の口を初めて吸った時、は不思議そうに私を見上げ、次いで墨で僅かに黒く染まった指で唇を押さえ、はにかむように微笑んだ。
その微笑をもって、私はに受け入れられたと確信した。
は大人しい娘だった。
だが、私が求めれば、何時何処でなりと応じてみせる柔軟さを持ち合わせていた。
出世欲のためかと思っていたのだが、交合の最中に気がついたことがある。
の目だ。
じっとこちらを見つめるの目は、いつも少し潤んで、熱っぽい。下らぬ言い回しをするなら、切ないとでも言うのか。
決して腕を回してこないのに、目だけはいつも縋るように熱っぽい。
量りかねた。
の友人と名乗る女が私の元を訪れたのは、三年前の夜だった。
が記したという文章を差し出し、媚びへつらった笑みを浮かべる。世間的に言えば美しいと言って差し支えない娘だろう。私から見れば皮の美醜など、取るに足らないことではあったが。
半端に賢い女は、私を騙し果せるとでも思ったのだろうか。
文章の字は、確かにの字と似ていたが、撥ねの角度が微妙に違う。真似て書いたのだろう。稚拙なものだ。
まあ、捨て駒にするにはちょうどいい。
の字を真似た文章は取り上げ、代わりに私の真筆で一文くれてやると、女は喜び勇んで帰っていった。
馬鹿な女だ。
名は何と言ったか。に聞けば事足りることで、例え僅かでも、下らないことに私の知を使ってやる義務などない。
私は、の驚く顔を想像しながら、眠りに着いた。
私が文章を差し出すと、はやや不審気に私を見上げつつも、大人しく文章に目を通した。その顔が、さっと青褪める。やはり、偽の文章だったらしい。私の目に狂いはないのだ。
興が乗り、の口を吸う。は、常の如く逆らわない。
私は、時折焦れることがある。が逆らったり、我を忘れて取り縋ったりしないものかと、不思議な思いに駆られることがある。
絶対服従を身を以って示すに何の不服もないはずなのに、何故かの反抗を夢想している。
房中術など、興味もなかったが、いくらか修めておく必要があるだろうか。この大人しい娘が我を忘れて取り乱す様を思うと、それは大した手間ではないように思えた。
「直接会ってみたが、なかなか面白い娘だ…使ってみようと思う。お前には、繋ぎになってもらうぞ」
は返答をしない。私の指示に否は許されない。だが、私はいささかつまらなかった。
この娘が嫉妬して、醜く顔を歪ませているところを見てみたい。涙で悲嘆に暮れているところを見てみたい。
不思議な感情だ。不要とも思えたが、に限ってのことであれば、それほど負担にも思わない。
胸乳を露にすると、僅かにの体が強張る。衣で隠されていた肌が外気に触れ、萎縮するのだろう。
柔らかな肉は、指の形に添って歪にたわむ。吸い付くような感触に誘われて舌を這わせると、の肌が赤く染まり始める。
視線を感じて顔を上げれば、の目が熱っぽくなっている。
一途な目だ。だが、底の知れない目だ。
私は、私を包み込むような目を避けた。包み込めるほど矮小な存在では、私はない。
あの女のことはに任せ、私はその他の企みを進めていた。
下手な演技がばれぬよう、また、諸葛亮の目を欺くためには、多少の仕掛けが必要であろう。
単純な馬超の元に毒を仕込んだと見せかけ、趙雲の元に送り込んだあの女が本命の毒と化す。詰まらぬ計だが、為れば為ったで良し、為さねば為らぬで良し。
私に損はない。
三年の月日は、他事に紛れて過ぎていった。
私の思惑から真っ先に外れたのは、誰あろうだった。
従順で大人しかった娘の顔が暗く沈み、何時しか私の誘いを受け入れなくなっていった。拒まれたなら、いっそましだったかもしれない。いや、が私を拒絶することなど考えられない。
だが。
の体が、熱を帯びなくなっていった。
の目が、冷たく醒めていった。
私はの心変わりを…そう、恐れたのだ、と思う。
に別に男ができたわけではない。心を移したのであれば、取り返せばよい。だが、心が醒めていくのであれば、如何して元に戻せばいいと言うのか。
私に至らぬ点があったとは思えない。私は変わっていない。それとも、変わっていないことこそが醒める理由なのか。
馬鹿な。
私は、思いがけずうろたえる己の心根を叱咤した。
いや、は、任せられた職務に忠実なのだ。戯れに仕掛けた埋伏の毒が、そろそろ詰めの段階に来ている。きっと、そのことで気がそぞろになっているに違いない。
では、さっさと仕掛けてしまおう。失敗しても、何の痛手もない計だ。
に決行日を告げると、安堵したように微笑んだ。
やはりか。やはり、はこの戯れの計に思わぬ重責を感じていたのか。凡愚の娘の考えることなど、私には量りかねる。
だが、もう安心だ。
の、言葉と態度にしての拒絶を…そう、恐れて…避けていたが、事が済めば、私達は元の通りになるはずだ。職務の最中に筆を置き、口を吸い、柔らかな胸乳に触れ、控えめなの吐息を聞く。緩やかな私達の時間が、もうすぐ戻ってくるはずだ。
の微笑が、私に確信させた。
下らぬ理由で計が崩れたとの報と、の死の報は同時にもたらされた。
愕然とした。
私の皮膚は毅然を保ち、私の声は震えることもなかった。
だが、私は愕然としていた。
何故だ。
私の頭は事後処理の為に回転し、声はそれを言葉に変換し、腕と指は指示の為にあちらこちらを指していた。
けれど、足は動かなかった。縫い止められたようにぴったりと、その場に竦んでいた。
足だけが、絶望した私の意に添っていてくれた。
私の口がの死を軽んじ、侮蔑し、吐き捨てた。
面倒だが仕方がない、という言葉が聞こえた。
葬儀の前に、死に顔なり見ておいてやるか、との声は、私のものだった。
多忙故、葬儀には出られぬかも知れぬからな、と、哂っていた。
何故、私は、そんな。
私の重い足が、前へ進む。
何故、進む、足だけは、私の意に、添っていたはず。
歩けば歩くだけの死が現実になるはずなのに、私は拒んでいるのに、足は前に進んでいく。
何故。
私が幾千幾万の疑問を投げかけている間に、私の足はの室に私を運んだ。
の亡骸は、室の長椅子に横たえられていた。置き場所に困ってのことだろうが、そうしているとはただ眠っているようにも見えた。刃物で胸を突いて、ということだったが、侍女が清めたのか、の肌には血の痕がなく、着物も新しいものに変えられていた。
本当に死んでいるのか。
死体など見慣れていたはずだが、私にはどうしても死体に見えなかった。
肌が、血の気を失って青白い。
触れれば、熱はとうに消え失せ、冷たくなっていた。
私は、人払いを命じていた。私の見得は、何処までも救いがたい。
人の気配が消えると同時に、私はの襟を寛げ、の胸乳を晒した。
外気に触れても微動だにしない胸乳の下に、細く小さな傷跡が見えた。
これがの命を奪ったのか。
こんなちっぽけな傷で、は死んだのか。まさか。こんな傷で。そんな馬鹿な。
傷口に触れようと指を伸ばすと、の胸乳が先に指に触れた。
いつも柔らかで温まっていた肉が、冷たくなって固く張っていた。
ああ。
ようやく私は理解した。
は死んだ。
死んでしまった。
何故だ。
ようやく私は自分を取り戻した。
目は涙を流し、喉は嗚咽で震え、手はの屍を掻き抱き、足は立つことを拒んで崩れ落ちた。
何故だ。
何故死んだ。
私の執拗な問いに、が答えることはない。
従順な娘は、死の沈黙を以って私を拒絶したのだ。
終