陸遜らが立ち去ってすぐ、大喬は震える足を無理やり制して立ち上がった。
「おねぇちゃん、駄目だよ!」
 小喬が慌てて止めに掛かるが、逆に大喬に止められてしまう。
「聞いて、小喬……陸遜様達は、大姐が敵の手に落ちたと思っているみたいだったわよね?」
「みたいって言うか」
 まま、そのものを言っていたと思う。
 であればこそ、陸遜はあんなにも血相を変えて居たのだろう。
「そうよね? ……でも、もし間違っていたら、陸遜様も大姐も恥を掻いてしまうことになるわ。そうでしょう?」
「そりゃあ……そうかもしれないけど……」
 そんなことが、あるものだろうか。
 大喬も小喬も、誰かにを迎えに行かせた覚えなど、ない。
 主の命なく勝手に動くことはあるかもしれないが、それは本当によっぽどの場合だ。
 今回のように、客人に対して戻れとけしかけるだけの為に主の名を出すなど、普通ではとても考えられない。
 そうでなければいいという気持ちは分かるが、甘く見ていい事態とは到底思えなかった。
「それに、もし……陸遜様達の仰ることが正しいとして……全部が全部、嘘ではないかもしれないとは思わない?」
「えぇ?」
 さっぱり分からなくて、小喬は悲鳴じみた声を上げる。
 大喬は、通じないもどかしさに爪を噛む。
「だから……だから、その人は、見付かったらまずいのでしょう? そうしたら、嘘はなるべく吐かない方がいい筈よ。だって、それが嘘だと知られたら、すぐ捕まってしまうのだし……だから……」
「だから、嘘を吐くのは必要最低限に留めるように心掛ける筈であって、少なくとも殿にわずかなりとも疑われるような嘘など、まず吐くまい……そんなところでしょうか」
 二人が弾かれるようにして振り向いた先に、馬岱が立っていた。
「どうして」
 知られてはならない人に知られてしまった。
 青ざめる大喬を落ち着かせるかのように、馬岱はふわりと微笑み掛ける。
「こんな時に、呉がどうの、蜀がどうのと言っている場合でもありますまい。勘違いなら良し、そうでない時は、一刻を争うというもの。願わくば、勘違いであって欲しいものですが」
 馬岱は深く息を吸い込み、細くゆっくりと吐き出した。
 二喬も思わず釣られ、馬岱に倣う。
「……お願いがございます。まず、お二方にはご自分の家人、女官のみでよろしいでしょう、至急に所在をお確かめいただきたい。それから、外部は結構、この近くに人気のない場所がありましたら、片っ端から案内して下さいますよう。事となれば、この馬岱に脅されたと仰っていただいても結構。お願い申し上げます」
 口調は忙しくとも明瞭な言葉に、二喬が聞き違えることもない。
 二人共に深く頷き、互いに顔を見合わせた。
「小喬、女官の方はお願い」
「うん、任しといて! おねぇちゃんは、崖の方からぐるっと回ってみて!」
 それだけの遣り取りで、ぱっと二手に分かれる。
 深い信頼で結ばれた、姉妹ならではの呼吸と言えた。
 先程までのやつれ振りが嘘のように、大喬はしゃんとして駆け出した。
 馬岱がその隣に並ぶ。
「どうして、女官のみ、と? それから、どうして、外部でなく?」
 駆けながら、呼吸に合わせて途切れ途切れに訊ね来る大喬に、馬岱もまた呼吸を乱さぬよう、小刻みに刻んで解を返す。
殿が、騒ぐことなく、疑うことなく、相手に着いて行ったと言うならば、それは、その女官に見覚えがあったから、でしょう。それに、この騒ぎの中、皆と違う動きをする者は、それだけで目立ちます」
 要するに、に見覚えのある『女官』だからこそ、は着いて行ったのだろうと馬岱は見て居た。
 兵が女官の格好をしていたりすれば、何故いつもと違う格好をしているのかと訝しむ筈だ。
 の様子におかしなところが微塵もなかったからこそ、短気な錦帆賊も引き止めなかったに違いない。いい加減、その程度は警戒していて欲しいという希望でもある。
 また、物見高い呉の中で、闘技会で盛り上がっている真っ最中に国の外に出ようとする者が在れば、それだけで目立つに違いないのだ。闘技会に後ろ髪引かれ、外への警戒より内の昂揚に注意が向くのが人情だからだ。
 国境の警備としては失格だが、現時点で呉の国境から抜け出すのは、侵入するより難しい。
 なればこその内部探索である。
「馬岱様は、どうして? それに、いったいいつから、いらしたんですか?」
「従兄の、試合が控えて、居りました故」
 馬超の為にを呼びに来たと言う馬岱は、後の質問には遂に答えなかった。

 その頃、陸遜達は早くも錦帆賊の男達と合流していた。
 何のことはない、心配半分待ち切れなさ半分で、錦帆賊の男達から出迎えに来ていたのである。
「兄ぃ、兄ぃ、駄目だったんですかい」
「うるせぇ、黙れ、クズ野郎ども。俺の話を聞け」
 静かに、淡々と、それで居て酷い口の聞きようだ。
 だが、錦帆賊の男達は気にした様子もなく、へい、とかしこまって口を噤んだ。
「姐さんがさらわれた。大喬殿の女官ってのは、ありゃあ偽物だ」
「なっ!!」
 喚こうとした近場の男を、副頭目は躊躇いなく殴り付ける。
 物音に振り向いた者も何人か居たが、相手が錦帆賊と分かるや、さっと目を逸らした。
 その様に、陸遜は苦笑する。
 良かれ悪しかれだ。
 陸遜の苦い顔を気にもせず、副頭目の話は進む。
「黙ってろってんだ、この屑が。いいか、お前ぇらの頭が足りねぇせいで姐さんが危ねぇ目に遭おうとしてんだ。死ね。死んで、詫びて来い」
 さすがに言い過ぎだと陸遜が口を挟もうとするのだが、錦帆賊の男達は口を揃えて応と言う。
 陸遜の理解を超えた世界だった。
 そんな陸遜に、いきなり視線が集中する。
「いいか、お前ぇら。これから、この軍師殿の手足になって働け。死ねと言われたら死んでこい。そうでなけりゃ、姐さんの命がねぇと思え」
 これまた、応と帰って来る。
 無茶苦茶だ。
 あんまり無茶苦茶過ぎて、逆に陸遜の頭は冷えた。
「……有難うございます。では、皆さんの命、使わせていただきます。まず、二十数える間に、例の女官の顔や体の特徴を、この場で詳しく上げて下さい」
 言い終わるなり、陸遜は数を数え出す。
 男達は慌てふためいて、やれ年の頃は三、四十だったの目は細くて切れ長だの、首筋にほくろがあったのと挙げ出した。
「二十……はい、そこまでで結構です」
 陸遜は、数を数えて居たにも関わらず、男達が述べた女官の特徴を一つ残らず整理して挙げた。
 それから、足の速い者を三人ばかり指名して、孫堅、周瑜、呂蒙へ伝達を依頼する。
 残りの者には、城までの道を探索するように命じた。
「国境では、ないんで」
 副頭目が驚き確認するのへ、陸遜は深く頷いて見せる。
「今、国境に配置された兵の関心はむしろ国の中に向かっていることでしょう。そんな中、外へ抜け出そうとする者は却って怪しまれます」
 馬岱が導き出した答えとほぼ同じ答えを返し、陸遜は悩ましげに眉を顰めた。
「……私の考えが甘かったのです。殿を外に連れ出すより、もっと容易な方法があることを失念していました」
「そりゃ……」
 副頭目が息を呑む。
 命がないとは言ったが、それはあくまで言葉のあやだ。
 相手がを殺す筈がないと思い込んでいたことに、副頭目も遅まきながらにようやく気付いた。
 臥龍の玉、孫家の寵愛する歌い手と、これだけの才を殺す訳がないと目が曇っていたのだ。
 陸遜は再び頷く。
「今は、外に連れ出すより手薄になった国の中に連れ込む方が容易でしょう。目的は定かではありませんが、とにかく、一刻も早く殿をお救いせねば」
 行き来が絶えない街や民家は、想定から消した。
 は、何度か街に降りて居る。大会の景品とされているがうろついていれば、とてもではないが目立たぬとは言い難い。
 ならば、人気のない城までの道、それも本道ではなく裏道の幾つかが怪しまれた。
「女官はともかく、殿の足では早々遠くには連れ出せません。会場内では人目があり過ぎますからね……外に連れ出すのみならず、急かして怪しまれることもまた、避けたいところでしょう。ならば、未だ、希望はあります!」
 陸遜の言葉に、男達もまた力強く頷いた。
 命じられるまでもなく、一斉に散会する。
「……私達は、この場所が見える崖沿いの道を、行きましょう!」
 きりきりと唇を噛み、瞼を固く閉じて居た陸遜は、ぱっと目を開け控えて居た副頭目に命じる。
 同時に駆け出した陸遜の後を、副頭目は待ち構えて居たように追った。
「相手からすれば、こちらの動きが何より気になる筈。ならば、遠目でもこの場所が目に入る位置を選ぶでしょう。だとすれば、可能性が高いのは崖沿いの道です!」
 問うまでもなく陸遜は語る。
 焦る気持ちを鎮めたいのかもしれない。
 あるいは、口に出すことで、己の予想の正しさと矛盾のなさを証したいのかもしれなかった。
「間違いありやせん」
 副頭目に、何らの確信がある訳ではない。
 けれど、陸遜の言葉に疑いの余地はないように思った。
 きっとそうに違いない。
 信じることで報われるなら、例え手足が千切られようと信じ抜く覚悟が、副頭目にはある。
 陸遜は、それ以上の言葉を紡ぐことはなかった。
 ただ、追ってくる副頭目を振り切らん勢いで足を速めた。
 を、助けてみせる。
 大喬に約定した言葉を果たす為、そして自分自身の為、ひたすら駆けて駆けて駆け抜いて居た。

  終

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