ハロウィンの話を孫策などにしてしまったことを、は激しく後悔した。
 しかし、後悔などというものは基本、問題が起こってしまってからするものだ。だからこそ取り返しが付かない。
 単なる雑談の類のつもりでいたにも関わらず、国を挙げてハロウィンを楽しもうと言い出した孫策に、は度肝を抜かれて口が聞けなくなった。
 孫呉は、じゃあこうしよう、の号令一つでどうこう出来るほど狭小な国ではない。
 口ばっかりに決まってると自分を落ち付けようとしたは、だが呉の気質を完全に見誤っていたとしか言いようがなかった。
 呉国の正当な継承者たる孫策が『する』と言ったら、そして孫策の性格であればやり抜いてしまうのだ。
 出来るものかと高をくくるを他所に、孫策はあっという間に周囲を説き伏せその了承を得た。
 国全体はともかく、街一つで良ければまぁいいだろうということで話がまとまってしまったのだ。
 周瑜や張昭等々、居並ぶ頭の固い連中をよく説得できたものだとある意味感心したが、人好きのする孫策はこの手の説得も抜群に上手い。
 元から惚れこまれて居る人柄だったから、強引に口説かれて断り切れる者が居なかったのだろうことも想像できた。
 それはともかく、祭の許可が下りた途端、はハロウィンの責任者に据えられた。
 そんな責任重大なことは引き受けられないと喚いても、一番詳しい(というか唯一無二な訳だが)が音頭を取らないで誰が取る、と強引に言い包められて話にならない。
「おまえは、『はろいん』がどんなモンだか教えてくれりゃいいんだよ」
 それだけ言って、後は喜々として南瓜に向き合うばかりの孫策に、無謀蛮行の命を考え直させようもない。
 他の者に説得してもらおうと渋々ながら出向いても、まともに取り合ってくれようという者は、ただの一人も居なかった。
「何とかなんだろ?」
「孫策がああ言う以上、最早てこでも動くまい」
「まぁ、細かいことは気にしないで、精々命に従って励むこったね」
「後は、我々で何とかしよう」
「……やるしかあるまい……」
 ああそう。
 国の重鎮を担う将軍達が、こぞって孫策に追従してしまっている。
 これ以上は逆らっても無駄だと、もようやく踏ん切りを付けた。元より教えるのが嫌な訳でもなく、やれと言われればやぶさかでない。
 事が大きくなり過ぎて、こんな簡単に決めてしまっていいことなのかと不安に駆られただけだ。
 それもこの国の気質であるとなれば、がこだわることでもない。
 孫呉で世話を見てもらえることになってから早数ヶ月が経とうとしていたが、また一つ(良くも悪くも)孫呉を理解出来たような気がした。
 それに、ひょっとしたらもう戻れないかもしれない元の生活を思うと泣きたくなることもままあるのだが、こうして忙しくしていれば気も紛れようというものだった。
 責任者という役目を引き受けたは、将兵民の区別なく、まずハロウィンという祭の意義や行事の内容、その楽しさを分かりやすく説明することに専心した。
 幸い、死者の鎮魂や豊穣の祈願という呉に住む者にも理解しやすいハロウィンの意義は、すぐさま浸透して受け入れてもらうことが出来た。
 子供達のみの仮装も、大人がすれば間者の侵入を許すという後付けの理由で了承を得る。
 見て楽しみ、知らぬ者同士で交流できる、また交流を作ることで各地域の連携を高めるとして、またその為のご褒美あるいは給金代わりとなる菓子の分配についても賛同を得、菓子の手配の援助は孫呉や有志の将軍達が受け持ってくれることになった。
 ここまで話が整えば、後は特段問題はない。
 仮装と言っても簡単なものでいいと分かった親達も安堵していたようだし、菓子をもらえると分かった子供達はそれだけではしゃいでいる。
 余裕のある者や凝り性の者達は、周囲に差を付けるべく子供と作戦会議に勤しんで、祭そのものを楽しんで居るように見えた。
 大人向けに振舞い酒も提供されると決まった段階で、ハロウィンを楽しみにする空気は一層濃密に熱気を帯びていくのだった。

 ハロウィン当日。
 遂にこの日が訪れて、祭の熱気は爆発寸前だった。
 子供達は慣れぬ仮装に興奮し、朝から駆け回っている気の早い子も少なくない。
 夕闇が訪れれば、ハロウィンはいよいよ本番を迎える。
 空にまだ夕焼けの赤が残る頃、開会場所に指定した広場にはたくさんの人が押し寄せていた。
 広場中央に設えられた壇上に、がたかたかと登る。
 たったそれだけで、子どもたちのみならず広場に居る者のほとんどが、一斉に歓声を上げた。
「……は、HAPPY HALLOWEEN!!」
 勢いに押されてどもりながらも、は懸命に声を張り上げる。
「はっぴ、はーろいーんっ!!」
 群衆が拳を振り上げて応えた。
 おお、とは身震いした。
 自分の掛け声に数え切れない多くの人々が応えてくれる。
 その快感は、想像を遥かに超えていた。
 皆が皆、の一挙一動に注視していることに、膝も震えるが例えようのない興奮も覚える。
「……ハロウィンの約束に付いて、もう一度説明しまーす! 子供は仮装して、目印の南瓜を置いてある家を回って下さい。お邪魔する家を決めたら、きちんと大きな声で声を掛けて、家の人が出てきたら合言葉を言って下さい。合言葉、覚えてますかー?」
 が広場を見回すと、あちらこちらから可愛い声が上がる。
「とりっ、おあ、とりー!!」
 たどたどしい愛らしい声が微笑ましく、自然に笑みが零れる。
「そうそう! じゃあ、合言葉の返事は何と返すか、大人の方達は覚えてますかー?」
 今度はぱらぱらと、まばらに声が上がるのみだ。
「えー、何ですかー?」
 聞こえない訳ではないが、はわざと耳に手を当てる。
 声は徐々に大きくなっていくが、は聞こえない振りを続けた。
「……じゃあ、皆でもう一度言ってみましょう! ちゃんと大きな声で言えたら、それをハロウィン開始の合図にします! ……いっせえの、……って言ったら言うんですよー!!」
 に釣られて何人かが大声を出してしまい、そこここで笑いが零れる。
「じゃあ、ホントの本番、いきますよー!! いっ、せぇの、」
 HAPPY HALLOWEEN!!
 大気を震わせる程の大きな声が、広場一杯に広がった。
 同時に、の目線の先に置かれていた石柱の上に、身軽く舞い降りた影がある。
 背中に背負った大きな籠に果物や菓子を目一杯詰め込んで、頭には大きな南瓜をくり抜いたものを被っている。
 ハロウィンには欠かせない南瓜の化け物、ジャックランタンだ。
「とり、おあ、とりーだぜー!!」
 群衆に負けぬ凄まじい声量で叫んだジャックランタンに、人々は一瞬息を飲む。
 が、次の瞬間にはどおっとどよめきながらジャックランタン目掛けて殺到して行った。
 怪我人が出るのではないかと思われる程に凄まじい勢いで、は思わず青褪める。ジャックランタン男もぎょっと身をすくめ、慌てて石柱から飛び降りるも、逆効果だった。
 人々は口々に何か叫びながら、ジャックランタンに襲い掛かる。
 男が背負っていた籠が宙に舞い、そこいら中に菓子を撒き散らした。
 の強張った口元が、不意に緩む。
 興奮した人々の顔は、皆一様に楽しげに笑っていた。
 あはは、あははと笑いながら、引き倒されたジャックランタンを起こしてやっているのが見える。
「お前ら、やり過ぎだぜー!!」
 怒りながらも笑っているジャックランタン、もとい孫策に、謝る人々も皆、笑っている。
「とり、おあとりー! お前ら詫び言わないでいいから、何か寄越せよ!」
「違うよ、孫策様! それは、子供が言う合言葉だよ!」
「んじゃあ、はっぴはろいんだ」
「じゃあ、お菓子頂戴、孫策様!」
 どっと笑い出す人々に囲まれ、孫策もげらげら笑っている。
 は、壇上の特別席から、その暖かな光景を見詰めて笑った。

 一悶着も収まって、子供達は目当ての家へと駆け出した。
 菓子をもらえるのは刻限の鐘が鳴るまでと定められている。上手く回れなければ『身入り』が激減すると分かっていたから、皆必死だ。
 菓子を配ったり、子供達と共に移動して安全を守る役目の大人も子供達と一緒に移動したので、広場には急に人気がなくなった。
 あれ程人が詰めかけていたのが嘘のように静まり返った広場の片隅で、は一人腰を下ろす。
 開会式を無事に終わらせたことで、の一番大変な仕事は終了した。
 解散は鐘の音に合わせて各々でと決まっていたから、のハロウィンでの役目はこれで終わったも同然だった。
 気が抜けて、体が重いとさえ感じる。
 頭の中に一杯に詰まっていた何かが抜けて、ここまでの苦労の何もかもが懐かしく思い出された。口の中で飴玉を転がすように、ゆっくり感慨に浸る。
 うっとりした眠気に似た充実感に身を任せていると、の隣に孫策が腰を下ろした。
「……あー、酷ぇ目に遭ったぜー」
 ぼやく孫策の体には、幾つも擦り傷が出来ていた。
 冗談半分とは言えあれだけの民衆に囲まれたのだから、むしろ軽い方だろう。
 痛みもあるだろうに、それでも孫策は嬉しそうに笑っている。
「無茶して」
 んー、と首を傾げながらもへらへら笑っている孫策を、は横目で見上げた。
「ハロウィンなんて、別にどうでも良かったんでしょう?」
 孫策は、びっくりしたようにを見詰めた。
 膝に顔を埋めるようにして視線を避け、は言葉を続ける。
「私が早く馴染めるよう、忙しくして不安になる暇なんかないようにって、してくれたんでしょ」
「……ンなことねぇよ」
 口では否定しても、目が泳いでいればバレバレだ。
 嘘が付けない男なのだ、孫策という男は。
 見知らぬ世界に飛ばされてきたが寂しくないよう、毎日のように話し掛けに来たり、他の者と引き会わせてくれたり、懸命に、けれどさりげなく励ましてくれたのを、はここに来てようやく悟った。
 ただハロウィンを楽しみたいという理由では、いくら孫策でもここまではするまい。やりたければ城の中で、極一部でいい筈だと、広場の静けさの中でようやく気付いた。
 も街に降りることがある。
 護衛付きだったのだが、以前人ごみの中で迷子になりかけた。
 気にしてない、また行きたいと強がりを言ったけれど、迷子になった時のことを考えるとどうしても不安になって、出掛けるのが億劫になった。
 誰にも言っていないつもりだったが、孫策にだけはぽろりと零したことを不意に思い出す。
 祭の大役を務めたは、これで街の人々にも広く顔を売ったことになる。
 例え迷子になろうとも、ハロウィンの時の娘だと誰かが思い出し、それ相応の扱いをしてくれるに違いない。
 これで迷子になる心配もなく、気軽に街に降りられる。
 不安が一つ、解消された訳だ。
 大切にされている。
 改めてそう感じた。
 けれど、それがどうしてかを確かめるのは、何だか怖い気がした。
「たくさんの人が私一人に応えてくれるって、凄い気持ちいいね。今日、初めて知った」
「ん? んー、あぁ、そうかもな」
 唐突に話の内容を変えたに、孫策はやや怪訝そうだ。
 それでも何とか誤魔化せたようだと安堵するに、孫策はずぃっと顔を寄せて来た。
「でもよ、俺は、俺が大切に思う奴にだったら、その一人だけに応えてもらうのも好きだぜ」
 不意打ちを食らわせた孫策は、にっと人懐こい笑みを浮かべて離れた。
 は、さりげなく胸元に手を当てた。
 一瞬見せた孫策の真剣な眼差しが、を激しく昂らせる。
 勘違いしてしまいそうになる。
 それは、困る。
 どうして困るのか説明できなかったが、とにかく困るのだ。
 沈黙が落ちた中、孫策は穏やかな笑みを浮かべて気楽に寛いでいる。
 は、自分の居場所がなくなったような落ち着かなさを感じるが、だからと言って今この場を離れる契機も掴めず、膝を抱えるしかなかった。
「……
 何気なく呼ばれた名前が、いつもの調子と感じが違う。
 思わず、考えるより先に口が動いていた。
「と、とりっく おあ とりーと!」
 孫策の目が丸くなる。
 馬鹿なことを言ったと思いつつ、張りつめた空気が急速に萎んでいく感覚に、は密かにほっとしていた。
「菓子なんか、ねぇよ。さっき、全部持ってかれちまったからな」
 孫策は、困ったようにごそごそと装束のあちこちを引っ掻きまわした。
「い、いいよいいよ。言ってみただけ」
 上手くいった。
 これでこのまま、何も変わらず、きっとずっと付き合っていける。
 勢い付けて立ち上がったの手を、孫策が引き留めた。
 え、と振り返ると、孫策も驚いた顔をしている。
「あー、と、じゃあ、悪戯、していいぜ」
 悪戯ったって。
 予想外の展開に、は困惑して口籠る。
「……思い付かないよ、急にそんなこと言われても」
「そ、そっか。そうだよな……じゃあ、いや、あの、な?」
 ごにょごにょと口籠りながらもに向き直り、その二の腕の辺りをしっかりと掴んでくる。
 疑問に思う暇もなく、孫策の顔が間近に迫った。
 重ねられた唇の感触よりも、すぐ目の前にある孫策の睫毛が意外に長いことに驚いて、じっと見入ってしまう。
 孫策が離れても、は微動だに出来ずに居た。
 罰の悪そうな孫策が、ちらちらとを窺っている。
「……今の、悪戯?」
「違っ」
 慌てて否定する孫策は、勢い余って舌を噛んだらしい。口元を押さえて呻き声を上げた。
 は、しゃがんで痛みを堪える孫策の前に膝を着き、その手を退かせる。
 唇が重なった。
「……今の、悪戯か?」
 舌先に触れた感触に、痛みを忘れた孫策が呆然としてを見上げる。
「治療」
 孫策に背を向けて歩き出したを、孫策は当然のように追い掛けた。

「ん?」
「とり、おあ、とりー」
 振り向きもせず馬鹿、と吐き捨てたの耳は赤く、項まで綺麗に染まっていた。
 孫策はの後を、の名前と『とり、おあ、とりー』を連呼しながら着いて行く。
 立ち止まったら捕まってしまいそうで、逃げられなくなってしまいそうで、は前を見据えたままで、意地になって歩き続けた。

  終

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