が呉に旅立って二週間あまり。
 馬超は、日が経つにつれイライラするようになっていた。
「従兄上、鬱陶しいですからうろうろしないで下さい」
 あまりにイライラしているもので、馬岱の言葉も徐々に辛辣なものになっている。それでもまだ可愛い方だと言うのは、誰の評価であったか。
 馬岱にでさえじろりと目を剥き、馬超はむっとしながら卓に着いた。
 すかさず馬岱が茶托を敷き、湯飲みになみなみと茶を注ぐ。
 親切からではない。
 いいから黙ってこれでも飲んでろ、という馬岱の腹立ちの現れである。
 何せ、仕事をしない。馬超が仕事をしないからと言って、馬超に回される竹簡がなくなるわけでなし、勢い尻拭いは馬岱がやる羽目になるのだ。
 ただでさえ文仕事が得意でない馬超は、馬岱の細やかな気配りによって何とか仕事をこなしているのに、その僅かすらもやらなくなった。挙句にうろうろとうろついては、腹立ち紛れに人にも物にも当り散らす。
 馬岱の仕事は増える一方で、だから馬岱の口の悪さも馬超の自業自得の賜物と言えるかもしれない。
「そんなに腹立たしいのでしたら、諸葛亮殿の所に行って、直談判してきて下さい。殿を早く連れ戻すようにと」
 出来るものならとっくにやっている、というか、やってみたものの玉砕した馬超には、痛烈な皮肉である。
 せめてもが妊娠でもしたのなら、子が堕ちでもしたら大変だと言い訳できたのだが、種が悪いのか畑が悪いのか、は子を孕む前に呉に向かって旅立っていってしまった。
 馬超は深く落胆した。
 せめて、嫁に迎えたかった。が了承するはずもなかったが。
 呉の将は粗野だという。不安だ。
「従兄上ほど粗野な者がいるとは、なかなか想像が出来ませんが」
 馬岱の茶々入れにもいっかな怯むことはない。あの、呉の世継ぎとかいう男がいるだろうと言い返し、馬岱を酷く呆れさせた。自ら粗野であると名乗ってどうしようと言うのだ。
 その時、扉の外から衛兵がやって来て、姜維の来訪を告げた。
 馬超が返事をするより早く、馬岱が入室の許可を出し、馬超は卓の上にだらしなく顎を乗せたまま、馬岱を睨みつけた。馬岱は涼しい顔をしている。
 それでも馬超は姜維が入ってくる前に居住まいを正し、姜維の拱手に応えた。一応、親の躾がまだ生きている。
「姜維殿が直々にいらっしゃるとは、何かありましたか」
 馬岱がやや緊張した面持ちで問う。姜維自らの用で馬超を訪れることはまずない。あるとすれば、丞相たる諸葛亮の用事だろう。
「いえ、大したことではありません……本当に、ただの私用に近いことで」
 近々、呉に向けて蜀の使節の賄いを送る船を出す、ということだった。
「あまり大きなものでなければ、荷を積んでも構わないということでした」
 馬超は、何のことだか分からずに姜維を見上げていた。
「……あまり、俺には関係ないように思えるが」
 従兄の察しの悪さに、馬岱は馬鹿を見る目で馬超を見下ろす。脇に立っているので、幸いにも馬超に見咎められることはなかった。
「……馬将軍がそう仰られるなら、ではそういうことで」
 姜維もすんなり引き下がろうとするので、今度は馬岱が慌てた。
「従兄上、殿に手紙なり送られれば良いではありませんか」
 ようやく馬超も気がついて、思わず赤面した。
 そうか、手紙なり、何かが喜ぶ物を送ってやろう。
 馬岱に目配せして礼を言う。馬岱も冷や汗を拭った。迂闊にも目の前の恋敵に侮られるような真似をしてしまう。従兄らしいと言えば言えたが、本当に困ったものだ。
 姜維は、つまらなそうに目を伏せた。
「……何か言いたいことでもあるのか」
「いいえ、私如きが何で将軍に差し出がましいことを申し上げられましょう」
 いちいち嫌味な物言いに感じられて、馬超は不機嫌を露にする。
「一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
 何だ、と横柄に構える馬超に、姜維は冷ややかな目を向ける。
「如何に愛しい方とは言え、船に乗るにも覚束ないほど痛めつけるのは如何なものでしょうか」
 馬超は、予想外の姜維の言葉に数瞬考え込み、それがに対してのことだとようやく気がついた。
「お前に言われる筋合いはない、第一、俺は可愛がっているのであって痛めつけているのではない!」
「手加減なさらなければ同じ事です!」
 年の若い姜維とて、馬超とは二つしか違わない。色恋沙汰ともなれば、遠慮は更になくなる。
 勢いは姜維が勝り、馬超は思わず口篭った。
 馬岱は、訳知り顔でうんうんと頷いている。
「……岱、お前どちらの味方だ」
「決まっております、私は何時でも殿の味方です」
 顔付きが怒気に染まるのを姜維は冷静に見下ろして、馬岱に拱手の礼をした。馬岱も応えて拱手の礼を取り、姜維を見送った。
 姜維が出て行ってしまうと、馬超は急いで新品の竹簡と、筆を取り出した。
「……何をなさるおつもりです」
「決まっている、に文を」
「なりません」
 書きたいのでしたら、今日の分の書簡を全て片付けてからです。
 重々しく宣言をする馬岱の言葉が、馬超には鬼の哭く声に聞こえた。
「た」
「駄目です」
 せっかく馬車馬の人参が手に入ったというのに、無駄にしてなるものか。
 馬岱の魂胆は見え透いていたが、それというのもそも馬超が悪いわけで、誰に八つ当たりするわけにもいかない。
 馬超は新しい竹簡を放り出し、天を仰いで唸る。
 唸っていても仕方ないので、渋々居住まいを正すと、馬岱に向けて手を差し出した。馬岱は機嫌良く片すべき竹簡を手渡す。馬超はからからと勢い良く竹簡を解くと、卓の上にこれまた勢い良く乗せた。
「ばか女め!」
 どうやら奴当たり所はに見出したらしい。猛烈な勢いで仕事を開始した。
 いつもこうしてくれたら話は早いのに、とこっそり馬岱が呟いた。
 がくしゃみしたかどうかは、ご想像にお任せする。


  終

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