落ち着かなさから幾つかの誤謬を犯し、その穴埋めの為に手間取った。
 馬良は宴に出席する為、劉備らに随行してとっくに広間へと向かっていたが、王埜は初回以来ずっと欠席している。
 招かれていないわけではない。
 も、具合や都合が悪い時を除けば(半ば強制的ではあるが)出席していたし、王埜の席も用意されていた。
 だが、それが単なる取り繕いであることを王埜のみならず皆が知っていた。王埜は、を呼びつける為の口実に過ぎなかった。
 それを悔しく思わないわけではない。
 けれど、あの席は王埜にとっては針の筵に等しい。
 想いを寄せていた相手の隣、しかし想う道は既に断たれている。どれほど恋焦がれたとしても、を妻に迎えることは叶わないのだ。
 趙雲や姜維ほどとは言わない、せめてもう少し立場が上だったら、才があったら、秀麗な顔立ちをしていたら。
 それでも果たしてが振り向いてくれたかはわからない。
 もしかして趙雲や姜維と将来を誓っていたとして、呉の跡継ぎから是非にと望まれているらしいが、望む先に嫁入りできるかは甚だ疑問である。
 に家族はないという。
 夫になる男の家族さえ了承するなら、しがらみのないは何処にでも嫁に行くことが出来るだろう。
 何せ、の後ろ盾になるのはあの諸葛亮である。いや、ひょっとしたら君主たる劉備自身が後ろ盾になるかもしれない。劉備はを殊の外気に入っているのだから。
 が、蜀に帰りたがっているのを王埜は知っている。
 蜀は、私にとっての故郷みたいなところだから。
 そう言って微笑んでいたのを、王埜は今も忘れていない。
 想いが叶わぬなら、せめてを蜀に。
 綺麗事だと自嘲する。
 趙雲や馬超がを射止めようとして争っているらしい話は、馬良から聞き及んでいた。
 万事派手なことが嫌いなのことだから、万が一とは言え将軍達の誰をも選ばない可能性がある。
 その時、一途に誠意を尽くしてきた王埜が傍らに在れば、あるいはもしかして……という甘い期待が捨てきれずにいる。
 そこを付け込まれたのだ。
 あの男……李然とか言う男に。
 李然は言った。
 を、蜀に帰してやろう、と。
 己が主たる周瑜は、を呉に残しておきたくはないのだ。妻である小喬を惑わされたせいで手を出せずにいるが、伯符様の御傍にあの諸葛亮の息の掛かった女は置いておけないと仰せである。
 その為にも、蜀と呉の間にわずかなほころびを残しておかねばならぬ。
 幾つかの情報を流し、簡単な手伝いを担わされ、代わりに幾らかの銭と、こっそり女も世話してもらった。
 要求されるものは段々と厳しいものになっていった。
 遂に今日、の侍女を攫えと言う指示を受け、王埜は愕然とした。
 それは出来ぬと断れば、ならば自身に死んでもらう他ないと言われた。
 を悲しませることは出来ない。けれど、を死なせることは耐え難い。
 悩み苦しんだのは一瞬だった。
 答えは端から決まっていた。を失うわけにはいかない。
 蜀の為、と春花、どちらが比して大きいか考えれば、これは極自然の帰結だと王埜は自分に言い訳した。
 挙句、獲物は自ら出向いてきたのである。
 馬良に預かった言付を申し述べると、春花は室を後にした。
 王埜は適当な用事を作って先回りし、自室近くを通りかかった春花を後ろから羽交い絞めにし、薬を嗅がせて意識を奪った。
 誰にも見られずにあっさりと事は済んだ。
 だが、王埜は落ち着かなかった。
 何時春花が目を覚ますかしれない。本当にあの香に仕込んだ薬が効くのかどうか、確証はなかったのだ。
 罪の意識と焦りから、王埜は誤謬を繰り返した。
 早く戻ろう、と王埜は立ち上がり、卓に足を引っ掛けて積んであった竹簡を崩してしまった。
 その物音にぎょっとして、次いで歯を剥いて怒る。
 憤るまま竹簡を積み直す王埜の手に、濡れた感触があった。
 知らぬ間に、泣いていた。

 暗い感情を引き摺ったまま、王埜は自室に向かった。
 宴が済み、夜更け過ぎになったら春花を渡す算段になっている。
 王埜は室に滑り込み、口と鼻に手巾を当てた。香の煙は牀にのみ向くようにしてあったが、香りの拡散までは防ぎようがない。うっかり眠っては事だと、念を入れたのだ。
 だが、室の中に濃密に篭っているはずの香の匂いは、薄っすらと漂うほどでしかなかった。
 驚き駆け込んだ室の中には、春花の姿は何処にもなかった。
 王埜は焦り、引き攣った顔をしながら春花を探して室中を這いずり回った。
 いない。
 香が、切れてしまったのだろうか。
 焦り過ぎて吐き気すら覚えながら、王埜は愕然としてその場に崩れ落ちた。
 春花がもし自分のことを認識していれば、王埜は破滅だ。
 誰の指図で何の為に春花を攫うような真似をしたかと、問い詰められるに決まっている。
 何より、に知られることをこそ王埜は恐れた。
 目の奥で、が侮蔑の目を向けている。
 止めてくれ。そんな目で見ないでくれ。俺はただ、お前の為に、お前を想って。
 世話された女を抱く時も、目を瞑ってのことを思いながら腰を振った。この腕の中に今いる女は、なのだと思い込むようにして射精した。
 本当のがそうしてくれたのなら、王埜は罪人にならずに済んだのだ。
 言い訳だとわかっていながら、王埜はそう思わずには居られなかった。
 頭を抱え、何かから身を隠すようにしてがたがたと震えた。

 ひょっとしたら、室に戻ったのではないか。
 王埜は突然思いつき、勇んでの室に向かった。春花の室は先に伺ったのだが、戻っている形跡はなかった。そこで、宴に出向いたの帰りを待って、の室で待機しているのではないかと思いついたのだ。
 李然の言が正しければ、あの薬には人の記憶を曖昧にする作用もあるらしい。
 春花がいなくなってしばらく経つのに、王埜の室には誰も訪れなかった。
 ばれていないかもしれない。
 王埜はわずかな期待に縋りつくようにして、の室に向かった。
 そして、そこに春花を見つけた。
 春花はの牀を使い、安らかに眠っているように見えた。春花が自分で起きて戻ったのだと信じて疑わない王埜は、主の牀をこうも堂々と使うとは大した玉だと苦笑いした。
 運び出そうとして、足早に駆けてくる音に気が付いた。
 さっと青褪め、物陰に身を潜める。
 足音の主は、だった。
 まだ宴が終わるには幾らか早いはずなのに、あまりの間の悪さに王埜は舌打ちしたくなる。無論、そんなことをすればに気が付かれてしまう。
 王埜は冷や汗を流しながら、に気付かれぬよう移動した。
 は王埜の存在にまったく気が付いていないようだ。眠っている春花を見下ろし、微笑んでいる。
「もう、心配かけてー」
 の笑みを含んだ声に、王埜は泣き叫びたい心境に駆られた。
 続きの室までは上手く移動できたのに、置いてあった卓に手を突いてしまった。
 カタン、と小さい音が鳴る。
 ぞっとして、全身が総毛立つ。
 気付いてくれるな、と必死に念じるのに、奥の方から誰何の声が上がり、がこちらに向かってくる気配がする。
 王埜は、咄嗟に手に触れた掛布を取り、出てこようとするに引っ被せた。
「にゃっ!」
 不可思議な声を上げるを、王埜は一瞬抱き締める形になった。
 柔らかい。
 掛布は恐らく、が日常使っているものなのだろう。移り香が王埜の神経を痺れさせた。
 力を篭めて抱き締め、身を翻して室を飛び出した。戻れない。もう、戻れるわけがない。
 が気付くかもしれない。春花が思い出すかもしれない。
 もう駄目だ。お終いだ。
 王埜は夜の闇の中を駆け出した。

「は、はぁ、はぁ……ううぅっ……」
 待ち合わせ場所で、王埜は熱を放出していた。
 一瞬感じ取ったの肉の感触、香った体臭だけで王埜はもう何度も自分を追い詰めていた。
 剥き出しになった股間から、一物がまた隆々と天を仰ぐ。
 あぁ、俺はがこんなにも好きだったのか。
 国への裏切りと死の恐怖から、神経をおかしくしてしまっているのだと気付かないまま、王埜は肉幹を握り擦り上げる。
 どろどろの液体が指を潤滑に滑らせ、生臭い匂いを放っていた。
「……何してやがる」
 止めろ止めろ、と顔を顰めながら現れたのは、李然だった。
 王埜は薄笑いを浮かべながら、李然を睨めつけた。
「嫌だね、もうお終いだ。俺はどじを踏んだ、もう逃げられんよ」
「何だと」
 李然の目が鋭く光る。
 だが、王埜は手を止めることなく自慰を続けた。
「あぁ、……!」
 惚れた女の名を呼びながら、気が触れたように恥辱の様を披露する王埜に、李然は唾を吐きかけた。
「そんなに惚れた女なら、俺が攫ってきてやろう」
 一瞬、王埜は痴呆のように顔を弛緩させた。
「な、に?」
「そんなに惚れてるなら、俺が攫ってきてやろうと言ったんだ。妄想相手に吐精するくらいなら、生身の女の尻にぶちまけてやれ。女なんざ、男の逸物に惚れる生き物だ。お前くらいの剛の物なら、すぐに蕩けて言いなりになるだろうよ」
 そうだろう、その方がお前もいいだろうと噛んで含むように囁かれる。
「あの女、ご面相はそれほどでもないが、あの尻、たまらねぇわな。連れて来てやるよ。お前のこいつをぶち込んでやりな」
 にやりと笑って己の物を指差す李然に、王埜は呆然として問うた。
「……俺に、何をさせようと言うんだ……」
 李然の笑みは深くなる。してやったりと言う笑みだ。
「何、簡単なことだ。船をな、蜀の船を沈めるのに、お前さんの顔と口を借りたいと言う寸法だ」
「船を……」
 王埜の顔が青褪める。
「無理だ、そんなこと無理だ! それだけは、それだけは出来ない!」
 ほほう、と李然の顔が険しくなる。
「じゃあお前さんのコレは、用済みだな。あの女、孫堅様にもケツを狙われてんだ。孫堅様の手管は、そりゃあもう口に出せないほどえげつないって言うぜ?」
 可哀想になぁ、腰も立たなくなるわな、と李然はにやにやと笑いながら立ち上がった。
 王埜の目が、吸い付くように李然に向けられる。
 どさりと皮袋が落ちた。
「お前は良くやってくれたからな。これだけありゃ、何処なりと逃げられるだろうよ。後は手前でなんとかしな。まぁ、あの女のことは綺麗さっぱり忘れることだな」
 李然はすたすたと歩いていく。後ろすら振り向かない。
 王埜は皮袋を握り締め、腹の底から呻き声を上げた。
「……っ、待ってくれ……」
 李然の足は止まらない。
「ま、待ってくれ! 待ってくれぇ!」
 王埜が喚き散らし、ようやく李然は足を止めた。だが、首だけ振り返ったのみで、動こうともしない。
 下穿きを片手で引き上げ、皮袋を抱え込んだ惨めな様で、王埜はよろよろと李然に駆け寄った。
「ほ、本当に、を俺のところに連れて来てくれるんだな?」
 李然は一瞬片眉を引き上げ、何のことかと訝しげに王埜を見返した。王埜が繰り返すと、やっと合点がいったように頷いた。
「……あぁ。そうよ、周瑜様はお約束を守る方だからな。俺からも口添えして、必ずお前のところにを連れてってやろう」
「絶対だな! 絶対、連れてきてくれるんだな!」
 しつけぇ、と李然は苦虫を噛み潰した。
「俺も、あの周瑜様の副官を勤める男。約束は、違えまいぞ」
 がらりと口調を変え、真面目腐って李然は誓った。
 青褪めて震えていた王埜は、きゅっと唇を噛み締め、決意したように顔を上げた。

 罠に掛かり、逃れられぬまでに落ちた獲物を、李然はこっそりと舌なめずりして哂った。


  終

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