 今度は、先程よりもずいぶん近い。
 心構えが出来ていた分、何とかやり過ごすことが出来た。
 敵は焦っている。
 矢をつがえる感覚が短いのがそのいい証拠だ。
 戦場において、弓矢は消耗品だ。むやみやたらと使っていいものではない。
 それを当てどころもなく放っていると言うことは、それは即ち、撤退が近いと言うことだ。
 また矢が放たれた。
 今度はずっと向こうの方だ。
 やはりの居場所が分かって放っているのではない。
 しかも、今ので見当も付けられていないことまではっきりした。
 いける。
 もうしばらく我慢すれば、逃走は容易になるに違いない。
 相手が馬を使ってないのは知れていた。
 疾走するなら、山や峠を駆け抜けてきた自分の足の方が有利だ。
 は念入りに息を殺し、自軍に戻る機を窺った。

 矢が飛んでこなくなって、半日が過ぎた。
 日は暮れ、虫の声が辺りの静けさを強調している。
 幾らなんでも、もう大丈夫だろう。
 はそろそろと茂みから身を起こした。
 立ち上がったりはしない。そんな不用心な真似はしない。
 中腰で茂みの中を静かに進む。
 時折起こる葉擦れの音も、風が吹くのに合わせてという気の回しようだ。
 敵軍の情報は何一つ得られなかったが、それでも分かったことは幾らかある。
 一つは、索敵に関しての緻密さと用心深さ。
 これは、相当の手練を先駆けに据えている証だ。
 もう一つは、敵に対する執念深さ。
 何も情報を与えなかったと分かっていて、更に一日近くをその追跡に費やした点からも明らかで、これは取りも直さず相手もこちらの情報を得たいと欲している表れだろう。
 結論として、相当心しなければならない手強い相手と言えた。
 茂みが途切れ、目前に広がる林の向こうに自軍の駐屯地が在る。
 もう少しの辛抱だと思った瞬間、の体は宙に浮いていた。
「わーっはっはっは! よっしゃ、捕まえたぜ!」
 豪快な笑い声と共に、簡易な鎧装束の厳つい男が、の眼下に立っていた。
 身を潜めようと屈んだ姿勢が災いし、却って軽々と持ち上げられる要因となっていたのだ。
「は……離せ!」
 身を捻って大地に降り立つと、間髪入れずに走り出す。
 矢筒が空なのは疾っくに確認済みだ。
 鈍重そうな男の足では、の俊足に敵う筈もない。
 見切って走り出したは、しかし次の瞬間転倒していた。
 背中に激痛が走る。
 無意識に手が矢幹を探すが、触れもしない。
 石礫などではない、確かに矢が突き刺さった感触があった。
 後ろを振り返ると、先程の男が弓を下ろしているところだった。やはり、矢が刺さったのだ。
 訳が分からない。
「……馬鹿、お前。無駄な抵抗すっから痛い目に遭うんだぞ?」
 まるで他人事のように嘯く男に、はきっときつい視線を向ける。
 しかし、男が気にした様子はまるでなかった。
 狩った獲物を検分するようにの顎を捉えると、満足げに頷いた。
「うん、やっぱ見間違いじゃぁなかったな」
 よいしょ、との体を担ぎ上げ、男は歩き出す。
 明らかに魏軍の駐屯地に向かっていて、は泣きたくなった。
「私を、どうするつもり。言っておくけど、何にも知らないし、知ってたって話さないからね」
 の仕事はただひたすらに調査して情報を得てくることだ。
 それをどうするかは軍のお偉いさんが決めることで、がどうこうすることではない。
 軍の規模など、居合わせているだけのが知る由もなし、兵が綺麗に並んでいるのを見たところで学のないが計算できる筈もない。
 男は、けれど気にした様子もなく、『ンなこと問い質すつもりもねぇよ』と軽くいなした。
「……じゃあ、いったいどうするつもり」
「そうだなぁ……」
 男は空を仰ぎ、ぼんやり考え込んだ。
「……やっぱ、食う、かな」
 うん、と納得して歩き出した男の言葉の意味が分からぬ程、も子供ではない。
 でも、一応初めてなのに。
 泣きたくなったが、とて捕虜となった女兵の行く末は理解している。
 覚悟を決めるしかないと思いながら、涙ぐむのは止められなかった。

 が見つかったのは、偶々相手が立ち小便に出ていたところに出くわしてしまった不運のせい。
 一日掛けても追い掛け回した執念は、が戦の相手と知らされていた張飛軍の斥候だと知れたのと、ある女性によく似た面立ちをしていたせいだった。
 を射たのは、気で練り上げた矢だったそうだ。通りで刺さっていなかった訳である。
 要するに、が得意満面に推察していた内容は、悉く外れたのだ。
 猟で培った経験と勘も、山を降りてからは鈍ってしまったものらしい。
 ついでに言うと、欲求不満の兵士の群れに投げ込まれ凌辱されるに違いないと思い込んでいたのも外れていた。
 その昔、張飛に攫われた女性とよく似た面立ちをしていたのだというは、夏侯淵の嫁として今、思いも掛けず幸せな生活を送っている。
 時には、揃って弓の稽古などしている相思相愛、似合いの夫婦となっていた。

  終

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