それほど大きくない池ではあったが、あの白と赤の二色の蕾は見当たらなかった。
 泥の中に沈んでしまったか、何処かに流されてでもしてしまったらしい。
 朝の清らな光が、僅かに揺れる水面を輝きに満たす。もう一度、水賊上がりの目をよく凝らして探すのだが、やはりあの花を見つけることは出来なかった。
 周泰が諦めてその場を離れようとした時、ちょうど孫権が現れた。
「どうした周泰。このような所で、何か探し物か」
 主に問われれば、答えざるを得ない。まして、警護すべき主から離れてのことだったので。

 花を取り落とした時、の惜しむような、淋しそうな声が忘れられない。
――あ、花。
 呟くように、小さな花がぽつりと咲くような声は、周泰の耳元で幽かに木霊している。
 出来得るならば、あの花を、あの花をこそに返してやりたかった。

 孫権は、言葉少なな周泰の説明を聞き終えると、黙ったまま歩き出した。周泰が後を追うと、孫権はが見上げていたという空木の元へと足を運ぶ。
「……この花、だろう?」
 白から赤へと色を変える不思議な花は、偶然にも孫権が好きな花だった。孫権自らが指図して植えさせた花を、が見上げていたという。
 歌の上手い、だが落ち着きのない女だが、花が好きなのだろうか。だが兄は知るまい、知っているのは……。
『何を、馬鹿な』
 孫権は背後の周泰を振り返り、少し太めの枝を指し示した。
「これを、兄上からだと言ってあの女に届けてやれ」
 丈夫ですぐに根付く花だから、切って生けてもしばらくは楽しめるだろう。疲れから、熱を出して臥せっていると聞く。好きな花を見れば幾らかでも慰めになるかもしれない。
 そこまで考えて、いくら兄が想う相手とは言え、たかだか一人の他国の文官にそこまで気を使うのがおかしく思えて、孫権はやや焦りながら周泰を振り返った。
 頬に涼やかな風が触れる。
 ざん、という小気味良い音と共に、空木の太く斬られた枝がくらりと揺れ、伸ばした周泰の腕に落ちた。
「……何か……」
 己の護衛ながら、見事な早業と太刀筋である。
「……いや、なんでもない」
 惑う間もなく落とされてしまった空木に、哀れともつかない感情を覚える。
 周泰の手の中にある空木の蕾にそっと触れると、冷たい薄布の感触が伝わってきた。
「……早く、持って行ってやれ。花器は、家人に申し付けて何か適当な物を見繕わせるといい」
 主を一人残すことに、わずかに躊躇いを見せる周泰に、屋敷の中で何を心配することがあるかと軽くいなして送り出した。
 少し、一人になりたかった。

 の歌う歌は、なるほど本人の言うように俄然恋の歌が多く、呼びかけるような内容の詩が多い。だから、歌っているがこちらに目を向けてきたりすると、心臓が酷く跳ね上がる。
――ただ、君を
 その目が、潤んでいるような気がして。
――ただ、君を
 自分に向けて、歌いかけられているような気がして。
 孫権は、嘆息するように深く息を吐き出した。
 馬鹿馬鹿しい、あれは、兄上が好いている女なのだ。
 別に美しいと言うわけではない、愛嬌がある顔立ちだが、表情の豊かな女だが、礼儀知らずと言えばそれまでで、人懐こい笑顔を浮かべるかと思えば途端に強張った顔をする。
 そんな女が今まで周りにいなかったから、物珍しくて気になる、だけだ。
――ただ、君を、愛しく、想っている
 の歌う歌は恋の歌が多い。世界でただ二人が在る、そんな歌が多い。別れの歌だったり、愛しいと告げる歌だったり、様々と言えば様々だったが、だが、呼びかける歌が多い。だから勘違いするのだ。
 酒に酔って、歌に引き摺り込まれただけ、ただ、それだけだ。
――ただ、君を、密かに、知っている
 何故かの歌った歌のこの一節が、ずっと孫権の耳に残っている。
「密かに、知って……」
 無意識に口に出し、慌てて口元を抑えると辺りを伺う。誰もいない。
『何をしているのだ、私は』
 苛立ち、足音も高く孫権は屋敷に足を向けた。
 甘い、柔らかな歌声は、けれど孫権の耳から離れることなく繰り返された。

――ただ、君を……。


  終

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