室に戻って、馬岱は牀の端にがっくりと顔を突っ伏した。
――も、申し訳ありません、殿……!
決して忘れたわけでも、ましてや忘れようと思ったわけでもない。
ただ、馬超への遠慮故に自ら見切りをつけた想いが、何の拍子でか体を突き動かした。
哀れみの気持ちもあったと思う。
家人の少ない屋敷で不自由な思いをするよりは、とは思ったのだが、愛することに万事不器用な従兄は、またもや彼女を翻弄してしまった。
許してくれてはいるようだが、申し訳なくて内心頭が上がらない。
最近は何とあの孫策の出入りを許すようになり、喧嘩しつつも幼馴染のように打ち解けている。馬岱の心境も複雑だが、彼女の心境もかなり複雑だと思われる。何せ、男二人に抱えられて朝を迎えるのだ。複雑でなくて何だと言うのか。
だからこそ、彼女へ視線を向けてしまう。
信頼していた家人が、迂闊なことを申し上げてしまったと平身低頭してきた折にはかなり仰天させられたが、よくよく問いただしてみれば何ということはない。
けれど、心優しい彼女がそれと気付けばこの家を出なければならぬと思い悩むかも知れず、そして馬岱の予想は寸分の狂いなく当たっていた。
うまく言いくるめて納得をさせ、問い詰め過ぎて逆上させることもなく、潮時を見計らって退室した。
単純で、繊細で、か弱く賢い彼女が、その自分を見送ろうとひょこひょこと歩いてきた。
その頼りなさに、何と言うか、来るものがあったのだ。
気がついたら抱き寄せていた。
言い訳でなく、本当に無意識の所作だった。
――あぁ、ですが、貴女には決して言い訳はいたすますまい。私は……寂しいのです。
どんなにかに会いたくとも、探しに行く暇もない。
それこそ出奔同然に出かければ叶うだろうが、自分が離れた時に従兄がどう暴走するかわからない。
馬岱は頭を抱えた。
それこそが言い訳だと自分を詰った。
のことは忘れていない。むしろ恋焦がれていると言っていい。想いは募るばかりだ。
とは言え、想えば想うほど『はここに居ないのだ』という現実に直面し、打ちのめされる。探しに行けばいいと思いつつ、帰ってこられなかったらどうしようと脅える自分が在るのを知る。
彼女は一度帰ろうとして馬超や趙雲に邪魔され、帰ることが叶わなくなって今ここに居る。であれば、馬岱が彼女の世界に取り残されないとも限らないのだ。
あの、白の中の線の世界で、の他には何も頼る者なく生きていく。
無理だ、と思う。否、確信している。
早晩、気が狂ってしまうに違いない。が隣に居て尚、あの光景は馬岱を恐怖させていたのだから。
――殿、私は意気地なしです。
貴女が出向いて来て下されば、そう思うのは罪でしょうか。
馬岱は、虫のいい話だと自分を責めながら、牀の端に腰掛けた。
彼女の様子を見ていると、彼女にはこの世界は馬岱と同じようにあるがままに映っているらしい。ならば、がこちらに来れば世界はきっと彼女と同じようにを受け入れてくれるのではないか。
そこまで考え、馬岱は深々と溜息を吐いた。
何を調子のいい、と眩暈がする思いだった。
にも親があり縁があるに違いない。やはり、それらすべて切ってくれとはとても言えはしない。
優しい方だったから、きっと親御の躾が良かったのだろうし、もまた親御のことを尊敬し愛しているに違いない。友人も多いのではないか。きっと多いに違いない。
諦めてしまおうか。
ふっと、馬岱の脳裏にそんな考えが過ぎった。
諦めてここからの幸せを願っていた方が、よっぽどの為になるような気がした。
――その方が……殿の、幸せなら。
ずくん、と胸が痛んだ。
「……馬岱さま」
はっとして顔を上げる。
この声は、忘れもしない。
「殿!?」
辺りを見回す。の姿は何処にもない。
気のせいかとも思ったが、心はざわめいて落ち着こうとはしなかった。
何を諦めようというのか、と馬岱は自嘲した。
こんなにも自分はを想っていて、こんなにも自分は未練たらしいのだ。
駄目だ、諦められない。諦められるはずが、ない。
「申し訳ありません殿……私は、駄目です。私は貴女を優しい親御殿の元から攫ってでも、貴女にそばに居て欲しい。貴女を諦められません……未練なのです」
――まだ、待っていて下さいますか。まだ、私を想って下さっていますか。
「矢張り私は、貴女を娶りたいと希います……いつか、必ず迎えに参ります。それまでどうか、お待ちになっていて下さい。誰の元へも、行かないで下さい……私の元、以外には」
馬岱の告白が途切れた後は、室の中はただしんとして物音一つしない。
滑稽な己の姿に、馬岱は一人赤面した。
顔がやたらと熱く、心を静めようと馬岱は窓を開け、ふと目を遣ると設えられた小さな池に月が
煌々と映っているのが見えた。
ゆらり、と揺らめいた水面に、唐突に愛しい想い人の姿が映る。
はっとして凝視すると、は馬岱を潤んだ目で見詰め、ほろりと涙を一滴零した。
『待ってます』
再び水面はゆらりと揺らぎ、馬岱が留める間すら与えず想い人の姿は掻き消えた。
息をするのも忘れ、馬岱はじっと水面を見詰める。
「……あぁ」
漏れたのは、感嘆の呻き声ただ一つきりだった。
馬岱の目も、と同じように熱く潤む。
は涙を零していたけれど、その口元には微笑が浮かび、目は馬岱を想う眼差しに熱を帯びていた。
疑いようもない。は馬岱に恋焦がれ、今も尚待っていてくれている。愛おしさに、胸の奥底から焼きついてしまいそうだった。
――待っていて下さい。
見上げれば、月が明るく夜空を照らしてくれている。
お前が私の惑う胸の内に同情し、あの方との逢瀬を一瞬とは言え叶えてくれたのか。
もし本当にそうなら、感謝してもしたりない。菓子の一つも奉納したい気分になった。
もう惑うまい、と馬岱は微笑んだ。
私は、あの方が、こんなにも愛しい。
しばらく月を見上げていた馬岱は、そっと窓辺から離れ、牀に向かった。
後には月が、ただ青い光を投げかけていた。
終