戻ってきた凌統は、酷く不機嫌な顔をしていた。
その理由を、はいち早く気付いている。
もっとも、気付くも何も理由はいつも同じだったので、でなくとも凌統が不機嫌に陥る理由の察しを付けるのは実に容易い。
甘寧と喧嘩したに決まっている。
父の仇を目前にして、いちいち突っかかるなと言うのは酷だ。
どれだけ呉の戦力となっているのか、既に数多の戦で立てた功績が実証していると言うものの、それらが凌統の感情を埋め合わせるに足るかと言えばむしろ逆だったろう。
孫権が凌統の立場を無視して引き込んだ甘寧が、もしも無能だったならば嘲笑うことはできる。
それがどれだけ後ろ暗く空しい行為だったとしても、凌統がこうもささくれ立つことはなかった筈だ。
上手くすれば、無能を理由に呉軍から叩き出すことも出来たかもしれないのだ。
けれど、頭の中でどれだけ試算し、仮定してみたところで意味はない。
何故なら、それらはあくまで『甘寧が無能だったら』という有り得ない理由に基付いて居たからだ。
甘寧は、殊、戦においては非常に有能な男だった。
軍の和を担うと言う点では確実に無能と言っても良かったけれど、それを補って余りある程の戦功を立てている。
これという短所をまざまざと見せ付けておきながら、功績は高く評価も高い。
凌統の憎悪に油を注ぐのに、これ以上のことがあろうか。
無論それらは甘寧の持つ資質の問題であって、本人に責があるものではない。
だが、本人に責がなければ凌統が引き下がれるかと言えば、決してそうではなかった。
まさに『如何ともし難い問題』であり、呂蒙が頭を悩ませているのも当然と言えよう。
その甘寧が、生来の資質をして新たな問題を引き起こそうとしているとしたら、凌統はどう思うだろうか。
戻ってきた上官に、報告書を渡そうかどうしようか悩みつつ、は気難しく唇を噛んでいる凌統を見詰めた。
「……何」
ぶっきらぼうに、吐き捨てるような凌統の言葉に我に返り、は胸に押し抱いた竹簡の束を慌てて差し出した。
「か、過日の戦における当軍の被害報告です。戦没者には常の通り手当を、また、負傷兵の総数及び負傷の度合い別に手当と、離軍勧告の手続きをしております」
凌統はおざなりに頷くと、の差し出す竹簡を受け取り卓の上に広げる。
彼の幼馴染から副官の立場となって長いが、互いの成長と共にずいぶん遠くに離れてしまったような気がする。
昔は、凌統が泣いて居ればがあやし、凌統が怒って居ればにすべてを話してその正否を問い掛けてきたものだ。
今、凌統は泣くこともなく、愚痴ることもその胸の内を吐露することもない。
離れてしまったな、と改めて感じた。
「どうした」
声掛けられ、はっとして凌統を見る。
竹簡に見入っているとばかり思っていた凌統は、竹簡を手にを見上げている。
「……は……いえ……」
「は、いえじゃないっつの。離軍勧告出した連中の後釜、どうなってるかって聞いてんだよ」
急ぎ返答するが、凌統の眉間の皺は消えない。
報告の最中にぼうっとされたのだから、神経質な凌統の気に障っても仕方がなかった。
最後に詫びを付け加えると、凌統は間をおいて頷く。
如何にも取ってつけた感が強く、内心では納得も許しもしていないと分かる。
胸がきしきしと痛んだが、自分に非があるので何も言い訳できなかった。
報告が済み、他事の打ち合わせを簡易に済ませると、は一礼して凌統の元を辞そうとする。
扉近くまで来て、背後から凌統の声が追ってきた。
「何か、言うことあるんじゃないの」
言いたいことがあるのかではなく、あるだろうと決め付けている。
に何があったか、凌統は既に知っていたのだろうか。
驚きを隠せず振り返るに、凌統は苦々しい目を向けていた。
「……あるんだろ?」
の唇が戦慄き、きつく噛み締められた。
「……私は、このまま凌統様の下で働き続けたいと思います」
「同情?」
被せるように続いた言葉は刺々しく、の胸を突き刺す。
「それとも、遠慮? ……冗談じゃないっつの、そんな気持ちで居残られたって、こっちにしたら迷惑だ。いい話じゃないか、どうして謹んで承らないんだって」
肩をすくめるようにして卑屈な笑みを浮かべている凌統に、は泣き出したい気持ちに駆られる。
やはり凌統は知っていた。
誰かに聞かされたのかもしれないが、知ってしまった事実に何ら変わりはない。
変わらないならせめて自分から言えば良かったと、は深く後悔した。
は今、甘寧から求婚されている。
兵役を辞し、自分のものになれと求められているのだった。
甘寧がの何に惹かれたのか、には分からない。教えてもらっても居ない。
ただ、甘寧はに惚れたと言い、だから自分の嫁になれと言ったのみだ。
遊びに付き合えと言うのでなく、まして自分の軍に、体目当ての愛人にと言うのでもない。
あの男が真剣な眼差しを以って自分の嫁に、と言い切った事実には、想像以上の重みがあった。
は、突然のことに驚きつつも断った。
何故と問われても、理由は思い付かない。
理由がなければ納得できないと言う甘寧の反応は、自然なものだ。
敢えて言うなら、甘寧が凌統の親の仇であって、自分は凌統の副官だと言うことだった。
それが甘寧を納得させる理由足り得ないことを、はよくよく理解している。
は凌統の身内ではない。
副官という立場はあくまで軍の都合であって、が甘寧を厭っていない以上、甘寧が納得しないのは自明の理と言うべきだった。
しかし、やはりは甘寧の申し出を受ける気にはなれなかった。
然したる理由がなくとも、その気にならないのであればそれで十分ではないだろうか。
男女の仲など、そんなものではないか。
「良い、話だろ」
今をときめく甘寧の正妻。
それは、呉に居る女にすれば魅力溢れる婚姻話である。大抵の女は唯々諾々として承るだろう、有難い申し出である。
責めるような凌統の声に、は力なく首を振った。
「……何で」
凌統に問われても、に答えることはできなかった。
疲れたような凌統の溜息が、の胸を抉る。
「……あんた、昔はもっと素直だったよな……俺の感情なんかおかまいなしでさ……いいことはいい、悪いことは悪いんだ、なんつって、さ……」
ふと、漏らされた凌統の言葉は、偶然にもが思っていたことと重なっていた。
「何か……」
「離れて、しまいましたね」
凌統の言葉をが引き継ぐ。
目線をに戻した凌統は、大粒の涙を零すを目の当たりにした。
「な」
驚いて目を見開く凌統は、けれど固まったまま身動きが取れなくなってしまった。
は涙を拭いながら、しゃくり上げながら言葉を募る。
「大っきくなって……公績が将軍になって、私が副官で……でも、ずっと傍に居れるならって……私、公績のお父様のこと、何にも役に立てないけど、でも、他のことで役に立てるならって……だから、だから私は」
それ以上は言えなかった。
胸が詰まって、声が出なくなった。
甘寧の求婚を断ったのに、本当に然したる理由はない。
ただ、幼馴染の自分が、副官の自分が甘寧の元に行けば、凌統を置き去りにすることになる。
それは面白くないだろう。
凌統が嫌な思いをするのは、嫌だ。
それだけだ。
ようやく呪縛が解けた凌統は、おずおずながらもの傍に歩み寄る。
恐々との肩に触れると、はその手を拒んで後ろに後退った。
「……嫁け、と仰るなら、嫁きます……本当に、凌統様がそう命令するなら、私は」
「嫌だよ」
凌統の手が、の背中に回る。
「……嫌だ。あんな奴ンとこなんか、嫁くな。ずっと、俺のとこに居な」
引き寄せられて、凌統の胸の中に顔を埋め、はわんわん泣き出した。
凌統は宥めるようにの髪を梳き、撫でる。
「そう、だったよなぁ……子供の頃はずっと、手ぇ繋いで走り回ってたのに、いつの間にか離してたよなぁ……」
一人言のように呟きながら、凌統は、でも、と付け足す。
「また、繋ぎ直せばいいよな……?」
凌統の言葉に、は未だ涙を溢れ零しながら、こく、と小さく頷いた。
終