辺り一面薄い桃色が刷かれていた。
 天から舞い落ちる花びらは常に一定の間隔で、風もないのにふわふわと踊っているかのようだ。
 柔らかく沈み込む足の下は、厚い苔を踏んでいるかのような錯覚を覚えさせるが、見た感じは平らな地面と変わらない。但し、色はやはり薄桃だった。
 見渡す限り、空から落ちてくる花びら以外に目に映るものはない。
 その花びらでさえ、の頬や胸に触れた瞬間雪のように溶けて消えていってしまうのだから不思議だ。地面にも、積もる気配すらない。
「よく、見飽きぬな」
 この世界で、恐らくはと二人きりになった曹丕は、飽かず花びらを見上げているに軽い溜息を吐いた。
「え、だって。珍しくないですか?」
 けろっとして答えるに、不安の色はない。
 曹丕の元に現れた時も、こうしてけろっとしていたものだ。
 は魏国の人間ではない。蜀や呉の叛徒という訳でも、南蛮の人間でもなかった。更に遠い、天さえ異なる遥か異界から遣って来たらしく、他の者はともかく曹丕はそう聞かされそう信じていた。
 何せ、腕の中に突然現れたのだ。
 馬を駆って陣に戻る途中のこと、場所も草原で登って落ちて来られるような木々もなく、落ちてきた衝撃もなかった。
 すっぽりと腕に治まったを、以来曹丕は自分の身の回りの世話を任せる供連れとして連れ歩いていた。
 この薄桃の世界に来たのは、身支度を済ませた後の話だった。
 扉を開けると、そこにある筈の廊下がなく、代わりに薄桃色の世界がいっぱいに広がっていた。
 背後から女官達の悲鳴が上がるのも気に留めず、曹丕が中へと一歩足を踏み出すと、扉が勝手に閉まった。
 閉まる直前、曹丕にしがみつくように飛び出してきたのがだった。
 それで、二人で居る。
 当初は辺りの様子を探るべくうろついていたのだが、行けども行けども何も代わらぬ光景に、曹丕がまず飽きて足を止めてしまった。
 は文句も励ましも口にせず、曹丕に倣って足を止め、天から落ちている花びらをじっと見ていたのだった。
 曹丕がを見遣ると、は許しを得たかのように沈黙を破って話し始めた。
「桜か桃か分かりませんけど、凄く綺麗な色ですよね。消える瞬間、耳を澄ましてると、しゃりーんて、とっても澄んだ音がするんですよぉ」
 ほらほら、と言いながら曹丕にも聞かせようとてか口を噤み耳に手を当てる。
 ついでに目も閉じたを、曹丕は見ていた。
 何故付いてきたのかと思う。
 何より、何故己はこのような迂闊な真似を仕出かしたのだろう。
 興味本位と言えばそうだったのかもしれない。
 魏の跡継ぎと言う立場を、わずかの間だけでも忘れたいと思っていたのかもしれない。
 今となっては、自身の事とあっても確たる理由は思い当たらず、曹丕は考えるのを止めた。
「お前は、気楽だ」
 曹丕が軽く言い捨てると、の顔に一瞬動揺めいたものが走る。
 違和感があった。
 異世界に、それも二度も飛ばされて平気で居られる図太い神経の筈だ。軽口の一つで動揺する訳がない。
「あの、まぁ、ホラ、今日はバレンタインデーだから、それっぽいですよ!」
 取り繕うように喋りだしたを、曹丕は敢えて追求しなかった。
 は一人で喋り続ける。
「バレンタインて、曹丕様は知らないですよね。あの、私の居た国のイベント……お祭で、女の子が好きな人に告白できるって言う日なんですよ。友達や家族にも、日頃の感謝を篭めてーって感じでチョコ……あの、甘くて、少し苦いお菓子があるんですけど、それを上げたりもらったりしたり。私もチョコ持ってたら、曹丕様に上げるんですけど」
「お前は私が好きなのか」
 の口がぴたりと止まった。
 口だけではなく全身、それこそ指の先まで固まったは、代わりにみるみる赤くなった。
 曹丕の目が細く険しくなる。
「あ、やっ、曹丕様! いきなり何てこと言うんですか! び、びっくりして、顔が赤くなっちゃいましたよ!」
 暑い暑いとおどけたように両手で顔を扇ぐの前に、曹丕が立ち塞がる。
「言え」
「……や、だから」
「私は、言えと命じている」
 命令とまで言われてしまい、は俯いてしまった。
 異世界に在っても、二人の立場は変わらない。
 曹丕はかけがえない尊い立場の御方、はただ付き従うだけの者なのだ。
 だからこそ言えない。言ってはいけない。
 突如、の視界が斜めに傾いだ。
 曹丕の目を瞑った顔が間近に在り、唇は何かに塞がれていた。
 キスをされている。
 気付いたのは、曹丕がを解放してからだった。
 呆然とし、次いではっと我に返り、顔が焼けるような勢いで赤くなる。
「え、今の、え」
 うろたえ、あくまで現実から目を逸らそうとするのだが、曹丕は許さなかった。
「男から言ってはならぬのだろう」
 がほへっと奇妙な声を上げると、曹丕は再び口付けを落とした。
「言え。言わぬと」
 どうなるのだろう。
 不安半分期待半分の自分に気が付き、は慌てて首を振った。
 拒否と勘違いした曹丕が、再び口付けを落とす。
 今度は離れず、その手がの腰に回った。
「わ、あの、ちょっと」
「言え」
 すげない態度の曹丕に、は遂に諦め陥落する。
「……す、好き、です……ずっと、ずっと好きでした……」
 言ってしまった。
 何故か涙が滲んできて、は慌てて手で拭った。
 言わされてしまったからだろうか。でも、泣くことじゃないのにと、我ながら訳が分からない。
 しかし、困惑しているに、曹丕は新たな難題を突き付けた。
「菓子は」
「は?」
「ちょこ、とか言う菓子を渡すのだろう。寄越せ」
「…………」
 持っていないと言ったばかりだ。
 言ってはいないが、『持っていたら上げる』と言ったのだから、持っていないと言ったも同然だろう。
 それで何で、寄越せなどと平然と言えるのだろうか。
 曹丕の目が、微かに笑う。
「寄越さぬとあれば、仕方あるまい」
 が取り押さえる前に、曹丕の手はの尻臀を掴み上げた。
 全身に走る衝撃が、の体から力を奪う。
「あ、え……?」
 よろけるを、曹丕はいとも容易く抱き上げた。
「お前自身をもらうしかないな」
「はへっ?」
 曹丕の腕に抱かれ、は初めてこの世界に来た日のことを思い出す。
 あの時もこうして間近に曹丕の顔を見て、それからずっと好きだった。
 曹丕の言葉は、の気持ちを了承したと取っていいのだろうか。
 もしそうなら、本当にそうなら、このまま死んでも構わないような気がした。
 ひょっとしたら、バレンタインの神様かなんかが居て、自分の願いを聞き届けてくれたのではないだろうか。夢なら、どうかこのまま醒めないで欲しい。
 ずっと好きで、けれど決して叶わないと思っていただけに、は感極まっていた。
 薄桃の花びらに包まれ、胸を熱い感情で一杯にしたは、浸るような幸福感にそっと目を閉じた。

「他所でやっていただけないかしら」
 びくっとして目を開ける。
 聞き慣れた声は硬質に強張って、何やら不穏な空気を孕んでいる。
「少なくとも、私の室に突然現れてなさるようなことではないと思いますけれど。違いまして?」
「……甄か」
「この私が、誰か他の方に見えまして?」
 が茫洋と辺りを見回せば、ここが甄姫の室だとすぐに判別が付いた。薄桃の世界は消え失せ、いつの間にか元の世界に戻っていたようだ。
 ぽかんとしていただが、甄姫のきつい視線に気が付き慌てて曹丕の腕の中から飛び降りる。
 と、今度は曹丕からきつい視線をお見舞いされ、は肩をすくめて身を縮こまらせた。
 どうしろと言うのだ。
「……、室に戻るぞ」
「我が君、申し訳ありませんが、は今日、私と先約がありましてよ」
 甄姫ににっこり微笑みかけられ、の動きが止まる。
 実際本当の話だったから、が断る術は端からない。
 曹丕が手元に置くを、甄姫もまた妹同然に可愛がっていたのだ。
「も、も、申し訳ありません、甄姫様!」
「あら、私の可愛いは何を謝っているのかしら」
 深々と、バッタのように頭を下げるに、曹丕の顔が険しくなる。
 甄姫は愉しげに顔を綻ばせていた。
 死んでもいいとは思ったが、こんなことになるとは思っても見なかった。
 バレンタインの神様どころか悪戯好きの神様に手のひらで転がされてしまったような気がして、せめて夢であってくれたらと頬をつねるも、現実は非情の言葉通りただ頬が痛くなっただけだった。
 三角を為す関係の一端に組み込まれながら最も立場の弱いは、これから先二人から受けるであろう仕打ちに、ただ戦々恐々とするのだった。

  終

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