気がつけば、馬岱は真っ白な世界にいた。
 色がない。地面や壁らしきものが、ゆらゆらと揺れる線で示されている。たくさんの四角がずらりと並び、人型の線が不規則にうろうろとうろつきまわっている。
 そのうちの一つが馬岱とぶつかって、金属を擦り合わせるような騒音を発した。
 やぁ、質量はあるのですね。
 馬岱は怒りもせずにその人型を見送った。
 しかし、ここはいったい何処なのだろう。
 仕方がないのでそこらへんをうろつくことにした。四角の向こう側にはやはり人型がたくさんいて、座ったり立ったりしている。
 さすがに殺風景だと思った。
 夢を見ているのだろうか。それにしてもおかしなものだ。
「きゃ」
 遠くない場所で悲鳴が上がる。女性の悲鳴だ。
 馬岱は人型を避け、そちらに向かった。
 おや。
 そこでぺたんと座り込んでいるのは、人型ではなく一人の女性だった。慌てて辺りに散らばったものをかき集めている。
 馬岱も、手伝うことにした。
 おや、これは。
 前に見たことがあるのと似たような。そうか、あの方が『描いた』という『本』に似ているのだ。
 まじまじと見ていると、座り込んでいた女性が真っ赤になってこちらを覗きこんでいる。
「失礼しました」
 拾ったものを手渡すと、丁寧に頭を下げられた。
「失礼ついでに、少々物をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
 あの方と似たような格好をしていたので、つい馴れ馴れしくしてしまったのかもしれない。
「ここは、一体如何なる場所なのでしょう?」
 女性が絶句したのが分かった。おかしなことを聞いてしまったろうか。

 場所を移動して、少し人型が少ないところに案内された。
 女性は、少し怯えたような顔をしている。
 微笑みかけると、少し顔を赤らめて俯いた。可愛らしい方だな、と思った。
 名前はと仰るそうだ。
「私は、馬岱と申します」
 名を名乗った瞬間、殿が固まった。
 如何したのだろう、と腰を屈めて覗き込むと、弾かれたように後ろに跳び退った。
「……失礼なことをしてしまいましたか」
 ぶんぶんと首を振ると、かぁっと顔を赤くする。本当に、如何したのだろう。
 私が私の見える物を説明すると、殿はびっくりしていた。
 殿には、普通の建物、普通の人々に見えるのだそうだ。
 では、私の目がおかしいのだろうか。目を軽くこすってみるが、人型が人に変じることはなかった。
 隣の殿を見遣る。
 この世界で、人として見えるのはこの方だけなのかもしれない。
 きょとんとした態で私を見上げる殿の様子が、とても可愛らしく好ましかった。幾つくらいの方なのだろうか。直接尋ねるのは憚られたが、私とそう変わらないようだ。
 ひょっとしたら、と不意に思いついた。
 ここは、あの方の世界なのではないだろうか。
――嫁御にもらってゆきます――
 かつて、自分で漏らした戯言が蘇る。
――居られると思いますよ、たくさん――
 まさか、と笑ってしまった。
 殿が不思議そうに見つめているのに気がついて、何でもありませんよ、と声を掛ける。
 何とはなしに、この戯言のことを話して聞かせた。
「ある方が、私共のところにおられるのですが……元の国には、私達のことを知っている方がたくさんおられて、皆様私達のことを好いていて下さると仰るのですよ」
 面白いでしょう、と笑うと、殿が突然私の腕に手をかけた。
「好きです」
 突然の告白に面食らっていると、ひたむきな殿の顔が突然動揺して惑った。一気に赤くなり、私の腕にかけた手を勢い良く上に上げた。
「あ、やだ、私……何言って……」
 すいませんと必死に頭を下げる様は、何処かあの方と通じるものがある。
 呼びかけると、顔を真っ赤にして恐る恐る私を伺う。
 なるべく驚かさないよう、脅かさないように微笑みかける。
「とても嬉しいです……有難うございます」
 殿は、だが却って萎縮してしまったように身を縮こまらせた。
 困惑する。如何したら、この方に笑っていただけるだろうか。
 笑った顔を拝見してみたい、と思った。
 でもまた、何故そんなことを思うのだろう。会ったばかりの方に、失礼にも程がある。
 殿が、お腹すきませんか、と訊いて下さった。
 心遣いが嬉しく、たいして腹はすいていなかったが、つい『はい』と答えてしまった。

 殿が用意してくれた黒い紙のようなものがついた、三角形のもの……米で出来ているというが、実に不思議なものだ。一瞬戸惑ったが、食べてみるとなかなか悪くない。
 緑色の筒には茶が入っているそうだが、味は何時も飲むものとは違う味がした。緑色の茶だということなのだが、中身の色が確かめられないのが残念だ。
 筒の中を覗き込んでいると、殿が訝しく思われたようで、手元の筒を一緒に覗き込んでくる。
 本当に緑色なのか確かめたかったと言うと、殿は一瞬きょとんとして、次いでくすくすと笑い出した。
 ああ、笑って下さった。
 優しい、無邪気な愛らしい笑みだな、と思って見ていると、私の視線に気がついた殿が、赤くなって笑うのをやめてしまった。
 不躾に見ているのではなかったな、と反省すると、殿は大変申し訳なさそうにこちらを伺う。
「笑ったりして、すみません」
 驚いた。
「謝らないで下さい、謝られるようなことは、何もされておりません」
「でも」
 それだったら、もっと笑って下さいませんか。
 私の申し出は確かに唐突で、殿が驚いて言葉をなくすのも当然だと思われた。
「貴方の笑っている顔が好きです。もっと笑って下さいませんか」
 野暮を覚悟でお願いすると、殿は赤くなって俯いてしまった。
 これでは従兄上と変わらない。もどかしい衝動に駆られ、自分の技量のなさに改めて情けなくなった。
 こんなだったろうか、自分は。
 急に従兄上と同じ程度の人間に落魄れてしまったような錯覚に捕らわれた。
 いかん。
 自分の戯言に墓穴を掘ってしまっている。
 気にし過ぎだ。
 謝らねば、と殿を振り向くと、殿はぎこちなく笑みを浮かべていた。
 また驚いて、言葉を失ってしまった。
「……あの、ちゃんと笑えてませんか……あ、笑えてませんよね……」
 両頬を押さえてふにふにと揉んでいる。その柔らかさに、どきっとした。
 次いで、笑おうとして下さったのか、と少なからず感動を覚える。
 何となく、いつもの調子が出ない。自分の世界ではないからだろうか。相変わらず視界には白い世界に歪んだ線が揺れているのしか映らない。
 殿のみが、この世界で唯一の人だ。
 だから、縋るような真似をしてしまうのだろうか。殿にはいい迷惑だろう。
「あの……馬岱……さま、は、これから如何なさるんですか……」
 そういえば、如何したものか。
「……夢を見ているなら何とかして覚めなくてはと思いますし……もし夢でないのなら……」
 少し迷って、帰らなければ、と答えると、殿は俯いてしまった。予想外の反応に、おや、といぶかしく思う。
「あの」
 殿の瞳が、困惑して揺れている。つい、口が先に滑った。
「一緒にいらっしゃいますか」
 ぽかんと口を開けて見上げてくる殿を、甚だ失礼ながらやはり可愛らしいと思ってしまう。
「……行って、いいんですか」
 これもまた予想外の答えだった。
 だが、殿の真意はともかく、私には嬉しい答えだったので、つい意地悪なことを言ってしまう。
「嫁御にいただいてしまいますが、よろしいですか」
 殿は顔を真っ赤にして、小さく頷いた。たぶん、頷いた。私の思い込みかもしれないが、了承してくれたのだと思う。
 では、もう連れて行くしかないではないか。
 殿の手を引き、立ち上がる。
 帰り方は、何となくだが分かる気がした。
「参りましょうか」
 何とも簡単に嫁御をいただいてしまった。従兄上辺りは卒倒するかもしれない。
 それは何とも愉快だ。
「貴方に紹介したい方が、いらっしゃるのですよ」
 殿は、私を見上げ、はにかんで笑った。
 その笑顔が愛おしい。
 幸福だった。


   終

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