何とはなしに、自分は賢いと思い込んでいる節がある。
 時折我に返って、羞恥に身悶える思いだ。
 ただ、今は身悶えるどころか己の思慮の足りなさに憤死してしまいたいくらいだった。

 あの方が言う所の『飛ぶ』瞬間まで、私の差し出した手の上には殿の手があった。
 私の手とは比べようもないほど、優しい暖かな手は、だが私が『飛ぶ』瞬間、何かに弾かれるように離れてしまい、私は殿を置いてきてしまった。
 気がつけば、私は一人で『飛んだ』場所に立っていた。はぐれていた部下に合流し、どれぐらい私の姿が見えなかったか聞くと、ほんのわずかと答えが返ってきた。日さえ跨いでおらず、見上げた空に輝く日輪は、確かに私が『飛んだ』時とはあまり位置を違えてはいなかった。
 私は後悔した。
 従兄上のように、無粋でも思いのままに殿を抱きかかえていれば良かったのだ。せめて、殿の手を力いっぱい握ってさえいれば、今この傍らにあの微笑を見ることが出来たのに。

 あの方に話をするのは憚られたので、私は趙雲殿の元に赴き、あれこれと伺うことにした。
 最初、私があの方の世界に行って来たと言うと、趙雲殿は酷く驚かれたようだった。否、狼狽していたと思う。まず訊かれたのが、『何処から行ったのか』という点からして、趙雲殿はあの方が帰ってしまう可能性を危惧したのだと思う。
 成都でも相当北に位置する場所であるし、私もたまたま通り縋ったに過ぎないから、あの方が見つける可能性はまずないと伝えると、趙雲殿は冷静を取り戻したようだった。
 本当に、趙雲殿はあの方を好いていらっしゃる。
 従兄上と比べるのもおかしな話だが、こうまで思われているのを見るにつけ、あの方が誰を選ぶのか心配になる。
 私の顔に憂いが見えたのか、趙雲殿は丁寧に詫びると、部屋付きの者に言いつけて茶の支度をしてくれた。
 言い忘れたが、私は執務中の趙雲殿を訪ねていた。従兄上と違って真面目な趙雲殿が、執務を放り出して私の話を聞いてくれるところからして、趙雲殿のあの方に対する思いの深さが知れようというものだ。私としては、後日訪問の約定を交わせればと思っていたのだったし。
 趙雲殿の話では、『呼ばれた者』以外の人間を連れて行こうとすると、物凄い力で弾き飛ばされるのだという。あの方をこちらに連れてくる時も、凄い力で引っ張られて、抵抗したが最後の最後で弾かれてしまったのだという。
「では、はぐれたのはその時……?」
 私の不躾な問いかけに、趙雲殿は気にした風もなく黙って頷いた。
「時の流れがどのように流れているのか、私には判別がつかない。馬岱殿には慰めにもならないかもしれないが、置いてきたというならその方が却って良かったのではないだろうか」
 そう言われて、私ははっとした。
 中途半端に手を引いて、例えば殿を五十年先に飛ばしてしまうような事になったらどうなっただろう。考えるだに恐ろしく、また申し訳ないような気持ちでいっぱいになった。
 ならば、これで良かったのだ。
 殿は、住み慣れた自分の世界で今もお元気でいらっしゃるに違いない。側に私がいないのは、とても残念な事ではあったが、殿のように優しい可愛らしい方なら、いつか私よりも良い男が現れるに違いない。
 私が一人、自分を納得させていると、趙雲殿がわざとらしく咳をした。
「馬岱殿、この事はどうか……」
 私から見た時は、真っ白な中に線と殿しかいなかったようなおかしな世界だった。ひょっとしたらあの方の世界とは少し違っているのかもしれないし、無責任に望郷の念を掻き立てることもあるまい。従兄上のこともあるし、私は趙雲殿の申し出がなくとも、あの方には黙っているつもりだった。

 噂をすれば影と言うが、私が趙雲殿の元を辞して従兄上の執務室に向かっているとすぐ、角からひょっこりとあの方が現れた。
「やぁ、馬岱殿。孟起が逃げ出したの?」
 挨拶と取っていいのだろうか、従兄上が聞いたら怒鳴りそうな言葉に、けれど私は笑ってしまった。
「いいえ、ちょっと用事があって……これから戻るところなのですよ」
「そうなんだ。私はね、丞相のところに質問しに来たとこなんですよ」
 訊く前に察して教えてくれる辺り、この方は本当に頭がいい。ひょっとしたら、何も考えていないかもしれないが。
「……ちょっと、お尋ねしてもよろしいですか?」
 何となく訊いてしまった。
 もし、貴方に愛する人が出来て、その方と離れ離れになって、もう会えないかもしれないと思ったら如何しますか。
 埒もない質問だ。他愛のない、答えのない類のもので、私自身、どんな答えを期待しているのか分からない。
 答えが返るまでの暇は、ほんの数瞬だった。
「……信じるかなぁ」
 私が想定していたどんな答えとも違っていて、実際顔に出てしまうほど拍子抜けした。
「信じる、ですか」
 私の顔が余程気に触ったのか、顔を赤くして手をぶんぶんと振り回しだした。
「な、な、何、そんなに変スかーっ?」
 変ではないが、予想外だ。
 正直に申し述べると、まだ顔は赤かったが、腕を振り回すのは止めてくれた。私は鎧を着けているので、ぶつけたら痛いのがどちらかは分かりきっている。握り拳を作られていたが、やはりこの方の手も殿と同じように優しい、女性の手だ。痛い思いはさせたくない。
 私の視線は、幸いにも気付かれなかったのか滔々と説明が始まった。
「だってさ、会えるってすごい事でしょ。袖すり合うも他生の縁とか言うけど、この世の中は広くて、一生かけても会えない人だっていっぱいいる訳だよ。そんな中で出会って、知り合って、この人だって思ったわけでしょ。それってホントにすごい事じゃない? そしたら、そんなにすごい人なら、もしかしたらまた会えるかもしれないって、いやどうしても会いたいって私なら思うよ。だから、信じる」
 また、貴方に会えることを、信じている。
「……そうです、か……」
 目から鱗が落ちる、とはこういうことなのだろうか。
 きっと、殿も、同じように思っている。
 そう信じても、いいだろうか。
 私を待っていて下さる、そう信じても、許されるだろうか。
 ひどい自惚れだ。これではまるで、従兄上ではないか。
 でも、それでも、そう信じたい。
 私が、嫁御にいただくと言った言葉を、どうか殿も信じていると思わせて欲しい。
「この世で、二番目に貴方が好きです」
 何の気なしに零れただけに、本心からの言葉だったのだが、けらけらと笑われてしまった。
「酷いですね、結構本気で言ったんですよ」
 私の抗議を、何処吹く風ともなくやり過ごして、また笑う。
「良くて、三番目でしょ」
 うっかり従兄上を抜かしてしまっていたことに気付き、思わず赤面した。
 私の横を通り過ぎる時、耳元にひっそりと囁かれた。
「私も、馬岱殿のことが好きですよ……だから」
 頑張れ。
 振り返り、目で追うと、あの方は振り返りはしなかったが、拳を高々と上げて私に再度『頑張れ』と告げる。
 しゃんと背を伸ばして歩く、あの方の後姿を見送った。
 萎れていた気持ちが嘘のように、胸の中が温かくなっていた。
 信じよう。
 殿が、決して私を忘れていないと、殿もまた、私を信じて下さっていると信じよう。
 そう、頑張って……信じよう。
 これからの予定をざっと思い起こし、再びあの場所へ赴く算段を考えながら、私は従兄上の執務室に向かった。
 信じるだけでは、私には足りない。行動を起こさなければ。
 その為にはまず時間を作らねばならず、時間を作る為には従兄上には馬車馬のように働いていただかねばならない。

 私は、自身としては悲壮な覚悟を胸に、鬼になる決意をした。


  終

Spread INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →