彼女は村でも評判の美人だった。活発で、明るくて、頭も良く武芸も達者だった。
 本当に、どうしてこんな人がいるんだろう、と思うくらいだった。
 対して私は、多少学はあったけれど、彼女とは比べるべくもない。私がどんなに頑張って学を積んでも、彼女はちょっと書簡を読んだだけで、私が五日掛けてどうにか覚えた物を諳んじてしまう。
 唯一、私が彼女に勝てるとすれば、家庭が円満で、少しだけ裕福だということくらいだ。それは、たまたま運が良かったというだけで、私の実力でもなんでもない。
 けれど、彼女は私をうらやましいと言った。
は、いいわね」
 彼女がそう言うのを、私はただ困惑して、表面的には苦笑しながら首を傾げ、黙って聞くぐらいしか出来なかった。
 私が黙っていると、彼女は何事もなかったように話を続ける。
「私、いつか必ず出世して、将軍か軍師になってみせるわ」
 そうして、自分の輝かしい未来を夢想して、色々な話をしてくれた。
 女の身で将軍や軍師を目指すなど、愚かしいとさえ思えた。けれど、彼女の才は、この国ならば受け入れられるようにも思った。
 魏。魏王たる曹操様が、天子を戴いて治める国。才をのみ求められるこの国ならば、彼女の夢はあながち実現不可能ではないのだ。
 彼女の話は、大概こういう話で終わっていた。
「ああ、でも、私の家は貧しいから、最初はろくな仕官先がないに違いないわ。私、最初はどんなに辛くっても平気だと思うけど……すぐに出世してみせるわ……けど、いい仕官先がなかったら、お話にならないわよね。もし、貴方が先に仕官することがあったら、私を推挙してもらえない? 絶対貴女に恥はかかせない、ううん、貴女が私を推挙したことを、自慢できるようになってみせるから」
 私が彼女の言うところの『いい仕官先』に仕官できる確立は、確かにそれなり高かった。私の父が、曹操様の軍師の一人だったからだ。
 とは言え、彼女の家だってそれほど身分が低いというわけではない。歴史書の編纂に携わる文官なのだから、それなり出世している家柄と言えると思う。けれど、彼女にとっては疎ましいだけの家なのだった。自分の親なのだから、もっといい身分でなくては、ということらしい。彼女を本当に満足させるとしたら、きっと曹操様が彼女の親にならなくてはいけないだろう。
 私は曖昧に微笑み、ただ、そうね、機会があったら、とだけ返事していた。
 完璧に見える彼女にも、欠点はある。とても執念深いのだ。
 執念深いと言うと語弊があるかもしれない。
 記憶力が良過ぎるのだ。
 何気なく言った一言や、仕草をとてもよく覚えている。例え私がすっかり忘れていたとしても、どんなに日が経っていても、それは良く覚えているのだ。
 例えば、幼い頃……三つか四つの頃、私が彼女に椿を模ったかんざしを上げると言ったらしいのだが、十年も経ってから『まだもらってないけれど、如何したの』と尋ねられたことがあった。
 彼女にとっては十年も前の話も、まるで昨日のことのように鮮明なのだ。
 記憶力がいいということは、あまりいいことではないのかも知れない。
 私は、おそらくその当時に挿していたような、とおぼろげにしか思い出せないかんざしを彼女に諦めてもらうのに、その時一番お気に入りのかんざしを差し出さねばならず、自分が悪いのだと思いつつも、億劫さから彼女としばらく会うのを避けたくらいなのだ。
 もっとも、彼女はとても魅力的だったし、人のご機嫌を取るのもとても上手かったから、一月も経たないうちに私達は並んで歩いていたのだけれど。

 しばらくして私は、司馬懿様の下へ仕官できることになった。
 父は、いざ私の仕官が決まると、大層心配した。司馬懿様は、同じ軍師達の中でも生え抜きではあったけれど、やや難しい性格をしているのだという。でも、どんな人でも相性があるというし、私は仕官してから悩むから、と言って取り合わなかった。
 仕官間までの間はとても慌しくて、私は準備や事前の挨拶回りで連日へとへとだった。
 明日はいよいよ職務に就く、という日、やはり夜遅くになって、父の長い長い訓示から解放された私は、やっと休める、と牀へと向かっている所だった。
 突然、庭の木陰から彼女が現れたのを見て、心臓が止まりそうになった。曲者と見間違ったからではない。彼女が、私の屋敷に侵入してきたことに驚き、恐怖したのだ。
 驚いて立ち竦む私を、彼女は馬鹿にしたように笑った……私にはそう見えた。
「仕官が決まったのですってね、おめでとう」
 おざなりの祝辞に、私もまたおざなりに答えながら、さり気なく彼女の不法な侵入を咎めた。
 彼女は首を傾げ、不思議そうな顔をして言った。
「だって、表門から回っても、私に会ってくれないでしょう?」
 何故そんな風に思うのか、私には理解できない。けれど、確かに会いたいとは思えなかった(この時は何故だか分からなかったが)ので、表門から回ってきたら居留守を使ってしまったかもしれない。
「約束、覚えている?」
 何の、と問い返すと、彼女は深々と溜息を吐いた。嫌味っぽい。私はイライラした。
「仕官の話よ……貴方の仕官が決まったら、私を推挙してくれるって、そういう話だったでしょう?」
 彼女の言葉に、私は長い間の疑惑に答えを得た気がして、ついでにぞっとした。
 ずっと考えていたことだったのだが、彼女の記憶が鮮明なのは物覚えがいいからではない。捏造するからだ。自分の都合のいいように、自分に有利なように、勝手に作り変えた記憶を信じて疑わない。
「……仕官したてで推挙なんかできるわけがないわ。それに、私は機会があったらと言ったはずよ」
「またそんなことを言って、誤魔化すの」
 彼女の顔が怒りに染まる。醜く顔を歪ませているはずなのに、美しく見えるからずるい。
「ちゃんと約束したのに、貴女っていつもそうよ。そんなことで仕官ができるなんて、やっぱりお家がいいと違うわね」
 さり気なく無能とそしられて、私もいい加減に腹が立った。記憶を捏造するのは勝手だが、巻き込まれては迷惑だ。
「ともかく、何度も言うけど仕官したての新入りに推挙なんてできるわけないわ。それくらい、貴女にも分かるでしょう?」
「じゃあ、お父様に頼んでみてよ」
 まるで、そうすることが当たり前だと言わんばかりの言い様で、私はうんざりした。
 そこに父が通りかかった。
 私は驚き、彼女は喜んだ。止める間もなく、彼女は私が嘘つきだと詰る。とても流暢な口調で、美しい声で、高らかに私の悪行を紡ぎ出す。庭に潜り込んだのさえ、私が彼女と会うのを避けるからだということになってしまった。
 彼女の話を静かに聞いていた父は、彼女に仕官先を紹介すると約束してしまった。
 私は、父が私のことを信用してくれなかったのだということに衝撃を感じて、泣きそうになるのを必死に堪えた。
 父が、簡単に約定の書を記して彼女に渡すと、彼女は小躍りして去って行った。
 肩を落とす私に、父は優しく慰めの言葉を掛けてくれた。驚く私に、父は穏やかに言い含めた。
 世の中には、色んな人間がいる。彼女のような人も、いないではない。ああいう手合いは、何を言っても無駄だから、大人しく言うことを聞く振りをして追い返してしまうのが一番いい。
 次にまた何かあったら、まず私に言いなさい、と言って父は去って行った。
 父が私を信じてくれたのは嬉しかったが、彼女のような人が他にもいるのかと考えると、私はかなり憂鬱な気分になった。

 司馬懿様は、父の言うとおり気難しい方だった。けれど、筋が通っている分彼女より何倍も気が楽な相手だった。時折癇癪なども起こされたが、後でぶつぶつと言い訳めいた言葉を口篭っている姿を見ていると、可愛らしいとさえ思えた。
 結局、彼女のお陰で司馬懿様の下でも気楽に職務を務めることが出来たのだから、世の中は皮肉だと思う。
 司馬懿様は、頭はどうしようもなく悪いがめげない私がそれなり気に入ったそうで、私は僅か一年余りで副官に任ぜられた。大出世と言えよう。
 世間では、私が体を使って司馬懿様を誑し込んだなどとうそぶく輩もいたが、清廉な父のお陰か、悪評は沸いてもすぐに消えていった。
 私自身は、それらの悪評にまったく言い訳しなかった。それも良かったのかもしれない。
 本当は、言い訳しなかったのではない。できなかったのだ。
 私と司馬懿様は、男女の仲になっていた。何時からかも覚えていない。ごく自然に体を重ねていた。
 睦言など何もなかったし、関係ができてからも何も変わらなかった。場所も時間も定まらない。夜更けに司馬懿様の別宅を訪れることもあったし、不謹慎にも執務室で行為に及んだこともある。始まりも突然なら終わりも突然だ。司馬懿様と軍議の報告書を拵えている最中に筆を置き、事が始まり、終え、衣服を正すと同時に、何事もなかったかのように再度筆を取る、などということも何度かあった。
 情人と言うにも、私達は少し変わっていたと思う。情というよりは、生理的にわだかまる熱を処理していると言った方が合っているような気がする。特に、司馬懿様には。
 ある日、彼女が私の元を訪れた。
 ちょうど、司馬懿様が錬兵の為に執務室を空け、私は書簡の整理を言いつけられていた時だった。
 私は何となく、彼女は司馬懿様がいない時間を狙ってきたのだろうな、と思った。
「ご出世ね」
 一年前と同じようにおざなりな祝辞に、私もまたおざなりに返答した。
 約定のない再会に、私は彼女の言うことを予見して嫌な気分になった。
 私の予想通りに彼女は私の不実を指摘し、私が約束通り(一応念の為に言っておくが、もちろんそんな約束はしていない)彼女を推挙しないことに恨み言を述べ、けれど自分はまったく気にしていないと度量の広さを見せてから、今更でも構わないので約定を果たして欲しい旨を言い募った。
 私は、父が『まず自分に言え』と言った言葉を思い出していたが、私ももう司馬懿様の副官を勤め上げるまでになったのだ。彼女くらいあしらえなくてどうする、という気持ちがあった。
 司馬懿様に伺ってみる、と言うと、一筆書けと迫ってきた。私は細心の注意を払いながら、端的に、はっきりとした文言で『伺ってみる』と書いた。
 彼女は笑みを浮かべて立ち去った。
 厄介だと思った。

 司馬懿様が私の書いた文章を持って来たのは、彼女の来訪から一月もした頃だったろうか。
 黙って差し出された文章を見て、私は思わず驚きの声を上げた。
 内容が、書き換えられていた。『伺ってみる』とだけ記したはずの文章が、『約定する』に変わっていた。字面だけ見れば、確かに私の字に見える。だが、これは私が書いたものではない。
 困惑して司馬懿様を見上げると、にやりと笑って私の顎を取った。
 口を吸われて、吐息に熱が篭る。司馬懿様の薄い唇が首筋に移り、肌の表面に声が滑っていく。
「直接会ってみたが、なかなか面白い娘だ……使ってみようと思う。お前には、繋ぎになってもらうぞ」
 襟が寛げられて、胸乳が露にされる。司馬懿様は、私の胸乳がことの他お気に召しているようだ。飽かず指を這わせ、揉みしだき、吸う。
 私は、私の胸乳を飽かず愛して下さる司馬懿様が愛おしい。手をまわすような不遜は許されないが、想いの丈を篭めて司馬懿様を見つめる。最も、司馬懿様はそんな私の視線を厭うていらっしゃるようだったけれど。
 司馬懿様が彼女を使うと言うなら、私に拒否はできない。
 ただ、何時か私に咎めが来るだろうと予感していた。
 これも、父の言うことを聞かなかった私への罰なのだろうか。

 彼女は一兵士として蜀に潜り込んだ。埋伏の毒という奴だ。
 五虎将軍という、蜀の中でも特に身分の高い将軍の内の一人、趙雲という方の下に配属されたと言う。
 時折届く書簡は淡々としていたが、徐々に女独特の鬱陶しさが垣間見えるようになった。
 決行は三年後と決まっていた。彼女は草ではない。情報を流すのは役目ではない。だから、私と連絡を取るのは直前の一回だけでいいはずなのだ。なのに、彼女は私に書簡を送ってくる。そんなにしてまで送ってくる書簡の内容は、なるほど、色ボケした女の世迷いごとで、例え検閲されても一笑に付されるくらいだろう。それを見越しての上なら、大した演技力だ。
 たぶん彼女は、趙雲と言う将軍を本気で愛するようになったのだろう。噂で聞く限りだが、見栄えも良く、君主の寵愛も深いということだ。彼女には、自分に相応しい相手に思えたのだろう。
 私は、自分の首が飛ぶ日が近付いてきたな、とだけ思った。
 司馬懿様は、彼女が私の字を真似たか真似させて文章を持って来たのを知っていた。それでいて、敢えて彼女を使ったのだから、もう私に言い訳する機会はないのだ。不思議と恐怖はなかった。彼女が私の元を訪れ、まんまと私をはめたのだと分かった時点で諦めがついてしまったのかもしれない。
 司馬懿様が、彼女の何を以って『面白い』と評されたのか知らないが、案外人を見る目がないのかもしれない。そうでないなら、私にお手をつけるくらいだから、女を見る目がないのかもしれない。
 彼女は失敗する。
 私は確信を持っていた。彼女は確かに才能はあるが、奢る心を制することが出来ない。
 いや、むしろ失敗してしまえばいいとさえ思った。それは不思議な憎悪だった。自分の首を絞めるというのに、彼女の失敗を願わずには居られない。
 彼女から届く書簡の内容が変わったのは、三ヶ月ほど前だ。
 何でも、異国からやってきた女性がいるのだと言うことだった。あからさまに怪しいのだという。それだけ怪しいのなら、そちらに注意がいっていいことだと私は思った。
 だが、彼女は執拗にその女性の悪口(私にはそうとしか思えなかった)を書いて寄越した。私は半ばうんざりとしながら、彼女が如何に才能があって美しく、他に比類ないか、かけがえがないかを褒め称えつつ、あくまで郷里の友人としての範疇を越えないように、いいからおとなしくしていろと返事を返した。
 心にもないことを書面に綴っていると、胸焼けがして吐きたくなった。
 いらいらとして筆を投げ捨て、頭を抱えることもあった。
 ああ、もう確実に失敗するな、と思った。心と同じように体の方も萎えていくようで、司馬懿様の招きにも熱を入れることが出来なくなっていった。申し訳ない、と思う反面、原因は司馬懿様なのだから、諦めてもらうしかないとも思った。
 司馬懿様は何も言わず、ただ少し不満げに眉を顰め、私はそれにほんの少しの優越感と大きな苛立たしさを覚えた。
 貴方のせいだと、声を大にして謗れたら、どんなに気分がいいだろう。
 だが、私の性分から考えれば、できない相談なのだった。
 司馬懿様が私に手を出さなくなったのは、すぐのことだった。私はそれを悲しいと思ったが、どうしようもないのだと諦めた。
 埋伏の毒の決行日がようやく決まった。
 長年放置されていた死刑囚に、ようやく執行日が通告されたような感慨があった。ぞっとするような恐怖と同時に、やっと開放されるという安堵があった。もううんざりなのだ。
 思いの外、彼女は大人しかった。
 このままなら私の悩みなど単なる杞憂に終わって、司馬懿様の計は成功するかもしれない。
 五虎将軍の一人、馬超という方の下に潜り込ませた埋伏の毒は、恐らく本人も理解しないままに上々の成果を上げた。後は彼女が上手くやるだけだ。
 やれれば、だが。
 何故かイライラとしながら彼女の首尾を待っていたのだが、寸前になって私の元に届いた報は、最初の予想通り彼女が失敗したというものだった。
 例の女性に斬りかかって、失敗した挙句自決したのだという。
 愚かだ。
 呆れ返って物が言えない。溢れる才能を、こんな使い方しか出来なかったのか。
 身の程を知って誠実に勤めれば、こんなことにはならなかっただろうに。
 でなければ、彼女に求愛する男などそれこそ数多いたのだから、振り返らない男など諦めて、さっさと適当な男を捜せば良かったのだ。
 予想通りの展開に、私は何故かイライラしている。彼女が得意満面な顔で凱旋してきたら、それこそ腹を立てていただろうに。殺意を抱いていたかもしれない。戻れば、彼女はきっと司馬懿様の直属になっただろうから。
 イライラして、本当にイライラして、私は知らぬ間に泣いていた。
 みっともないと思いつつ、子供のようにむせび泣いていた。
 私は嫉妬していただけだ。
 どうしても彼女に敵わないから。口先ばかりうらやましいと言われて、自分の無能さをこれ見よがしに示唆されて、いいように使われて、でもどうしても彼女と別れることができなかったから。
 彼女は、最後の最後まで私の人生を自分の道具としてしか見ていなかった。
 そして、何が一番悔しいかと言えば、そんな彼女が私に一度でも心から感謝したことがなかったことだろう。今際の際まで、彼女の頭の中には私のことなど思い浮かばなかったに違いない。
 司馬懿様は、きっとこの愚かしい失敗を許さない。責任の所在を求め、私を罰するだろう。
 彼女の為にこれ以上罵られるのは、私にとってはあまりに耐え難い。
 机の上には、非常の時の為に手に入れておいた短剣が置いてある。鞘から抜けば、鋭く冷たい光を放った。
 これなら簡単に死ねるだろうか。
 私は震える指で、短剣の鞘を逆手に握り、そして――。


  終

Spread INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →