趙雲とて恥じることはある。
 自分の中の昂ぶる感情に理性を流され、事もあろうに帰還の船の足を止めてしまった。劉備は常の如く微笑んで許容してくれたが、本来であれば厳罰は免れない。
 誰も罰を下さないから、というわけではないが、趙雲はに会うのを意識的に控えようと決めた。
 帰還を祝う宴の帰り、これでしばらく会わないのだからとの側に行った。まさか、馬超のところへ送ってくれと請われるとは思わなかった。
 諸葛亮の依頼でもあったので、趙雲は上手く言い逃れることも断ることも出来なくなって、渋々を恋敵の下に送り届ける羽目になった。趙雲を見た瞬間、の傍らに居た姜維が顔を輝かせたので、何か嫌な予感はしたのだ。
 に関わると、すべての調子が狂う。
 今まで組み敷いてきたどんな女にもないものが、の中には備わっているかのようだ。それがどんなものかは測りようがなかったが、趙雲を惹きつけて止まないのは確かだった。
 子孫を残すことにも、家と言う安らぎを得ることにも興味はなかった。
 ただ己の槍を託す主を、この槍で打ち倒すべき敵のみを必要としていた。
 だから自分が恋などすることになろうとは、思ってもみなかったのだ。
 の体だけが目当てだと言い切れれば、どれだけ楽だったろう。
 そう言ってもあながち間違いとは言い切れないほど、の体は極上だった。それは確かだ。抱けば抱くほど良い音色を奏でた。並みの男なら、夢中になるだろう。そういう淫猥な体だった。
 だが、それだけではない何かがある。
 初めて制したのが己だと言う自負からか。
 そういう女は過去にも居たが、かと言って趙雲の目を曇らせることなどなかった。
 人にくれてやるのが惜しくなったからか。
 けれど一度たりとてが己の物となったという確信を持ったことなどなかった。
 に原因があるのではなく、趙雲の方に原因があるのかもしれない。
 あるいは両方か。
 趙雲は、それを恋と認めざるを得なかった。
 初めて感じた恋情に、趙雲は恐れることはなかった。ただ戸惑った。
 得体の知れない感情の渦は、時にを傷つけ暴き引き裂いた。
 憐憫の情を感じたことはほとんどない。
 そうして当然だと納得しかしていない。
 己ばかりが振り回されているのだから、も少しは振り回されればいいのだ。
 否、己だけがを振り回していい権利があるのだと思った。
 一番に大切なものは、長年請い求めた主たる劉備ただ一人。
 は、捨てられる。
 捨てられるが故に捨てられない。
 矛盾した感情が趙雲を焼く。
 毎夜の如く焦思していることなど、は知りもすまい。
 閉じ込めて捕らえて束縛したいと願っていることなど、ちらと思い浮かべもしないだろう。
 もう一人の趙雲が、そんな趙雲を見て危ういと思っている。
 思っているだけだ。留めようとも思わない。
 自分は本来、そんな薄情な男なのだ。
 要ると思えばなんとしてでも拾い上げもする。要らないと思えば見向きもしない。
 欲がないと褒め称える者もいるが、決してそうではない。
 必要な物が、本当に少ないのだ。だから、欲深くなく見えるのだろう。
 は必要だ。
 もう隠すことにも飽きていた。は、趙雲にとって必要不可欠なのだ。
 最も得たいと願うことがを手に入れる為の条件であるならば、馬超も姜維も趙雲の相手にもならない。
 両人ともを案じる余裕がある。趙雲には、それがない。案じる余裕など微塵も持てぬほど、を得たいと希っている。
 もう一人の自分が、危ういと思って見ている。
 見ているだけだ。だが、見ている。
 そこまで考え、あぁ、と気がついた。
 何をどうしても要る物は要る物として手に入れるのだから、当然もう一人の自分もそのことを知っているはずだ。だから見ているだけなのだ。
 見ていることが最大の制止になると、もう一人の自分は知っているのだ。

 堂々巡りの妄想からふと我に返ると、荒々しい足取りが聞こえてきた。
 柱の影に身を窶すと、馬超は辺りの気配になど気遣えもせず、まるで敗戦で追われる将の如き相貌で足早に立ち去っていく。苦悩と呼ぶに相応しい表情に、に何事かあったかと危惧する。
 が、の危急に馬超が立ち会ったとすれば、その場から尻尾を巻いて逃げることなど有り得ない。
 馬超が向かった先は馬超の執務室であり、何事かあったのは間違いなくとも、の身が危ういとは考えられない。
 では、何があったというのだ。
 趙雲が思索に耽っていると、再び足音が聞こえてくる。
 今度は孫策だった。誰かを探すような素振りに、ぴんと来るものがある。
 この二人が絡む以上、の件以外には考えられない。
 ならば、趙雲が絡むのは必然と言うべきであった。
 もっとも、駄目だと言おうが絡む心算だった。事の話であれば、自分が蚊帳の外に居るなど考えられない。
 相手が、例え孫策であろうともだ、どう思おうが関係ないと思った。
 は要るもので、要る以上は趙雲の激情を留めるものは何もない。
 謹慎も今日限り。
 そう考え、ふと思った。
 私らしくもないな。

 に関わると、すべての調子が狂う。


  終

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