去年のバレンタインに周泰に告白して、抱き締めてもらった。
その後何の進展もなかったが、周泰はと変わらず接していてくれた。
これはひょっとして、遠回しに友達でいようということかと挫けそうになったが、それはそれで仕方ない気もした。周泰は仕えている孫権に身命を賭しているようだったし、そこに女の入る余地はなさそうだった。決していかがわしい意味でなく、周泰は孫権の身を守ることに誇りを抱いているように見えた。
いや、いっそいかがわしい仲だったなら諦めもついたかもしれない。周泰の本命は孫権で、だから女の自分が割り込む余地がないのだと思えば、複雑かもしれないが割り切ることは出来たかもしれない。
孫策から、配下の将がを得たいと申し出てきたという話を持ち込まれ、の内心は更に複雑を極めた。
以前から何くれとなく気遣ってくれていたその将は、朴訥な好青年で出自も良く、異界から来たには勿体ないような話なのだ。自身も、勿論その将を嫌ってはいない。好ましいと感じていた。
だからこそ、から踏ん切りも着かず、だらだらと今日まで来てしまった。
あれから一年。
もう、決着を着けてもいい頃かもしれない。
はそう考え、周泰にとあるいたずらを仕掛けることにした。
少しは気に掛けている相手なら、このろくでもないいたずらに対して怒るなり笑うなりしてくれるに違いない。周泰が興味を持たない人間に対しては露骨なまでに無視を決め込むことを、この一年でようやく知った。
考えてみれば、その他に周泰のことで新たに発見したことはほとんどない。
かなり分の悪い賭けに思えて、の気は憂鬱になった。
「幼平さま」
長身の姿は目に止まりやすい。
一人城の廊下を行く周泰を追いかけ、追いつくのにずいぶん手間取ってしまった。やはり、コンパスが違うのだろう。
を見返す周泰は、駆けつけてくるをただ無言で待ち受ける。その表情に、何ら変化はない。
心細さがを襲ったが、踏ん切りをつけようと決めたのは自分なのだ。
小さな紙に包まれたものを取り出し、おずおずと差し出す。
「あの、これ」
周泰の目が包みを見、を伺うように動く。
「チョ……チョコレート、です」
周泰の指が包みを取り上げ、ゆっくりと紙を外していく。
チョコレートと言っても、果たして周泰が覚えているだろうか。覚えていなければいたずらにもならない。もしそうなら、覚えてすらいないなら、それはそれで結果は知れていた。
やっぱり、分が悪かったかな。
元からわかっていたことだったが、現実になるとどうにも居た堪れない。
俯いたに、周泰の指が止まる。
「おっ、周泰! ソレ何だ?」
酷く能天気な声が響き、遠くから孫策が駆けて来る。
どれほどの速度があるのか知れないが、あっという間に辿り着いて周泰の手にした包みを繁々と眺める。
「……ちょこれぃと……です……」
「あ、あの甘いとかいう奴だな! 俺にもくれ!」
が止める間もなく周泰の手から包みを奪い、一瞬で包みを引っぺがすとほいっと口に放り込む。
本当にあっという間だった。
その孫策の顔が、見る見る内に渋面に変わり、口の中から茶色の塊を吐き出した。
「何だこれ、全っ然甘かねぇぞ!?」
悲鳴に近い声を上げ、しきりに唾を吐き出す孫策に、周泰は物問いたげな視線をに向ける。
赤面しつつも半泣きのは、孫策にハンカチを差し出して頭を深く下げた。
「ごめんなさい、あの……ちょっと、いたずらのつもり……で……」
「いたずら? 周泰に?」
呆けていた孫策だったが、次の瞬間爆笑し始める。
「周泰相手に、いたずらかよ! やるなぁ、!」
それまでの不機嫌振りが嘘のようににっかりと笑みを浮かべ、未だ頭を下げているの顔を引っ張り上げた。
「そっか、悪かったなぁ、俺が邪魔しちまったからな」
ごめんな、と明るく詫びる孫策に、は何と言って言いかわからず、ただ手を上げ、孫策が詫びる必要はないと無言でゼスチャーした。
の髪をぐしゃぐしゃと撫で回しながら、孫策は周泰に対しても同じように詫びる。
しかし、周泰は小さく首を振ると、一礼して去って行ってしまった。
あ。
の胸に、ぐさりと何かが突きたった。
「……ん? どした、」
泣きたいのを堪えて、は孫策に笑みを浮かべて見せた。孫策が悪いわけではないから、は努めて何でもない振りをした。
自室に下がって湯浴みを済ませ、はノロノロと牀に向かう。
胸がきしきしと軋んだが、どうしようもない。ちゃんと返事をもらったわけではなかったし、そもそも見込みは薄いと思っていたのは自分だ。あの時抱き締めてくれたのが、周泰なりの精一杯の優しさだったのだろう。
寝よう。とにかく寝て、たくさん寝て、嫌なことは忘れてしまおう。
上着を布団代わりにして牀に着いたの耳に、扉を叩くような音が聞こえた。
気のせいかと耳を済ませれば、やはり気のせいではなく誰かが扉を叩いている。控えめな音だ。
誰だろうと思いつつ、自分が賊に襲われる理由も城の奥まで賊が潜入できる可能性も見出せず、は何の疑いもなく扉を開いた。
小さく開けた隙間からは、誰の姿も見えなかった。だが、扉の上の方をがしっと力強く押さえられ、がぎょっと目を剥くと同時に忍び込んできた者が在る。
周泰だった。
が驚いて声も出せずにいる間に、周泰はするりと滑り込むように室に入り、扉を閉めた。
「……執務が……長引いた……」
遅い時間の来訪の理由を述べたのだろうが、それにしても唐突だ。
固まったまま動けずに居るを抱き上げると、周泰は牀に向かいそこでを降ろした。
そのまま横たわったの上に覆い被さってくるのを見て、もようやく我に返る。
「あ、あの、幼平さま?」
既に帯を解きにかかっている周泰が、訝しげにを見上げた。
「な、な、何、して、るんですか?」
「……いたずら……」
いたずらをされているんだろうか、と一瞬思ったが、そうではなかった。
「……いたずらを……したろう……」
「……あ……はい……」
失敗はしたが、昼のいたずらを言っているのだとようやく理解した。チョコレートと偽って周泰に差し出したのは、使う機会がなく仕舞われたままだったカレールーを小さく削りだしたものだったのだが、説明する間もなく周泰は行ってしまったのだ。
「……いたずらには……罰だ……」
言うなり帯を取ってしまう。敷布と夜着に擦られ、甲高い音が鳴り響いた。
帯がなくなれば後はただの布と変わらず、の裸体が周泰の眼前に晒される。
羞恥より戸惑いが先行して、はうろたえながら周泰を見上げた。
「…………」
何だ、と問い掛けてくる視線が肌に痛い。
再度沈黙で促してくる周泰に、はおずおずと口を開いた。
「だって……キスもまだなのに……」
聞き慣れない言葉に黙り込んでいた周泰も、ふと思いついたように唇を寄せてきた。
そういうことじゃないんだけど。
けれど、頭の中まで痺れたようになってしまって、もう何も言えなくなった。
腰の痛みが完全に引けるのを待ってから、はいたずらに巻き込んだ詫びを兼ねて孫策の元を訪れた。
持ち込まれた婚姻の話を断ってもらう為だ。
だが、がようやく切り出した話に孫策は首を傾げた。
「もう、断ってあるぜ?」
絶句するを孫策は不思議そうに見遣る。
「権から、周泰がお前を娶ることになってるって聞いてな。お前も言いにくかったんだろうと思って、俺から断っといたんだけどよ。何だ、違うのか?」
初耳だ。
「い、何時……」
「断り入れたのは先月だけどよ、権は去年辺りからそういうことになってるっつってたぜ。何だよ、どういうことだよ」
の方が教えて欲しい。
未だ問い糾したそうな孫策を後に、は室を飛び出した。
「幼平さま!」
長身の姿は目に止まりやすい。
一人城の裏庭を行く周泰を追いかけ、追いつくのにずいぶん手間取ってしまった。
を見返す周泰は、駆けつけてくるをただ無言で待ち受ける。その表情に、何ら変化はない。
「あの……伯符様から……あの……幼平さまが、あの、私を、あの……」
こくり。
ただ頷く周泰に、は掛ける言葉を見失った。
娶る、ということはお嫁にもらう、ということだ。これ以上の成就はない。とは言え、当の本人が知らないでは滑稽な笑い話としか思えないではないか。
責めていいのか喜んでいいのか、様々な感情が綯い交ぜになってから声を奪っていた。
周泰の手が伸び、の髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「……あまり……触れさせるな……」
背中に回った手がを抱き寄せ、去年と同じように抱き締められていた。
お前は俺の妻だ、と囁かれた言葉に、の目から涙が零れた。
周泰が何とも思っていない相手に触れることはないのだ、と初めてわかった。あの時抱き締めてくれたのは、雄弁な愛の告白だったのだ。
主の血筋に当たる孫策にさえ嫉妬してくれたのだということもわかった。
両想いだったのだ。
わからなかった自分の馬鹿さ加減に、一人でうじうじと悩んでいたみっともなさに、一言言ってくれていたら済んでいただろう周泰の口の重さに、嘲り笑いたい衝動に駆られてけれど嬉しさがそれらの感情をすべて凌いで流し去ってしまった。
「キスして下さい、今すぐ」
私は貴方の妻なのだから。
周泰は、泣き笑いするに頬を寄せたが口付けは落とさなかった。
「……抑えられなく……なる……」
執務が済んだら行く、と告げ、周泰はを離した。
先日の執拗な『罰』を思い出して頬を染めるに、周泰は微かな笑みを唇に乗せた。