趙雲が疲れた顔をしてやって来たのを、春花は驚きを押し隠して出迎えた。
 己に厳しい趙雲が、屋敷ではともかく人前では整然としているよう心掛けていることを、短いながらもお仕えしていた経験のある春花は、よくよく知り抜いていた。
 取り繕えぬ程に疲れているのだろう。
 将として相応しい力ある人だけに、ただ事ではないと思わせる。
「如何なさいましたか、趙雲様」
 春花が声を掛けると、馬上の趙雲がふっと顔を上げる。
「……どうした、春花。私に、何か用か」
 これは重症だ。
 主と関わりの深い、むしろもっともっと深くなって欲しい人だけに、春花は趙雲の身を案じた。
「どうぞ、お休みになって行って下さいませ。今は家人の数も少なく、ご不便やもしれませんが……」
 趙雲も、ようやく自分の屋敷に戻ったのではないと気付いたらしい。
 はっとして、少しばかり恥ずかしそうに頬を染めた。
 顔立ちも整った凛々しい武将の、意外や少年めいた様子に、春花も思わず頬を赤らめる。
 誤魔化すように奥に向かい、来客を出迎えるよう申し付けた。

 馬を預け、屋敷の奥に進む。
 迷うことなくの室に案内する春花に、趙雲は戸惑いの色を隠せない。
 とは、誰に隠すところもなく理無い仲ではあったが、それでも主の不在中にずかずか踏み入れていいとは思えなかった。
 おかしなところにこだわる趙雲に気付いてか、春花はくすくすと笑い出す。
「……何だ、春花。何を笑う?」
「いいえ。とてもお疲れのご様子なのに、細かいところに気遣われるのだなぁと思って」
 それから少し恥ずかしそうに、家人が本当に居なくて、手入れが行き届かないのだと打ち明けた。
 客間には、現在磨かれるのを待つ食器や壺類が鎮座ましましている。
 不在の折、訊ね来る者など居るまいと、すっかり油断していたのだ。
「ならば、私は」
 元々無意識に馬首をこちらに向けてしまっただけのことで、無理に上がらなくても良かった。
 今更ながらに戻ろうとする趙雲を、春花は慌てて押し留めた。
「いけません、様からお留守を預かっているのは、この春花です! 趙雲様が御来訪下さったのをそのままお帰ししたとあっては、春花の不始末になります!」
 せめてお茶の一杯なりと粘る春花に根負けし、趙雲は帰路に向けた足を戻す。
 すぐに馬に乗るのが、辛かったこともある。
 常ならば、そんな自分を叱咤してすぐにも帰るのだが、どうしてもそんな気になれない。
 疲労が、趙雲の矜持を侵食しつつある。
 これというのも、諸葛亮、もとい馬超のせいだった。
 馬超が呉に行った後、奴が担当していた職務が何故かすべて趙雲に回された。
 それだけならまだしも、更におかしいのが、馬超に同行した馬岱の分の執務までもが趙雲に押し付けられていたことだ。
 貴方がやるべき執務です、とは、諸葛亮の言だったが、その理由がどうしても分かりかねる。
 雑に考えても三倍だ。
 けれど、諸葛亮はただただ貴方がやるべきと繰り返すのみで、それで趙雲も言い返せなかった。
 逆に、自分がやるべき執務でない理由を見出せず、断れなかったのだった。
 降って沸いたような膨大な職務に追われ、すぐに寝る暇もない状態に追い込まれる。
 そんな折、春花のやや高い声で喚かれるのが酷く酷で、それで逆らえなかったこともあった。
 本当に、疲れていたのだ。
 の室に趙雲を押し込むと、春花はぱたぱたと軽やかな足音を残して駆け去って行った。
 趙雲が疲れていることを覚って、気を利かせてくれたのかもしれない。
 一人になると、思った以上に疲労が溜まっているようだった。
 体が酷く重く、眉間の奥深くに疼痛を感じる。
 四六時中武官文官に囲まれて、会議だ練兵だと諸事をこなしていたから、一人になるのは本当に久し振りだった。
 夢の中でまで執務をこなしていたもので、寝ても眠った気がしなかったのだ。
 主のない室は、しかし趙雲にも馴染み深く、ある意味自室に居るより余程気が緩んだ。
 遠慮しているのが馬鹿馬鹿しく思え、気楽に椅子に腰掛けようとした趙雲は、ふと興をそそられ室の奥に進んだ。

「……趙雲様、お待たせいたしました……」
 声を掛けても返事のないことに、春花は首を傾げた。
 悪戯をするような人でなし、どうしたのだろうともう一度声を掛けてはみたが、やはり返事はない。
 恐る恐る室に踏み入ると、どうしたことか趙雲の姿が見えなかった。
 もしかして帰ってしまったのだろうかと考えてみるも、それなら趙雲から馬を任された者より、一言なりとないのはおかしい。
 携えて来た茶器を卓に置き、春花は何の気なしに室の奥に進む。
「…………」
 声を上げてしまいそうになる自分の口を、咄嗟に塞ぐ。
 室の奥にある牀の上には、趙雲が小さな寝息を立ててぐっすり寝込んでいた。
 抱え込むように握り締めた上掛けに顔を沈め、実に心地良さそうな寝顔をさらしている。
 何度も干して日の匂いが移り込み、その独特の香に眠気を誘われたものか。
 しかし、春花はそうは思わなかった。
 その上掛けは、の使っていたものだ。
 押し戴くように、決してきつくは握らずに居る趙雲の様に、春花は趙雲の本心を垣間見たような気にさえなる。
 趙雲が、もう少し素直に気持ちを表してくれたなら、あるいは、と妄想した。
 そうしたら、ももう少し素直に、意地を張らずに趙雲に甘えてくれるかもしれないのに。
「……
 ぽつりと呟かれた声に、春花はぎょっとして辺りを見回す。
 日の光が差し込んだ部分が切り取られたようになって、細かな塵がきらきらと瞬いている。
 静寂に満ちた室内に、誰の気配もある訳でない。
 そっと趙雲を伺う。
 変わらず安らかな寝息を立てている趙雲に、春花は、ほっとしたような、がっかりしたような、何とも言い難い複雑な気持ちだ。
 茶器をそのままに、春花は忍び足で室を出た。
 の夢を見ているらしい趙雲を、しばらくの間だけでもこのままにしておきたかったのだ。
――お休みなさいませ、趙雲様。良い夢を。
 細心の注意を払った甲斐あって、扉は、音もなく閉まった。



 同時刻、は陸遜と共に姿を消した。
 そのことを、趙雲は未だ知らずに居る。

  終

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