広間では、宴が続いているに違いない。
 灯りも着けない寝室で、月英は一人牀に腰掛けていた。
 俯き加減に傾けた顔は暗く沈み、月光差し込む薄闇よりもよほど陰鬱な印象を与える。
 微動だにしない眼は何を見るわけでなく、虚空の一点に据えられていた。
 衣擦れの音が室の空気を揺らめかしても、月英が顔を上げることはなかった。
「お判りだったのですか、今日のこの結末を」
 独り言のように突然言葉が紡がれる。
「だから私に勝てと、手段を問わず勝てとご命令なさったのですか、孔明様」
 月光が斜めに差し込むのを遮るようにして、諸葛亮の姿がぼんやりと浮かび上がった。浮かび上がらせたというより、月光がその姿をこの世ならざる存在のように、薄く薄く霞めてしまっているようだった。
 微動だにしない月英の眼から、透明な雫がはらりと落ちた。
「何故泣くのですか」
「私が愚かだからです。私が勝てば、彼女も傷つかずに済んだでしょうに」
 更に一滴、白い頬の上を滑り落ちその手に落ちるのを諸葛亮は見詰めていた。

 諸葛亮の元に孫策がやってきて、内密の話を切り出してきたのはつい先日のことだ。
 趙雲、馬超を巻き込んで、を蜀に残留させるはずだったが失敗したという。失敗の理由は趙雲の裏切りだそうだ。
 さもありなん、と諸葛亮の方寸にはさざ波一つ立つこともない。
 孫策がを置いていこうとするのは意外に思えるかもしれないが、男気の強い孫策だから、そんな風に動くのもおかしくはなかった。
 そして孫策は、やはりを置いていくつもりなのだと諸葛亮に話した。
 一度露見したからこそ、はもう置いていかれないに違いないと思うだろう。そう見込んでのことだそうだ。
「何故、私に?」
「お前に手ぇ回しとかなきゃ、後でどうでも引っくり返すだろうよ」
 否定はしない。
 孫堅がを欲している以上、有益な手駒は使わなければ損だ。
「それで、私に何をしろと」
 孫策が口篭る。何を何と話していいか考えているようだ。
 その顔が曇る。
「お前、あいつが寝ながら歩いてんの、見たことあるか」
 ない。
 無言で首を振る諸葛亮に、孫策は傷ついたような目を向ける。
「目は開いてんだ、けどよ、何にも見てねぇんだ」
 俺を見ない。
 そう言って孫策は再び口を閉ざした。
 生まれた時から孫堅の長子として健やかに育ってきたこの男には、眼中に置かれないことが余程辛いことのようだ。生まれてこの方、人に省みられなかったこと等ないに違いない。
 私は、ある。
 諸葛亮の脳裏には、村を焼かれ逃げ惑う人々の姿が無残なほど鮮明に焼き付けられている。
 武人が馬を駆り、敗残兵を追い回し、その煽りで村人達も蹄に跳ねられ、薙ぎ払われて傷つけられていくのだ。
 武人達には村人は路傍の石ほどの価値もなく、村人達は誰も彼もが自分を守ることに必死で、だから諸葛亮ら幼い子供達を気に掛け庇うものなど一人も居なかった。
 けれど、それが当たり前だと思っていた。
 この孤高が私を強くすると、幼心に頑なに思ったものだ。
 そしてそれは間違いではなかった。
「……ですが、をお望みなのは他ならぬ孫堅殿。同盟国の主たるお方の懇願を、無下にするわけには参りません」
 孫策の目が、険しく諸葛亮に向けられる。
 言いたいことを察したのは、さすがは君主として次代を担う者だと褒められる。
 それで。
 貴方は、何を代償としていただけるのですか。
「……の代わりに、俺が蜀との繋ぎになる。少なくとも……が居る限りは、俺は誰にも譲らねぇ」
 正直な言葉だ。信頼に値しようが、諸葛亮を満足させるには足りなかった。
「何を以ってその言葉を証し立てていただけましょうか」
 孫策の目が揺れた。
 証拠を出せと言われて戸惑っているのだろう。
 わずかな沈黙の後、孫策は諸葛亮を見据えた。
「証なんかねぇ、けど、俺自身が証だ。孫伯符の名に賭けて、俺は約定は違えねぇ」
「……良いでしょう」
 誇り高い男だからこそ、名を賭けると言った言葉が最上の証となる。
 諸葛亮は十二分に満足し、しかしもったいぶって頷いた。

 武道大会開催の報が届いたのはすぐ後だ。
 馬鹿なことをと思ったが、気が変わった。孫策に出場するよう竹簡に書き付け送らせる。理由は書かない。その方が自然だからとだけ書いた。
 同時に、月英帰還の報も届けられた。これなら大会にもぎりぎり間に合うだろう。早馬を手配し、理由と緊急で戻るように命じた書簡を送った。
 手駒は充分揃ったといえる。
 孫策には頷いたが、それも諸葛亮を納得させる証し立てが出来たことへの感嘆の意を表しただけだ。申し出には多少魅力を感じたが、を呉にやることの方がよほど有意義かつ効果が高いのは目に見えている。
 どうするかと策を練った。
 孫策をできるだけ怒らせず約定を破棄し、上手くを呉にやる方法を、計算違いが起こることを含めて考えなければならない。
 さして手間でもなかった。

 清い涙を零す月英が、愛おしくてたまらない。
「いいのですよ。も、貴方を責めますまい」
「ですが」
 月英に手段を問わず勝てと言うのも酷だと判っていた。判っていながら命じたのは、月英の忠義を試そうとしてしまったからかもしれない。いや、ひょっとしたら、この忠実な妻を嬲ってみたいという欲望の表れかもしれなかった。
 宴の夜、趙雲に手を回しておいたので結局は目論見どおりになった。諸葛亮が月英を責める理由はない。
 けれど、こうして手駒扱いされ、おざなりに慰めの言葉を掛けられる月英は怒り狂ってもいいはずだ。妻だからと泣き寝入りする義理はない。
「貴方こそ、私を責めないでいいのですか」
 誘うように言葉を掛ける。
 月英は何故か苦笑を浮かべた。
「いいも悪いもありません。孔明様を責めて、何になりましょうか」
 口ではそう言いながらも、月英は心情を密かに言葉に直していた。
 それも貴方の策だと言うことを、私は知っておりますよ。二人でいる時だけは、むざむざ貴方の策に乗せられずともお許し下さいますね?
 孔明の心眼にはすべてお見通しなのかもしれない。だが、それでいいと月英は思う。それを承知で尚、自分は諸葛孔明の妻でありたいと願うからだ。
 諸葛亮の手が月英の涙を拭い、隣り合って腰掛けた後柔らかく抱き寄せる。
 何もせずとも通じ合うのが夫婦だなどと、謀りも甚だしいと月英は常々思っている。分かり合えないと判っているから、夫婦は互いを認め理解できるのだ。
 月英を理解できるのは諸葛孔明ただ一人である。
 諸葛孔明もそうであればいい、と月英は願った。

 抱擁が解かれ、諸葛亮はおもむろに立ち上がる。
「どちらへ?」
 諸葛亮の唇に微笑が浮かぶ。
「そろそろ、孫策殿が私を訪ねておいでになるはずです」
 先にお休みなさいと告げ、諸葛亮は室を出て行った。
 月英は、扉に遮られても尚、その先の廊下を行く諸葛亮の背中を見送るのだった。

  終

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