孫堅が、思いがけずあっさりと呂蒙達の進言を容れたことに、黄蓋は疑問を抱いていた。
 あれほど執着していた女を、孫堅が容易く諦めるとは思えなかったのだ。
 執着は、あらゆるところに見え隠れしている。
 が孫堅に呉に残ると言い出した時、手筈は整えていたとばかりに急速に劉備の帰郷の支度を進めた。
 まるで、が言い出すのを予見していたかのようだった。
 高官の言葉も、意にも介さなかった。
 孫堅が、色ボケしているだけの程度の低い男とは、到底思えない。
 とは言え、如何に強く申し出たとは言え、呂蒙や陸遜の言をそのまま受け入れるほど優しい人間とも思えない。
 何かあるのだろうと踏んでいた。
 孫堅は、ふふ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「何もない……と言っても、引き下がるまいな。お前の言うとおり、幾つかの思惑があってのことでは、ある」

 一つは、部下が育っていることを確認したかった。
 君主の言いなりに、暴虐を看過するようであれば、孫呉の世も長くはないからだ。
 これには、呂蒙も陸遜も、他の文官達でさえ期待以上の反骨振りを示してくれた。

「まぁ、女のこと故、あまり過大評価もしかねるがな。それにしても、権もなかなか言うようになった。同盟相手に恩を売れ、と言うだけならまだしも、そのうち十倍にして返させましょうとまで言うとは、
思ってもみなかったな」
 十倍だぞ、どれほどの恩になろうな、と孫堅は愉快そうに笑った。
 話がずれかかるのを、黄蓋は渋い顔で元に戻すよう促す。
 孫堅は、頑固な黄蓋の物言いにまた笑った。

 一つは、に恩を押し付けたかった。
 渋々残ると言うのではないものの、蜀への思い入れは半端なものではない。
 孫堅の狙いはあくまでの忠義を呉のものとすることにあり、故にここぞという機会があればそれを利用しない手はない。
 孫堅に対してはともかく、情の深いのこと、息子達や臣下に交わりその情に触れれば、呉にのみ傾くことはなくとも、少なくとも蜀と呉、両方に心を寄せることで簡単に身の置き場所を決めることはなくなろう。
 呉には必ず戻ってこようし、戻れば次こそ取り込む気で居る。
 単に、段階を踏むだけのことと、孫堅に焦りはない。

「最後の一つだが……」
 孫堅の顔が、暗い笑みを浮かべる。君主として、国を治める者として、必要不可欠と言ってもいい峻厳さがそこにあった。
「どうも、この俺を……江東の虎を、可愛らしい子猫か何かと勘違いしている輩が増えてきたようだ。俺も、猫は嫌いではないがな」
 何が可笑しいのか、孫堅は声を上げて笑う。
 だが、黄蓋はその笑みに含まれる苛烈さを知っている。
 握った手の中に、汗が浮いた。
「女に、特にのような女に、残酷な処刑は見せずに置きたい故、なぁ」

 孫堅は立ち上がり、書簡を納める箱の中から、極当たり前のように幾つかの布きれを取り出した。
 隠しもせず、ただ紐で封じただけの、何でもない箱だ。
「ここに名の挙げられた者、親族郎党全員の首を刎ねよ。一人の例外も、慈悲も許さん」
 黄蓋は、ぞっとして孫堅を見つめた。
 布きれは大きくなく、書かれていると思しき人名もそう多くはないように見える。しかし、十名を下るとは到底思えない。その十名余りの親族郎党ともなれば、一体どれだけの人数に上るのだろうか。

 孫堅は、再び座すと、鼻歌を歌いながら書簡を広げた。
 処刑により、空いた地位や役職に補充する人員を考慮する為である。
 ふと気遣わしげに黄蓋を見る。
があまり早く帰ってくると、首が腐る前に着いてしまうことにならんか?」
 問われて、返す言葉を黄蓋は持たなかった。

 優しくも残酷な、君主孫堅の一面であった。


  終

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