呂蒙が目を覚ました時、室内は既に暗闇に包まれていた。
執務机にうつ伏せていた顔を上げるも、視界は暗く何も見取ることが出来ない。
唯一察しが付くのは、人の気配も消え失せる程に遅い時間であるということだけだった。
ここ最近、急を要する執務が続いており、幾らか眠る時間を損なっていたとはいえ、居眠りは居眠りだ。寝入る前の最後の記憶と思しいのが、窓から差し込む午後の緩い日差しだったから、かなり長い時間眠ってしまっていたことになる。
あまりの失態に思わず顔を顰めるも、それで時間が戻る訳ではない。
机の端に積まれた竹簡の量にも変わりはなく、呂蒙は己への失望からなる苛立ちを抑え切れなくなっていた。
と、その時、闇に慣れた目を蝋燭の眩しい光が差す。
「呂蒙様、お目覚めですか」
己の感情とは真逆の穏やかな声に、苛立ちは加速される。
は、そんな呂蒙の様を不思議そうに見遣るだけで、その心情までは思い至れないらしい。
長年付き合いのある副官として、そんな『思慮の足りなさ』は不満に直結することとなり、呂蒙の機嫌を悪化させるには十分足り得る『落ち度』だった。
そも、眠りに落ちる前の風景の中に、の姿はしっかりと刻まれている。呂蒙が眠ったのであればが気付かぬ筈がなく、何故こんな時間まで放置していたかと腹立たしくなる。
「何故、起こしてくれなかった」
努めて平静を装いながらも、不機嫌は声音に滲み出す。
それもまた、苛立ちを加速させる。
「……よく、お休みになっていらしたようでしたので……」
言い訳にもならない返答は、何の慰めにもならない。
頭の中で朱が弾けたような錯覚と共に、呂蒙の癇癪も瞬時に爆ぜる。
「執務の最中に居眠りをして、よく休んだもないものだ! 俺に恥を掻かせたいつもりでなかったのなら、何故起こしてくれなかったのだ!」
怒鳴られ、の顔色がさっと曇る。
単なる八つ当たりであると他ならぬ呂蒙が自覚していただけに、萎れたの様は呂蒙の心を歪にひしゃげさせた。
素直に謝ろうにも謝れず、どうにも苦々しい思いに駆られて唇を噛む。
「……今日はもういい、下がってくれ」
それだけ言うのが精一杯だった。
は、何か言いたげに呂蒙を伺っていたが、決して視界に入れまいとするが如くの呂蒙の頑なな態度に、遂に諦めたらしく室を辞していった。
足音が遠ざかり、本当に一人になったと確信すると、呂蒙は深々と溜息を吐いた。
あまりに横暴だったと自省の念が湧くが、今更と言えば今更である。
明日以降、に対してどのように振る舞えばいいのか頭が痛いが、悩んだところで答えは出そうにもない。
寝起きからというだけではなくなった重い頭を振って、呂蒙は竹簡の山の頂上にある案件に手を伸ばした。
そして、おやと目を見開く。
記された案件は、呂蒙が目を通しておけばいいだけのものにすり替わっていた。下の段の竹簡を開いてみるが、内容は似たり寄ったりである。
積んであった竹簡には、どれも急を要する案件がずらりと並んでいた筈だった。一度中を確認してから、掛けられる時間のない順に並べて置いたのだ。思い違いということもない。
これはどうしたことかと、三段目四段目の竹簡を開け始めた時、再び執務室の扉が開く音がする。
かと無意味な焦りを覚えた呂蒙の前に、美周郎と謳われる麗しい姿が、月光と共に現れる。群雲が為した偶然だろうが、雲の肩入れが過ぎての演出だったとしても、呂蒙は欠片も疑わない。
「まだ、帰らないと聞いたが」
「これは、周瑜殿」
慌ててかしこまる呂蒙を制して、周瑜は穏やかに微笑んだ。
「……ここしばらく、お前に執務の負担が随分掛かっていたようだ。気付かず、すまなかった」
「いえ」
とんでもないことだと、呂蒙は萎縮するばかりだ。
そんな様を、周瑜は楽しげに笑って見ている。
「そこに積んであった案件は私が片付けて置いた。残りは、すべて雑務に近い案件ばかり。早々に片し、明日は休養を取ってくれと言いたいところだが、今の時期、急な案件が入ることもあろう。すまないが、それらは明日に回すことにして、今日はゆっくり休んでくれないか」
初耳の話に、呂蒙はうろたえる。
積んであった竹簡の量がほぼ同数だった為、『何一つ進んでいない』と勘違いしてしまった訳だが、よくよく考えればそれはおかしな話だった。
何故なら、呂蒙は執務の『途中で』居眠りをしたのである。となれば、思案途中の案件が、卓上に残っていなければ筋が通らない。ないとすれば、誰かが持ち去ったと考えるのが妥当であり、そんな些末なことにも気付かなかった自分が酷く恥ずかしい。
呂蒙が現状を理解したと覚ってか、周瑜はくすりと小さく笑う。
「……特に用はなかったのだが、何となく気が向いてな。私がここに顔を出した時、ちょうど、お前が眠り込んでしまったとかでが酷くうろたえていた。聞けば、ここ最近は夜もろくに眠れていなかったとか。差し出がましいとは思ったが、ちょうど私の手が空いていたので、代行させてもらった次第だ。念の為、に手伝ってもらった上で処理をしておいたから、何かあれば彼女に聞いておくといい」
「は……それは、……何と言っていいか……」
自身、この執務室に居なかったのだとすれば、『起こさなかった』と怒鳴り付けてしまったのは、完全なる八つ当たりである。目も当てられない醜態を晒してしまったと、呂蒙は内心青ざめた。
知ってか知らずか、周瑜は優美な微笑みを絶やさぬまま、足取りも軽く室を去っていった。
何と言って見送ったのかも覚えていられない程、呂蒙は動揺していた。
やってしまったという奇妙な後悔の念に苛まれていると、再び訪ねて来た者がある。
誰かと思えば、だった。
一気に気まずい空気が流れるも、は困ったように眼を伏せつつ、呂蒙の傍らに足を進める。
「お言い付けに背き、申し訳ありません。あの、お食事を……」
何を謝るかと一瞬悩んだが、恐らく呂蒙が『今日は帰れ』と命じたことを気にしているのだろう。
謝らなければならないのはむしろ呂蒙の方だというのに、おくびにも出さないに苦笑を漏らしてしまう。
「……すまなかったな」
の目が丸くなる。
呂蒙が、周瑜が訪ねてきたことを話すと、の顔がわずかに染まった。
「いいえ、私もせめて、もう少し早く起こして差し上げるべきでした」
休むのであれば、もっと楽な姿勢で寝た方が格段に疲れも取れただろう。だから、呂蒙が謝ることはないと、あくまで謙虚な態度を崩さない。
と、そんなの顔が赤くなる。
何事かと問えば、ごにょごにょと妙に歯切れが悪い。
敢えて問い詰めてみれば、渋々の態で口を割った。
「……あの……つい、思い出してしまいまして……」
「思い出す?」
続きを促せば、の顔がますます赤くなる。
「いえ、あの……実は、呂蒙様が眠ってしまわれた際、広げていた竹簡の上に顔を伏せてらしたので……でも、その竹簡が一番急ぎの案件でしたでしょう。ですから、周瑜様が、その……いいから、取り上げるようにとお命じに……いえ、あの、もう少し柔らかい仰いようでしたが、とにかく、それで私、呂蒙様を起こしてしまわないかと思ったのですが、何しろ急ぎの案件でしたから……」
つまり、眠っている呂蒙をそのままに、下敷きにしている竹簡を強引に抜き取ったのだという。
それでも起きなかったということだろうから、さてはそうまでされても起きない自分の間抜けた様に笑いが堪え切れなかったのかと思いきや、違っていた。
「あの、そうまでされて起きないのは、呂蒙様が……君、その、私に余程、心を許しているのだろうって……あの、周瑜様が、そんな風に仰るものですから……」
成程、確かに赤面するだけのことはある。
話を聞き出した呂蒙の顔も、と同じくらい赤く染まっていた。
そんなを相手に大人げなく八つ当たりをしてしまったことが、尚更恥ずかしくなってくる。申し訳なさが極まって、呂蒙は混乱の波間に浮かぶたどたどしい言葉を駆使し、改めてに詫びた。
「いいえ、そんな」
慌てて大きく首を振るは、ふと、意を決したように息を吸い込む。
「……私は、呂蒙様ほどの御方が、八つ当たりして下さるくらい気を許して下さっているのかと、そう思えて……嬉しかったですから……」
言い終えた途端、ぽっと顔を赤らめる。
先程とは比べようもないくらい、耳から首の辺りまで真っ赤になっていた。
いかんな、と呂蒙は頭を掻く。
の気持ちに甘んじて、ろくでもない真似をしてしまいそうな衝動が呂蒙を襲っていた。
奇妙に密度を増した空気に息苦しさを覚えて、呂蒙は密かな溜息を漏らす。
周瑜の意味ありげな笑みの意図を、ようやく覚った気がしていた。
終