今日はバレンタインデーだ。
の携帯のカレンダーにはそう表示されている。
電源がもったいないので、早々に切った。
チョコレートなら、一応ある。おやつ用に持ち歩いていた小さな袋には、小さなキューブ型のチョコレートが一つだけ残っていたのだ。
がこの呉にやってきたのはおおよそ四ヶ月ほど前。
紆余曲折あり、今は孫家の世話になっている。
何の力も持ち合わせていないの面倒をみる……それは、呉の力の強大さを示しているのかもしれない。余力があるのだろう。
何の気兼ねもなく過ごせと言われ、戸惑いながらも実際そうなってしまっている。
できることがないのだ。せいぜい子守や洗濯くらい。子供だってもう少し役に立つ。
落ち込んで、帰りたいと思ったこともある。
何となく……だったが、帰り道が見えたこともある。淡い光の輪が空中に浮かんでいた。手を伸ばせば帰ることが出来る。そう思った。
だが、伸ばしかけた右手を、左手が押さえた。
「……どうした……」
振り返れば、見上げるほど背の高い、寡黙な武人が立っている。
貴方のそばにいたい。
元の世界には、貴方はいないから。
黙って微笑むを、周泰はいつも無言で見下ろす。
チョコレートを渡してどうなるわけでもない。
でも、がこの世界に来て、初めて出会い、呉に連れてきてくれたのは周泰だった。
何かお礼がしたい、と思っていた。慣れない生活は慌しくて、ずっと何も出来ずにいた。
バレンタインデーなら、チョコレート一つで思いを示すことが出来る。何てお手軽なのだろう。
義理チョコってのもあるんだし、いいよね。
の気持ちは義理などではない。けれど、違う世界で生きてきた女など、周泰には重いだけだろう。足手纏いにはなりたくなかった。
でも、チョコレート一つだったら。
重いとか、どうとか、あんまり関係なくて済みそうな気がする。
うろうろと周泰を探す。
今日はたしか錬兵の日だから、ここら辺にいると思う。
きょろきょろしていると、兵士たちの一団がやってきた。
ああ、やっぱり、と兵士たちが来た方向に駆けて行く。その肩が、誰かに掴まれた。
え、と振り返ると、兵士たちの内の一人がにやにやとを見つめている。肩を掴んでいるのはこの男だ。
「あの……何か……」
がおどおどと尋ねると、兵士たちがどっと笑う。
怖い。
後退りしようとしたを、今度は数人掛かりで担ぎ上げる。
「きゃあ!?」
兵士たちが哂う。何をされるのか。怖い。体が竦む。
刹那。
怒号と悲鳴が木霊する。鮮血が舞い散る。
腕が。
何本もの腕が、宙を舞った。
落ちる。
「……散れ……」
受け止められた。地面に叩きつけられることなく、は太い腕に支えられてゆっくりと足を下ろすことが出来た。
「幼平さま」
周泰の手にした宵が、唸りを上げて振り下ろされる。
刃に付着していた血がびしゃりと地面に叩きつけられ、一筋の赤い線を描いた。
兵士たちが逃げていく。
周泰はを離し、宵を鞘に収めた。
飛び散った鮮血に、一瞬気が遠くなるのだが、そんなことではいけないと慌てて正気に帰る。
四ヶ月で、もだいぶ鍛えられていた。
「幼平さま……あの、」
「いや」
礼を言おうとするを遮り、幼平はそのまま去ろうとする。
「あの、待って下さい、あの」
長身の歩みがぴたりと止まる。
コンパスが違うので、は周泰を追いかけるのも一苦労だ。
「あの、これ」
可愛い包装で包まれたチョコレートを差し出すと、周泰が訝しげに見つめる。
「幼平さまに」
しばらくを見つめ、チョコレートを摘み上げる。
「あの、チョコレートって言って……甘いです」
そのまま口に運ぼうとするので、は慌てて周泰からチョコレートを取り上げる。
周泰は、やはり無言で訝しげな顔をする。
「いえあの、これ、包んであるから」
やはり慌てて包装を広げ、小さなチョコレートを周泰に差し出す。
と、周泰は、の指から直接チョコレートを口に含んだ。
びっくりして固まる。の指先に周泰の唇が触れ、その意外なほどの柔らかさに、の頭の中が爆発した。
指先がぞくぞくする。体中が痺れるような感じだ。
「う、あの、あの……」
周泰の喉がちいさく動いた。
「……甘いな……」
「あ、甘いです」
周泰は小さく頷き、そのまま去っていく。
喜んでくれただろうか。
よく分からないが、がお礼をしたくて勝手にやったのだから、過剰な期待をする方が愚かだ。
自分を納得させて、歩き出す。
と、目の前に先程の兵士たちが現れた。
見るからに殺気立っている。
「……さっきはよくもやってくれたな……」
は何もしていない。だが、理屈が通るようには思えなかった。
慌てて逃げ出そうとするが、背後から伸びてきた手に捕まってしまう。
「や、離して!」
叫び声を上げようとしても、すぐに口を塞がれる。
体が浮き上がり、抵抗もままならなくなる。
周泰も行ってしまったばかりで、偶然戻ってくるなどと言うことは考えられなかった。
押さえつけられ、もみくちゃにされて、もう駄目だ、と諦めかけた瞬間、横合いから物凄い勢いでぶつかってきたものがある。
「なぁにしてんだ、お前ら!」
吹っ飛んだを空中で受け止めてくれたのは、誰あろう孫家の長子、孫策だった。
「やべ、逃げろ!」
「待ぁちやがれぇ!」
蜘蛛の子を散らすように逃げ出す兵士を、孫策が追いかけていく。
「……無事か……」
へたり込むの横に、周泰が立っていた。
「……どうして……」
「……孫策さまが……」
要約すると、周泰から甘い匂いがすると嗅ぎつけた孫策が、自分もにチョコレートをもらおうと周泰を連れて戻ってきたのだということだった。
意地汚い孫策のおかげで、酷い目に遭わずに済んだ。
ほっとしたが、チョコレートはもうないのだ。困った。
「どうしましょう……あれしかなかったんですよ」
周泰が、何か言いたげにを見つめる。
何だ、と顔を上げると、周泰は言いにくそうに口元に手を当てていた。
「何でしょう」
の重ねての催促に、周泰もやっと重い口を開いた。
「……一つしかないものを……何故……俺に……?」
の顔が、真っ赤に染まる。まずいまずいと慌てて顔を逸らすが、背を向けていても周泰がこちらをじっと見ているのが分かる。
答えを待っているのだ。の答えを。
言うなら、今だ。
早くしないと、孫策が戻ってくるかもしれない。
は深呼吸を何度か繰り返し、震える手を力を篭めて握り締め、周泰に向き直る。
「あの……私……私は……」
バレンタインデーは、女の子から告白する日なのだ。
終