趙雲は、呆然としてを見詰めた。
 崖から半ば落ちかけている。周瑜が支えてくれなければ、恐らく落ちて重傷を負うか、下手をすれば死んでいただろう。川面は船が起こす波によって乱れ、崖下にある岩に叩きつけられて飛沫を上げている。
 周瑜に引き上げられ、その腕の中では泣きじゃくっている。
 自ら残ると決めておきながら、何故私の名を呼んだ。
 自ら置いてきたのに、何故私はこんなに憤っている。
 が泣いている、かき抱いているのは趙雲ではなく周瑜、その事実が趙雲の身を焦がす。
 周瑜は趙雲を一瞥し、崖を登っていった。
 嘲りを含んだ眼差しだった。その肩で、はまだ泣いている。
 二人の姿が生い茂る草むらの中に消えても、趙雲はまだ同じ場所を見詰めていた。
 泣いていた。
 が。
 私を呼んで。
 必死に、崖から落ちかけるのにも構わず、あれほど必死に、みっともなく足掻いて。
 私を、呼んだ。
 が、私を、呼んでいた。
「止めろ」
 趙雲は、もどかしげに己の喉環を掴んだ。
 もっと大きな声が出せるはずだ。何故出ない。
 戦慄く指が趙雲の喉をぐいぐいと締め付ける。肺が縮まって、苦痛が全身を駆け巡った。
 それがどうした。だから何だ。
 
 傍らに在るべき者がなく、自身が置き去りにしたという事実の確認が趙雲を戦慄させた。
「……っ止めろ、船を止めろ!! 呉に戻る!!」
 事の成り行きを恐る恐る見ていた船の繰り手は、ぎょっとして趙雲を見る。
「聞こえなかったのか、船を止めろ! 引き返すのだ!」
 豪竜胆の尻を、甲板に力いっぱい叩きつけ、趙雲は吠えた。
 穏やかで清廉な美しい将は、一変して恐ろしい鬼神と化していた。
 脅えて声もない繰り手に、趙雲は業を煮やして足早に駆け寄り、胸倉を掴み上げた。
「止めろというのが、わからぬか!!」
 ひ、と合わない歯の根をがちがちと鳴らしながら、繰り手は目配せで船を止めるよう手下に合図する。
 前を行く船も、趙雲の乗った船の異変に気付き、その速度を緩めていた。
 劉備と尚香が、何事かと船室から出てきた。
 趙雲が船員を締め上げている光景に、劉備は一瞬我が目を疑い凍りついた。
「し、子龍……?」
 声は小さかったが、趙雲は敏く気が付き劉備に目を向けた。
 怒りに歪む目が、一転して悲しげに曇る。
 繰り手を締め上げていた手から力が抜け、腰から落ちた繰り手はあわあわと逃げ出した。
「……殿……!」
 切ない熱の篭った声だった。劉備は、かつて同じような趙雲の声を聞いたことを思い返していた。
 劉備の旗下に加えて欲しいとの趙雲の申し入れを拒否し、何時かまた出会えることがあればと諭したあの時、やはり趙雲は悲しげに劉備を見上げ、劉備を呼んだ。
 泣き出しそうな子供が、必死に己を律して我慢をする様にも似て、劉備は胸を痛めたものだ。
 そして今、まったく同じ趙雲がそこにいる。
 何をそれほどまでに嘆くことがあるのだろうか。
 何がそこまで趙雲を駆り立てているのだろうか。
「子龍、今、そちらに参ろう。しばし待つのだ、良いな!」
 劉備の指示を受け、船は接舷するべく一度止まる。と言っても水の上の話であるから、急には止まれはしない。ただ接舷するだけでも、これだけ大きな船ならばどうしても手間がかかる。
 趙雲は、嘆くように手で顔を覆った。
 ずるずると滑らせて口元を押さえる。
 嗚咽を耐えているようであり、叫び出しそうな衝動を耐えているようでもあった。
 見開かれた目が天を睨めつけ、本当に趙雲は鬼神と化してしまい、これからあの天を堕としに行くのだと言っても疑う者はなかっただろう。
 手にした豪竜胆がぎらりと光を弾く。
 恐ろしい、けれどあまりにも美しい様に誰もが目を奪われた。
 あぁ、この人は、をこんなにも激しく愛しているのか。
 尚香は魅入られたように趙雲を見詰めていた。
 趙雲に愛されたが羨ましく、また哀れだと胸が軋んだ。
 が受け止めるには、この男はあまりにも激し過ぎる。
 普段は何処にその本性を隠し遂せているのだろうと、信じがたい気持ちだった。激情が目に見えぬ炎と化して、全身から吹き出しているかのように錯覚する。

 船がゆっくりと趙雲に近付いていくことに、尚香は脅える。
 今の趙雲の目に映ることが、死にも等しい恐怖に思えた。


  終

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