何の気なしに気が付いた。
そう言うしかない。
長年とは言えないかもしれない、七、八年というところだったろうか。
李然が周瑜の室に戻ってきた時、拱手の礼を解いて顔を上げた、その目が。
――何か、あったな。
周瑜はおくびにも出さず、書き溜めた竹簡の束を片すよう李然に指図した。
馬鹿な思い込みであればいい。
劉備達に宛がわれた屋敷へ、人目を避けるように移動しながら周瑜は考えを巡らせていた。
首筋に、鳥肌立つような視線を感じるようになったのは最近のことだ。
刺すような鋭いものではなく、何かねっとりと生暖かい、泥酔した者の吐息のような不快な視線
だった。
意図せぬところで、何事かに巻き込まれつつあるようだ。
周瑜は冷静だった。
幼い頃から呉の盟主の跡継ぎと乳兄弟として育てられ、誰に諭されるでなく何時かはこの乳兄弟の盾になる、この乳兄弟の為に生き、そして死ぬのだと覚悟を決めてきた周瑜は、尋常ならざる鋭敏な神経の持ち主となっていた。
だからこそ他者への拒絶は凄まじいものがある。
他者と言っては語弊があるかもしれない。『孫呉の為ならざる者』、これが一番正しい。
諸葛亮然り、然り。
いつか孫呉の障害となる。ろくでもない方向へ孫呉を導き、逃れざる状況に追い詰める。
周瑜の感はそう告げていて、だから必死になって排除しようとし……失敗した。
触れてはならぬと自分を戒め、そうやって初めて受け入れられると思ったのに、状況がそれを許してくれなかった。
が李然のいい標的となったことを、周瑜は李然本人の目から察した。李然がを盗み見る視線を、周瑜が盗み見たのだ。
李然は聡い。
自ら任命して副官に引き上げたのだから、当然と言えば当然だったかもしれない。
その李然が、裏切ろうとしていることを、周瑜は勘から見抜いた。
勘である。何の証拠もない。
だが、李然のを見る目は、孫策のような愛しい者を見る目でも、孫堅のような興味深げな目でも、陸遜のような深い敬愛に包まれた目でもなかった。
猟犬が、主に命じられ指差された先に在る獲物を見る目。
浮かんだ言葉があまりにも的を射ていて、周瑜は他に思い浮かべる言葉を見失った。
周瑜がの室の近くを通りかかると、の罵声が聞こえてきた。
相変わらず、姦しい。
声の調子から緊急の必死さは感じられず、周瑜は溜息を吐いた。
また孫策と言い争いでもしているかと思えば、廊下を駆けていくのは凌統である。
その横顔が青褪め引き攣っているのを、周瑜は見逃さなかった。
何かあったのか。
しばらく様子を伺えば、今度は太史慈が現れた。
の室の前で立ち止まり、何事か躊躇っている。
あの太史慈までもが。
周瑜の苦悩は深い。が無意識だとはようやく納得したが、その分性質が悪いと言えた。傾城の美女とはおこがましくも言えないが、その歌は良きにつけ悪しきにつけ人の心を魅了するのは間違いないように思われた。
孔子は、良き音楽を尊び乱れし音楽を非難したと言う。それは、人の心に多大に影響を及ぼすからだそうだ。
の歌が、果たしてどちらなのか。
周瑜には結論が出せずにいる。
太史慈は、ようやく決意したように室の中に向けて声を掛けた。
開かれた扉から顔を出したのは、だった。
――おや。
周瑜は奇妙な違和感を感じ、その原因を思索する。
答えはすぐに弾き出された。
通常であれば、侍女がまず取り次ぐのが普通だろう。先日までは一文官として共連れもなかっただったが、今は春花とか言う少女が居るはずだ。
太史慈が凌統に頼まれた、どういうことかとに尋ねている。は、周瑜が潜んでいることも知らずに、春花が居なくなった件を語り始めた。
迷子になったと思っているらしいが、周瑜は李然の差し金ではないかと疑った。
が太史慈と共に去り、人気がなくなって尚同じ場所に留まり、思考を巡らせる。
春花が居なくなったのは昼日中らしい。小さな少女一人とは言え、攫えば目立つし騒ぎになろう。警備の者の目をすり抜けて連れ出すのは至難の技だ。まして蜀の陣、呉の者が入り込めばそれだけで目立つ。危険過ぎる。
李然ならば、こんな手は打つまい。
ならば、蜀に協力者が居るとすればどうか。
使節として選ばれた、いずれ劣らぬ生え抜きの者ばかりだろう。それでいて尚、裏切りの誘惑に揺れそうだと見込まれる者。高官は考えにくい。かと言って、身分が低過ぎる家人では身動きが取れぬ。文官。しかも、と近しい立場の男。室が近い、あるいはの動きを見張れるかそれに近いことが出来る者。
の上官だった馬良、あの男は確か、もう一人文官を抱えていたはずだ。
ならば、確率は高いと見て良い。
周瑜はすっと目を閉じる。
蜀に貸し与えた屋敷の見取り図を、脳裏に描き出す。
これか。
様々に浮かぶ見取り図の中から一枚を取り出し、固定する。
黒の中に一枚の見取り図がある。
劉備の室やその近辺、文官に与えるには広過ぎるだろう室、護衛が詰めるに相応しい室を塗り潰していく。通常の文官であれば相部屋が相応しかろうが、相部屋ではないだろう。春花を隠しておけないからだ。二人以上が入るには手狭な室。出来れば人目から離れがちな室。それでいて、と釣り合いが取れる室。
ここか。
目星をつけた周瑜は、気配を殺したまま移動を始めた。
しばらく室の中を伺うが、人の気配はない。
室の主は、未だ帰還していないのかもしれない。
ならば却って好都合。
周瑜は足音を潜めて廊下に飛び上がり、そっと室の扉を開いた。
甘い香りが漏れ出してくる。
香に眠り薬を混ぜ込み、燻すことで眠らせているのだろう。
これでは、攫われた者はここにいると証しているようなものだ。
周瑜は苦笑し、手巾で鼻と口を塞いだ。
意外なことに、春花は牀に寝かされていた。きちんと寝かされているその様に、攫った者に害意のなかったことを示しているようだった。
周瑜は眉を顰めた。
それは同時に、李然が如何に卑劣にこの室の主を脅しているかを示していた。
――私も焼きが回ったものだ。
人を見る目の甘さを自嘲し、香炉で煙る香に灰を掛け、その火を消し止めた。
春花の体を抱き上げると、少女独特の乳臭いような甘さが香った。あれほど強い香りの中にあって、その体臭は失われていない。
強靭な清さが侵されずに済んだことに、周瑜は心から安堵した。
春花をの室に運び込み、牀に寝かしつける。
よく眠っている。
その頬に乱れて掛かる髪をすくい、直してやる。詫びを入れたい気持ちでいっぱいだったが、言っても詮無きことである。蜀の文官が裏切っていたとなれば、事はややこしくなるからだ。春花の寝かしつけられていた様を思い出し、出来得るならばこのまま蜀に返してやりたいと周瑜は考えていた。そうすれば、二度と呉にはやって来はすまいし、来たとしてもこんな悪さはすまい。
諸悪の根源は李然であり、またそれを見抜けずにいた周瑜なのだから。
李然と、如何にして決着をつけるか。
彼奴が裏切るとすれば、最大の効果を発揮する時を狙うだろう。常であれば、それは戦の最中が相応しい。しかし、今はまだ大きな戦を手控えている時期ではない。李然が危険を犯して動きを見せている以上、決起の時は近いはずなのだが、では何を狙っているのだろう。
自分を、陥れる。
周瑜の命ではなく、もっと大きく被害を生むもの。自分の一番大きな宝。
小喬か。否、有り得ない。ならば春花を狙う道理はない。
春花が属するのはである。が属するのは蜀である。蜀との不和か。否、蜀との不和は、周瑜が望んでいたことで影響するものは薄い。
を傷つけることで、何が得られるのか。は蜀の文官である。そして、周瑜の乳兄弟の想い人である。
これか。
ようやく思い当たり、周瑜は自嘲した。
本当に、焼きが回った。
周瑜の一番の宝、敵の狙いは周瑜に預けられる信頼である。周瑜がを傷つけたことにして、その信頼を損ねようと言うのだろう。
損なわれた信頼は疑惑を呼び寄せ、人の心に闇黒を呼び寄せる。結果、呉の将達の堅固な忠誠にヒビが入り、不調和を招く。
くだらぬことを思いつく。
周瑜は静かに怒っていた。
代償は、それなりに高くつくと思え。
「……う、ん、……さま……」
春花の寝言に我に返り、周瑜は苦笑した。熱くなっていたことに気付かされたのである。
李然の目論見が判じた以上、手を打たねばならぬ。取りあえずは、今日の一件、何事もなく済んで良かったと言わざるを得まい。
周瑜はそっと室の扉を閉め、その場を後にした。
迂闊にも凌統にその姿を見られていたと知れば、逆に周瑜の手の内は広がっていたと思われるのだが、世の中と言うものはままならないのだった。
終