挨拶に出向いた司馬懿を、曹丕は一瞥した。
 出兵となるとほぼ必ずと言っていい程に、司馬懿の軍を宛がわれる。
 最早通例と化していた同行の挨拶に飽いたものか、形骸化した挨拶に皮肉でも感じたものか。
 両方かもしれなかったが、司馬懿もそれを見極めようとは思わない。
 無意味な思考に時を費やす程、暇な立場でもなかった。
「……呉の連中の様子見に、私を使うか」
 ぼそりと吐き出す言葉は、取り様によっては君主曹操への批判と詰られかねない。
 もっとも、詰ったところで動じるような曹丕でなく、仮に告げ口されたからと言って一々取り合うような曹操でもない。
 そういった瑣末なことに関わらないのが、この魏の、親子の美点とも言えた。
「曹操様にも、何かお考えあってのことでしょう」
 考えられる限り、ざっと挙げても複数の理由が思い浮かぶが、口に出しても詮ない話である。
 司馬懿の思考はあくまで司馬懿のものに過ぎず、曹操のものでは有り得ない。
 どれだけ確信を抱こうと的中して居ようと、予想は予想であって妄想と差異ないと侮蔑するのが、曹丕という人であった。
 それと見抜いている司馬懿だからこそ、口を閉ざす。
 曹丕と司馬懿は、そういった意味では魏における最高の組み合わせの一例だった。
 殊勝に黙す司馬懿を、曹丕は口の端を曲げて笑い掛ける。
 否、哂い掛ける。
 好意とは決して思われぬ笑みではあったが、不思議なことに好意故の笑みなのだ。
 懇々と説かれた訳ではないが、少なくとも司馬懿はそう解している。
 冷徹を絵に描いたような曹丕であるからこそ、感情を晒す相手は好意の対象に他ならない。
 難しい男だった。
「司馬懿。父は恐らく、私に狩りの成果を期待して居られるのだ」
「……狩り」
 思い掛けない言葉に、司馬懿が真っ先に思い浮かべたのは『虎狩り』、即ち孫家の誰かを討ち取ることだった。
 しかし、そうだとするにはあまりに手勢が足りな過ぎる。
 先陣を切るのは曹丕軍であり司馬懿軍だが、他に手勢はない。
 後から張遼が参じる旨は聞いていたが、それだけだ。
 その勢いを例えるなら正に破竹の孫家に対し、頭数としても駒が足りない。
 張遼を以てしても、戦力の差を埋めるには厳しいと言えた。
 苦悶が顔に出たものか、曹丕の哂いは一層乾き出す。
「そうではない、司馬懿」
 ゆるりと腕を伸ばし、まま曲げる。
 頬杖をつく緩さで寛ぐ曹丕は、珍しく上機嫌に見えた。
「私に期されている狩りの成果は、鳥だ」
「鳥……と」
 未だ思い至らぬ司馬懿を、曹丕は面白げに見詰める。
 うろたえる人を見るのが好きなのだ。
 そうしているだけ、冷静な自分を認めることが出来るからだ。
 激することを恐れているような男だった。
 黙したままの司馬懿に満足したか、曹丕は頬杖を解いた。
「鳥だ。彼の地には、今、蜀から渡ったという珍しい鳥が居るらしい」
 蜀と聞いて、初めて、司馬懿は全てを察した。
 思い当らなかったのではない。思い当たらぬよう封じていた人物が、唐突に司馬懿の脳裏に蘇っていた。
 忌まわしい記憶だったが故に、鋭利な司馬懿の知を鈍らせていたのだ。
 そのこともまた、司馬懿の憎悪を膨れ上がらせる原因となる。
 炎が揺らぐような司馬懿の表情の変化に、曹丕は一瞬目を瞬かせた。
 が、興味は湧かなかったらしく、すぐに元の話に戻る。
「本来であれば、父自身が行きたかったのだろう。だが、父も忙殺される身。望んだとて、たかが鳥一羽の為に敵陣に赴くなど、戯事は許されまい」
「故に、狩りですか」
 それもまた、いささか短絡に過ぎるように思われる。
「父が行くのであれば、鳥の囀りに耳を傾けるのみで済んだやも知れぬ」
 だが、赴くのは曹操でなく、そして託されたのは曹丕であり、ならば期されるのは囀りを耳にすることではなかろう。
 表向きは呉の情勢を探ることであり、秘する目的はただ一羽の鳥の囀りを聞き届けることであったとしても、曹操が真に曹丕に期するのは、その鳥を己が手の内に納めることに他なるまい。
「戦をするより、尚難題だとは思わんか」
 言葉とは裏腹に愉快そうに哂う曹丕に、司馬懿は苦く笑うのが精一杯だった。
 かつて傍らに在った、そして今尚忘れ難い女と、奇しくも同じ名を持つ『鳥』を司馬懿がどう思っているのか、曹丕は知るまい。
 否、司馬懿自身、いったいあれをどう思っているのか確と結論付けるのは難しかった。
 複雑に歪んだ思いであることだけは、これだけは間違いない。
――
 胸に浮かぶ名がどちらを呼んだものなのか、それすらも司馬懿には分からなくなっていた。

  終

Spread INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →