の話から、唐突に祭りをやることになったのはいいとして。
 ただでさえ執務室にこもるのが嫌いな連中の多い呉では、識者が指摘するまでもなく『案の定』なことになってしまっていた。

「ですが、呂蒙殿」
「そうだ、呂蒙」
 力なく喚く二人を広げた手で制し、呂蒙は目線を外へ流す。
 扉の影には、小喬筆頭に数多の女人がわらわらと待機している。
 落ち着きない動きに加えて期待を込めた熱烈な視線は、職務室には大変似つかわしくない。
「……これでは、仕事になりますまい」
 呂蒙が一人言めいた愚痴を零すと、周瑜は面目なさげに長い髪を揺らした。
 祭りにかまけて仕事をさぼる連中があまりに多く、ここ数日は周瑜、陸遜に呂蒙の三人で尻拭いに没頭させられている。
 祭り当日になっても終わりの見えない業務の山に、悩んでいたのはこの三人ばかりではない。
 準備期間の頃から是非ともご一緒したいと希っていたご婦人方は、一向に姿を見せない彼の君に痺れを切らして、自らお出迎えに参上したのだった。
 誰だって、好いた相手と祭りに興じたいと思うのは、自然なことだろう。
 お陰で、溜まっていた業務が滞るという最悪の事態に陥っている。
 打開策として呂蒙が提示したのは、『二人の分も自分がやっておく』という至極常識的と思える案だった。
 三人共に押し潰されそうな熱い視線に筆を止めてしまうより、二人を失っても一人が執務に当たる方がいい。
 それで冒頭の遣り取りとなった訳だが、二人の罪悪感はこの際何の足しにもならない。
 呂蒙が提案した時点で、ご婦人方の目は飢えた獣のようにぎらぎら輝いてしまっている。
 正直、このまま執務を続けていたら血を見そうな勢いだ。
 結局呂蒙の案を採用することと相成って、ついでに補佐に就いていてくれた文官達も解放する。
 祭りに参加したいのは皆同じだろう、という呂蒙の気遣いからである。
 最初は渋っていた文官達も、呂蒙の重ねての勧めに仕方なく従った……振りをした。
 扉を閉じた途端、押し殺していた喜びが溢れたようで、皆で一斉に駆け出していく賑やかな足音が響き渡る。
 呂蒙は、皆の気配が遠く離れて感じられなくなったのを確かめて、盛大に溜息を吐いた。
 周瑜と陸遜の両者の説得含め、ずいぶん時間を浪費してしまっていた。
 細かい執務は明日から詰めるとしても、決裁を止めては他の業務に差し支える。
 詳しく説明するのは蛇足かもしれないが、決裁というものは、暖かな日差しの差し込む雪山で、その天辺から雪玉を転がす作業に似ている。
 早く雪玉を転がしてやらねば、雪が溶けてしまって大玉にはなるまいし、下手をすれば溶け掛けた雪に絡め取られて山裾に届く前に溶けてしまう。
 素早く、止まることなく作業を続けねば、莫大な損失に繋がりかねないのだ。
 とにかく、今日中にと求められているものに関しては今日中に片してしまわねばならない。
 呂蒙は竹簡を解き、内容に目を通す。
 問題があればその点も指摘してやらなければならない。
 可否だけでは足りないのだ。
 熱心に取り組む呂蒙の集中力の賜物か、竹簡の山はみるみるその数を減らしていく。
 これならば。
 ほっとするのも一瞬で、呂蒙はすぐさま次の竹簡に取り掛かる。
 いい進行具合だった。
 仕事が楽しくなる瞬間でもある。
 そこに、突然扉の外から声が掛かった。
 大きくはなかったが、その声は呂蒙の集中力を鈍化させるには十分過ぎた。
 おざなりに応えると、扉が開く。
 そこに立っていたのは、此度の祭りの起点とも言うべきだった。
「呂蒙さん」
――Trick or Treat.
 未だに耳に馴染まぬ、けれど聞き飽きた言葉が呂蒙の不機嫌を誘う。
 祭りが始まる前まで、あちらこちらで練習しているのを聞いていた。
 呂蒙は、自分はどうせこうなるだろうと分かっていたから、練習などしていない。
 ないが、いい加減覚えてしまうくらい、本当にあちこちで喚かれていた言葉だったのだ。
 常とは違い苛つきを隠さない呂蒙に、は怯んで口を噤む。
「何か」
 が居るというだけで、呂蒙の筆の早さはぐんと落ちる。
 終わらせられるまで後幾らもないというところだったから、どうしても苛々が募ってしまう。
「いえ、あの……Trick」
殿」
 それは、祭りに参加している者だけの合図だった筈だ。
 仕事中の呂蒙には、耳障りな言葉でしかない。
「すまんが、俺は仕事中だ。それは、どこぞで誰ぞに言ってやってもらいたい」
「……ごめんなさい……」
 珍しくもきっぱり撥ね付ける呂蒙に、は身を縮込ませ、小さく詫びを言って去って行った。
 これで執務に集中できる。
 仕事を再開させた呂蒙だったが、不思議な程に心乱れて、とても仕事どころの話ではない。
 後少しなのだが、と残りの竹簡にちらりと目を走らせ、それでも整理の付かない己の未熟さにうんざりする。
 の申し訳なさそうな顔が目に焼き付いて、離れてくれない。
 少しきつく言い過ぎただろうか、と考え込んでしまう。
 足音がして、呂蒙は半ば期待を込めつつ、はっと顔を上げた。
「呂蒙殿」
 陸遜だった。
 自分の執務机に腰掛ける陸遜を、呂蒙は不思議そうに見遣る。
 呂蒙の視線を受け、陸遜は、はにかむように笑った。
「さすがに、呂蒙殿お一人に仕事を押し付け遊び呆けていられるような度胸は、私にはないようです……あぁ、ですが、残りはもうこれだけなのですね」
 さすがは呂蒙殿ですと褒め称えられ、呂蒙はやや面映ゆい気持ちに駆られる。
「そう言えば、殿はいらっしゃいませんでしたか?」
 の名を聞き、呂蒙の顔が曇る。
 聞き上手の陸遜に乗せられ、呂蒙はつい、ぽろりと零してしまった。
 あるいは、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「……珍しいですね、呂蒙殿が、そのような」
 事情を聞き終えた陸遜は、まじまじと呂蒙を見る。
 陸遜から見られるにしてはいつもと変わった視線に、呂蒙は痛いところを突かれたような心持ちがした。
「珍しいか」
「えぇ、呂蒙殿がそのように誰かに八つ当たりなさることがあるなど、初めて聞きました……余程、殿には気を許していらっしゃるのですね」
 途端、呂蒙の顔は真っ赤に染まる。
「な、な……」
 呂蒙が口をぱくぱくさせるのを真顔で見ながら、陸遜の問い掛けが続く。
「だって、呂蒙殿は若輩の私にさえ、そんな八つ当たりをされたことがないでしょう?」
 そも、八つ当たりをできるような男ではないのだ。
 呂蒙は顔を赤くしたまま、しかし口は閉ざして何事か考えている。
「……殿でしたら、庭の方に向かうのを見ましたよ」
 書面に向かいながら、陸遜が一人言のように呟く。
 しばらく沈黙が続いたが、おもむろに呂蒙が立ち上がった。
「後は、お引き受けいたします」
 やはり書面を見たままで、陸遜から声が掛かる。
「すまん」
 立ち去る呂蒙の姿が扉の向こうに消えると、陸遜はようやく顔を上げて苦笑した。

 池のほとりにの姿は在った。

 声を掛けても、振り向かない。池畔にしゃがんで、水面を見詰めている。
「先刻は、すまなかった」
 そこでやっとが振り返る。
「……Trick or Treat」
 ぼそり、と如何にも不機嫌そうに吐き出される言葉に、呂蒙は困惑した。
「Trick or Treat」
「……、俺は菓子を持って居らんのだ」
 酷く申し訳なさそうな呂蒙に、の目がこれ以上はないくらい吊り上がる。
「呂蒙さんがお菓子の準備なんかしてるわきゃないって、私だって分かってますよ! そうじゃなくって、呂蒙さんが言うの!」
 怒鳴られ、呂蒙はきょとんとする。
 とは言え、呆然としているだけという訳にもいかないので、とりあえずの言う通りにした。
「……とり、くう、とり……?」
 練習もしていないから、お粗末もいいところだ。
 は半目で呂蒙を睨め付けながら、手にした袋を呂蒙の手に落とした。
「Happy Halloween!」
 呂蒙が目で伺うと、はこくりと頷き返す。
 袋を開ければ、中から焼き菓子が幾つか出て来た。
「差し入れついでに、祭りの気分だけでも味わってくれたらって、思っただけなんですけどね。あんなぴりぴりしてると思わないから」
「……すまん」
 再度頭を下げる呂蒙に、は顔を赤くした。
「……ってか……私も、考えなしで仕事中に乱入しちゃって、ごめんなさい……ただ」
 そこで言葉を区切るに、呂蒙は軽く首を傾げた。
 は気まずげに唇を噛むと、あーとかうーとか唸りながら、しまいに観念したように溜息を吐いた。
「……だから、ちょっとだけでも呂蒙さんと一緒にハロウィンしたかったんです! 私が!……でも、そんなので仕事の邪魔しちゃって、すいません」
 呂蒙は、胸を射抜かれたような気がした。
 勘違いなら恥ずかしいことこの上ないが、勘違いでないとすれば、今、はとんでもないことを呂蒙に言った。
「……呂蒙さん?」
 黙り込んだ呂蒙に、は怖々と声を掛ける。
 それで我に返った呂蒙は、いつもの苦笑いを浮かべた。
「いや、すまん。嬉し過ぎて、つい、我を忘れた」
 今度はが黙り込む。
 言葉が浮かばず、声も出ない。
 呂蒙も似たようなものだった。
 黙って池の水面に向かい、そこに映る月を見ながら、二人は隣に立つ人を強烈に意識していた。

 終

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